第7話

文字数 11,079文字

私たちが小綺麗な一軒家の玄関に立ったのは、それから一週間後の昼下がりだった。七月はとうに終わり、八月も半ばという頃の事である。
「松島、よろしく頼むよ。」
私は彼の耳元で囁く。松島は深い溜息をついた。
「本当に気をつけてよ。」
「うん。」
彼が物陰に隠れたのを確認し、私は玄関のチャイムを鳴らす。返事はない。
もう一度。今度こそ屋内で人の動いた気配があった。
「はい。どちら様でしょうか。」
インターホン越しに女性の声が聞こえた。私は松島の姉から借りた倫明の制服を見せつけるように堂々と立つ。
「初めまして、私は結衣さんの友人の成瀬紫と申します。本日は休学中の結衣さんの為にいくつかプリントを預かって参りました。突然の訪問で申し訳ありませんが、直接受け取っていただけないでしょうか?来年度の進級について説明した資料もあると教師から聞き及んでおりますので。」
沈黙が数秒。そして、繕ったような明るい声が聞こえた。
「ええ。わざわざすみませんね。今行きますからちょっと待っていて。」
鍵の回る音がして、扉が開く。
中から出てきたのは上品な中年の夫人であった。クリーム色のシャツに、涼しげな生地のロングスカート。綺麗に巻いた栗色の髪に、薄いネイルを施した指先。確かに彼女が子供に暴力を振るう姿は想像しにくい。経済的に困っている様子も伺えなかった。
「暑い中来ていただいて立ち話というのもなんだから、中へどうぞ。」
「ご丁寧に有難うございます。お言葉に甘えて失礼致します。」
「まあ、礼儀正しいのね。うちの結衣とは大違いだわ。」
「いいえ。結衣さんにはいつも本当に良くして頂いていました。それがあんなことになってしまって・・・」
「・・・そうね。私もかなりショックだったわ。早く目覚めてくれるといいのだけれど・・・」
通されたリビングは全体的に白い家具で統一され。掃除も行き届いている。夫人の態度も至って常識的だ。
「麦茶でいいかしら?」
「いえ、お構いなく。それで、こちらの封筒が預かってきた資料になります。かなりの期間を結衣さんは休んでいるので、進級のことはまだ未定だと思いますが、来年度は一応最高学年ということになりますから、受験説明会などの日程表も同封されている筈です。」
「はい。確かに。結衣もいよいよ大学受験か。こっちの方が心配になってくるわ。つい最近高校受験をしたと思ったら、もう大学受験。嫌になるくらい早いわねえ。」
「ええ。私たちも正直気が重い話ですね。」
「ところで、成瀬さんは結衣のクラスメートかしら?」
「昨年度のクラスメートでした。今年は違います。けれど、私が結衣さんと親しくしていたのを先生も知っているので、わざわざ私に頼んだんだと思います。」
「成る程ね。いつも結衣の事を有難うね。」
心の中で苦笑いする。この制服はフェイク。今は学校まで違いますとは当然言えない。プリントは講習の為、倫明に赴いた松島に貰ってきてもらった適当なものである。
「ところで、結衣さんのご様態は如何でしょうか?」
飯塚夫人の顔が微かな影を帯びる。
「体の方はもういいみたいなんだけど、何故か意識が戻らないのよ。お医者様も不思議だって言っていてね。もうどうしていいのか。」
ここからが勝負だ。
「実は、友人たちの間で結衣さんの為に何かの支援を出来ないか考えていた所なのです。なにか、お困りのことで、私たちがお手伝い出来ることはありませんか?」
「・・・お困りの事って言っても・・・あとは結衣の問題になってしまうし、金銭的なことくらいしか・・・」
私は小さくほくそ笑んだ。
「金銭的な事でしたら、募金を募る事は可能かもしれません。学校に掛け合って募金箱を設置し、一月の間生徒たちから支援金を集める事はできると思います。」
「本当に?」
彼女の声のトーンが微かに変わる。
「ええ。実はそれもアイデアの中にあったのです。」
「それならお恥ずかしい事だけれど是非お願いしたいわ。」
先程までの常識的な態度から考えれば、夫人の様子は少しおかしかった。
「しかし、そうなりますと、結衣さんの健康状態を明記しなければならなくなります。彼女が今どういった状態で、どのような医療的支援が必要なのかをはっきりさせた上でなら、それも可能です。」
「健康状態を明記・・・」
私は精一杯の演技をする。暗い表情を作り、少し低い声で。
「・・・あの、結衣さんの体に暴行の痕があったというのは本当なのでしょうか?」
夫人の表情が凍りつくのを、私は見逃さなかった。
「それは、どこで・・・」
「いえ。ご気分を害されたのならばすみません。学校で、結衣さんが暴力を受けていたという噂が広まっているのです・・・不躾な事をお尋ねしている自覚はあります。しかし、友人として真偽を確かめ、それが嘘であるというのならば、誤った噂は正さねばなりません。ですから、お教え願えませんでしょうか?」
「学校で・・・?」
「ええ。学年中に広まっています。そして、それがもし本当であるならば、募金活動の内容にも十分関わってきます。」
「・・・そんな事実は、ないわ。」
その瞬間に、なんとなく悟った。やはり結衣に暴行を加えていたのは母親だ。私は立ち上がる。
「じゃあ、これは何?」
鞄をひっくり返し、大量の紙を辺りにぶちまける。それは、結衣の背中の写真だった。切り傷、痣、火傷、引き攣れたような傷の数々。
「何、これ・・・」
大きく息を吸う。
「見りゃあわかるだろう。あんたの娘の写真だよ。あんたを疑っている児童福祉課の知り合いからくすねた。」
何故、私に児童福祉センター勤務の知り合いがいるかって?
虐めにあって、心を閉ざした私を無理やり社会復帰させた人間がそこにいるからである。実際には失踪していた私の精神のケアを、注意深く行ってくれた彼女は、私から見ても大人気ない程豪快な人だ。彼女の明るさに背中を押されて、私は今の高校に入り直したと言っても過言ではない。彼女を裏切るような行為は本意ではなかったが、背に腹は変えられなかった。
「ねえ、飯塚サン。あんたがやったんでしょう?」
私は笑った。
「隠しても無駄。だって、私知っている。」
夫人は殺気立った視線を私に向ける。いい調子だった。
「根拠は?」
「結衣に直接聞いたの。そして私はね、彼女の音声を録音していた。」
「・・・何が言いたい。」
「物分かりが悪いなあ。おばさん。私はそれを今から警察に提出しに行くって言っているの。」
私は鞄を軽く叩いた。この中にレコーダーは入っていますよ、とでもいうように。勿論、それは嘘。
しかし、夫人の顔色は真っ青だった。
「でもとりあえず見ておこうと思ったんだ。結衣に傷をつけた張本人の顔をさ・・・でも、その価値もなかったわ。だってなんとも間抜けなんだもの。さすが旦那に捨てられただけあるよね。娘にあたって楽しかった?おつむが弱いとそういう楽しみもあるのかもね。」
青ざめていた彼女の顔が、今度は赤く染まってゆく。
そうだ。私は怒りが欲しい。もっと真剣な怒りが欲しい。だから、本性を晒せ。私は玄関の方へ体を向け、わざと振り返って言った。
「馬鹿じゃないの?」
「・・・言わせておけば、言いたい放題言ってくれるじゃない!」
彼女は立ち上がり、鬼のような形相で私に迫ってくる。
「渡せ!その鞄を渡して!」
手が伸びてくる。私は逃げそうになる足を踏ん張った。
「やらない。結衣のことを大事にできない女に、これはやらない。」
胸ぐらを掴まれ、床に叩きつけられる。馬乗りになって私を見下ろす哀れな女の顔が見えた。
振りかざされる手。ほら、やっぱり。日頃から暴力を振るっている人間は、いざという時に自分を抑えられない。すぐに手が出てしまう。私はその瞬間を待った。
殴れ。私を。
目を瞑る。乾いた音が響く。
ところが、痛みは訪れなかった。
「そこまでだ。」
聞いたこともないような低い声が響いた。
「ま、松島?」
私は驚いて目の前の人物を見つめる。殴られる瞬間に松島が割って入ったらしい。代わりに彼の頰は赤く腫れている。
「玄関に鍵がかかってなくてよかったよ。」
「誰よ、あんたたち。」
上品だった態度が嘘のような言葉遣い。夫人は呆然として私たちを見つめていた。
気がつくとサイレンの音が聞こえていた。玄関の扉が開閉する。二人の警察官が姿を現すまで数秒。私たちは睨み合った。
「友人が暴行されているという通報を受けた。現行犯で逮捕する。とりあえず署まで来てもらおうか。事情はそこで聞くから。」
勿論、通報を行なったのは松島である。
家に入ってから今まで携帯の通話を繋いでいたのだ。全てはタイミング。ちょうど彼女が激昂すると同時に、警察には到着してもらわなくてはならない。会話から状況を判断し、通報をするのが松島の役目だった。そして彼は最高の仕事をしてくれたらしい。
状況を理解したのか、飯塚夫人は吠えた。
「はめたな!」
私は警察官に押さえつけられてなお暴れ狂う女を、静かに見つめた。背中がじんじんと痛んでいる。言いたい事は山ほどあった。彼女の行動や態度を見ていればわかる。きっと、夫人は一般的な人間だった。少なくとも一人娘に暴行を加えるような母親ではなかった。けれど、いくつもの裏切りが彼女を変えてしまったのだ。旦那の、社会の、自分の。全てがやりきれない。
「クソ餓鬼どもが!なんの責任も負わずに学校行って、飯食って、のうのうと生きているお前たちに何がわかる!」
「何もわからない。」
言ったのは、松島だった。私は彼の表情を見てぎょっとする。彼は怒っていた。静かな顔に不釣り合いな程、瞳がぎらぎら光る。
「わかんないんだよ。俺らは人間だから、分かり合えたりしないんだよ。貴女の苦しみは貴女の苦しみで、それは誰にも理解されない。そして、結衣とあんたは違う人間だろう。なら、結衣にもわからなくて当然だ。だから、」
その場の全員が黙っていた。
「ふざけるな!」
大音量だった。
「青春は、命懸けなんだよ!」
耳の奥で高い音が聞こえた。松島がくるりと振り返る。
「紫。」
淡い照明の下で、彼の瞳が青く見えた。私はぼんやりとそれを眺めた。
背中が痛い。なんなら首元も痛い。どうやら胸ぐらを掴まれた時に、彼女の磨かれた爪が肌を裂いたらしい。その痛みが、今は結衣との繋がりで、現実の証明だった。
「大丈夫かい?」
警察官のお兄さんは私を労わるように手を差し伸べてくれる。
「何があったのかを知りたい。手当もしなくてはならないから、一緒に来てくれるかい?」
私は頷いた。
馬鹿みたいな事をやっている自覚はある。こんな事しか思いつかなかった自分の馬鹿さ加減にもがっかりする。けれど、これは必要な事だった。今なら断言できる。私たちはリスクを追わなくてはならなかったのだ。現実を変える為に必要なのは、行動への責任である。
「飯塚さん。」
私は玄関を出て行く彼女に呼びかけた。
「私のこと、覚えていてね。私の名前は成瀬紫。貴女が恨むべき相手は私だよ。」
彼女は何も言わなかった。

警察署に飛んできた松島の両親は、私たちの傷を見てひどく嘆いた。そして猛烈に怒った。結衣の母親に。そして、無謀にも彼女の家へ赴いた私たちに。彼らはまともで、私たちには当然言い訳のしようもない。だからただ、黙って説教を受けた。
こうあるべきだ。家族は子供の為に嘆き、怒り、喜ぶものだ。私の家族も、翔真の家族も、きっと同じ反応をする。
私は今頃大騒ぎになっている実家の事を思って、ほんの少しうんざりする。また同じ説教を一から受け直さなくてはならない。それでも、彼らが私の為に真剣になってくれるから、安心して青春に命を賭けられるのだ。
それを、結衣は失ってしまった。
事の重大さを、今になって思い知る。
全ての手続きが終わり、漸く警察署を解放されたのは既に日が暮れてからだった。松島の両親はまだ話があるということで、私たち二人は先に帰されることになった。
人のまばらな電車の中で、沈みゆく夕日に照らされる。
「・・・紫、傷は本当に大丈夫なのか?」
「うん。私は軽い打撲と引っかき傷程度で済んだから。幸い頭は打ってないし大丈夫。そっちこそ大丈夫なの?」
「まあ、俺は顔で売ってないから。」
「そういう問題?」
「我ながら、愚かな事ばかりやっている・・・」
「格好良かったよお。青春は命懸けってやつ。」
「やめてくれる?完全に黒歴史を一つ製造してしまった・・・」
大きな溜息。確かに、ああいう激情は松島らしくない。しかし、私はすっきりした。
「でもさ、本当に、ありがとう。庇ってくれて。」
松島は遠くを見つめながら頷いた。
「ああ。」
これで一つ。暴力事件を犯したことで、結衣の母親は法的にもかなり追い詰められた筈だ。多分、結衣は目覚めても、母親と二人きりで暮らす事にはもうならない。
「結衣を、迎えに行かなくては。」
「・・・そうだね。」
あとは、なんとかして彼女を説得しなければならなかった。
死に際に燃える太陽は、驚くほど赤く電車の中を照らす。目の痛くなるような濃い陰影の中で、私たちは立ち尽くした。席はいくらでも空いているのに、座る気にはなれなかった。
「・・・紫、あの空間を壊してしまおう。」
松島は静かに言う。
「多分、あれだけ広がってしまった空間はそう簡単にはなくならない。だけど、空間の核である意識。つまり、幽霊がいなくなれば向こうは無秩序に陥り、現実に干渉する力も失うと思う。だから、俺たちが次に対峙しなければならないのは、やはり結衣の分身だろう。」
「・・・結衣の願い、か。」
「うん。」
松島が私の顔を見る。私も彼を見上げた。
「紫。もう一度、向こうへ行ってくれるか?」
律儀で、真面目な松島。昔から彼はこうだった。彼は物事に対して、いつも誠実だった。そう言う所が私は堪らなく好きで、嫌いだ。
「・・・君に話した通り彼処へ行くのにはリスクが伴う。それに真実を知った今、君には精神的な負担も大きいだろう。だから、俺は決してそれを強要する事は出来ない。紫が断ると言うのなら、もうこれ以上君を巻き込んだりはしない・・・よく考えて決めてくれ。」
私にいい子をやめろと言いながら、いつでもいい子なのは松島だ。彼は誠実で慎重で、優柔不断。私は小さな復讐を試みた。
「・・・卑怯者。」
「え?」
「松島はどうして欲しい?貴方が私を此処まで連れてきた。他でもない貴方は、どうして欲しいの?」
彼は呆然と私を見つめ、やがて苦笑いを漏らした。
「・・・俺に言わせる気か。」
「当然。」
もう何度目かも分からない溜息が、空気に溶ける。
「・・・手伝ってくれ。結衣を連れ戻す為には、君の力が必要だ。」
思わず頰が緩んだ。
「なんか、そう言われると悪い気はしない。」
「紫が言わせたんじゃん・・・で、答えは?」
目を細めて笑う。太陽は沈んだ。逢魔時が始まる。
「受けて立つ。」
最後に残った場所は二つ。東階段と、美術準備室だ。
「松島、何があっても恨みっこなしだよ。私たちはいくつもあった選択肢を、自分で選びとったのだから。」
「ああ。夏休みが終わる前に、決着をつけよう。」

***

お盆。正式名称は盂蘭盆会。故人の魂が年に一度帰ってくる時期で、期間は一般的に八月の十三日から十六日。最も重要な日は十五日であるとも言われる。
「紫、結衣の体に異変があったんだ。」
松島からそんな電話が掛かってきたのは、八月十三日の夜のことであった。
「どう言う事?容態が悪いの?」
「いや・・・どうやら快方に向かっているらしい。目を、覚ますかもしれない。」
その言葉に思わず唾液を嚥下する。
「・・・その場合、幽霊が?」
私たちは黙り込んだ。結衣の意識は未だに倫明に留まり続けている。となると、目を覚ますのはもう一人、場所の幽霊である可能性が高い。
「俺、思うんだ。多分だけど、結衣が目を覚ますのは、明後日なんじゃないだろうか?」
「え?」
「八月十五日。この世ならざる者達が最も活発になる日だよ。あれを幽霊と定義するなば、きっともう一人の力が強まるのも十五日。盆休みが始まる今日に、異変があった事を踏まえると、やはり狙いは・・・」
「もしかしてだけど・・・一刻の猶予もない?」
「幸い、今日はまだ十三日。明日、付き合ってくれ。」
私は頷いた。
「正直抜かった。俺はもう少し後になると思っていたんだ。多分夏が終わる頃になるだろうと予想していたけれど、案外倫明の侵食は進んでいたらしい。」
「明日で決着をつけなければ、手遅れになるって事?」
「・・・分からない。今回の事は俺にとっても未知数過ぎる。けれど結衣本体の、タイムリミットなのかもしれないね。」
私は以前見た夢のことを思い出した。地面が割れ、結衣が遠ざかってゆく。映像はまだはっきりと頭に残っていた。
「・・・そうかもしれない。」
私は呟く。結衣の母親に会いに行ってから、まだほんの数日。正直精神的にも肉体的にも、もう少し時間が欲しい所だ。しかし、幽霊の方は待ってくれないらしい。
「行くしかないね・・・でも、お盆休みの学校に人なんている?」
松島は黙った。
「・・・えっと、なんて言うかさ。」
やがて聞こえてきた声は、なんとなく気まずそうである。
「俺、鍵を一本拝借してきたんだ。」
「は?」
私は思わず目を瞬いた。
「盗んだって事?」
「いや、盗んだわけじゃない。黙って借りて来ただけだよ。」
「それを世間では盗みと言うんだよ・・・因みにいつ?」
「・・・前回倫明に行った時。ほら、用務員室に傘を借りに行っただろう?」
「・・・貴方、そういうやんちゃな事をできる質だった?」
「結衣の母さんに、あの仕打ちをしでかした人間には言われたくない。」
「松島も共犯でしょうが。」
笑いがこみ上げてくる。
「最低だあ。私たち最低だよ。」
「まあな・・・」
「私なんて、もう問題児とか言うレベルじゃないよ。去年は大掛かりな失踪をして、今年は暴力事件に始まり、学校への無断侵入・・・」
「人の命が掛かってると思えば・・・」
「世間一般の人から見れば、なんの説得力もないよ・・・大丈夫かなあ。将来就職できる?」
フォローの言葉を失ったのか、松島は再び黙り込む。
「・・・とにかく、今は行くしかないよ。就職の時は、今回の事をアピールポイントとして書け。」
「私ならそんな奴、採用しない。」
「俺も。」

十四日の朝は早かった。お盆休みで学校へ向かういつものバスが出ていないのだ。立地の悪い倫明へは、他のバスを乗り継いで行かなければならない。
朝七時。駅前に辿り着いた私は、そわそわと動き回る松島をうんざりと眺めた。
「何しているの。」
松島は私の声を聞くなり、びくりと肩を震わせた。
「いや、なんか緊張して。」
「今から緊張してどうするの。」
「そうなんだけどさ・・・」
空には、夢のように白い月が浮かんでいる。穏やかな朝だった。既に気温は高く、体は微かに汗ばんでいる。
「で、方法はあるんでしょう?」
「・・・ああ。とりあえず本物の結衣に会うんだ。あれはあくまでも結衣の願い。しかも、現実から逃げ出したいという特定された願いだ。だから、結衣本人が、心の底から別の事を願えば、場所の幽霊は存在意義を失う。そして、空間が意思を失えば、彼女に作られたもう一つの倫明も崩れるだろう。記憶はただの記憶に還り、過去は過去に戻る。」
「でも、ずれた空間が消える事はないんでしょう?」
「多分ね・・・あれは逃げ場のない場所だ。どうしたって情報は淀むし、学校がなくならない限り、ずれた空間は在り続けるだろう。ただ、問題は様々な要素が積み重なって、本来此方とは一線を画す者達が、現実を侵食していると言う事。あるべきものがあるべき所に変えれば、紫のような素質のある者が迷い込んでしまったり、時間的な矛盾が生まれてしまうなんて事はなくなる筈だ。」
結衣の願いの重さは、一体どれ程のものだったのだろう。きっと結衣が願うまでに、倫明の情報は飽和状態に陥っていた。しかし、空間そのものが深く同調し、それに意識を与えてしまうほどの願いとは、どれ程の強さだったのだろう。
それが悲しい物なのかさえ、私にはもう分からなかった。
「じゃあ、行こうか。」
私たちは電車に乗った。
いつもの駅で降り、いつものバスの代わりに別の路線を選ぶ。目指すのは倫明のある隣町のバス停。そこからさらにまた乗り換えなくてはならない。随分と遠回りにはなるが、これ以外に倫明へ行く手立てはなかった。改めて倫明の立地の悪さを実感する。
残酷な陽の照る盆の街に人影はまばらであった。バスが倫明に近づけば近づくほど、殺風景な土地に人間の息づく気配は消えてゆく。まるで、この場所に生きているのは、私と松島と、バスの運転手の他にはいないのではないかと錯覚する程に。
「松島。」
「ん?」
松島は窓の外を眺めたまま、私を見ずに答えた。
「私、思うんだ。本当とか、偽物とか。考えてもどうしようもない事なんじゃないかなって。」
「・・・そうだね。」
「松島は前に言ったでしょう?向こう側の空間も嘘ではないんだって。そう考えたらさ、彼方から見れば、この世界の方が幽霊なのかもしれない。」
彼がそっと私に視線を向ける。
「少なくとも、結衣の願いは本物だった。だから向こうの空間が生まれたんでしょう?なら、向こうの世界だって本物だ。私たちはそう認識できる。だけど、一方で此方の現実を、本物だって証明する手立ては、私たちの感覚以外にありえない・・・本当はさ、神隠しにあっているのは、今の私たちなのかもしれない。」
「・・・この街ごと、誰かの夢かもしれないね。」
「なら、私たちのやろうとしている事は無意味なんだろうか?」
「見方次第だろう。この上なく無意味だとう言う意見も当然あっていい。けれど、俺たちは認識できる事以外を、認識する事は出来ないんだ。だから、無意味だとしても、間違いではないと信じよう。人間は行動し続けなくてはならないのだから。」
松島は正しい。その正しさは、きっとあの頃も私たちを守っていたのだろう。
降り立ったのは、倫明の森の外に佇む小さなバス停。周りにはだったぴろい田園が広がっている。あまりの暑さに、心なしか蝉の声さえ弱々しい。
これより先に一般のバスは続いていない。私たちは、ひびだらけのアスファルトの上を歩いて行かなければならなかった。
無言で歩き出す。憎いほど青い空には、入道雲が立ち上っている。
「なあ、紫。もう絵は描かないのか?」
唐突に、松島が言った。
「・・・描かないよ。描けないんだ。」
「どうして?」
「さあ、なんでだろう?」
「・・・俺、紫の絵は好きだったよ。」
「初耳なんだけど。」
「結衣のギターも好きだった。翔真がピアノを弾くのも好きなんだ。」
「・・・ふうん。」
「俺には、何かそう言うものがなかったから、ずっと羨ましかったんだ。君たちが絵や音楽をやっている瞬間がさ。三人とも、それに向き合っている時は死ぬほど苦しそうだったけれど、とっても綺麗だと思った。」
「・・・昔はね、日常の中に切り取るべき瞬間が浮かんで見えた・・・あ、これだって。今この瞬間が描かれたがっているって、わかった。頭の中に構図も色も最初からあって、考えるまでもなく鉛筆や筆を持てば絵が描けたの。でも、今の私にはそれが出来ない。何を描いていいのか分からない。」
「でも、紫は上手いじゃないか。積み重ねたものが唐突に消えたりはしないだろう?」
「・・・無理矢理、描いてみた事もあるよ。でもね、完成品を見た瞬間に胸が苦しくなって、胃が気持ち悪くなって、吐いちゃった。・・・毒々しい色使いも歪んだ線も、何もかも醜く思えた。私が描いていたのはこう言うものだったのかって思ったらさ、遣りきれなくなってしまったの。」
「・・・少し、わかるよ。」
彼はぽつりと言った。
「松島は何かやらないの?」
「アート系には全然詳しくないし、センスもないからなあ。」
「スポーツは?」
「ああ・・・実はさあ、やってたんだ。」
「そうなの?」
「うん。中学まで陸上部だったんだ。結構真剣にやってたんだけど怪我やっちゃって、走れなくなった。」
私は思わず足を止める。ふと、倫明にいた頃の事を思い出した。春の体育祭の日、確かに松島は欠席していた。
彼も立ち止まった私に気づいて、振り向いた。
「紫?」
「・・・最低な事聞いてもいい?」
木漏れ日が、静かな松島の顔に踊る。明るい森を貫く道の上で、私はTシャツの裾を握りしめる。
「いいよ。」
「大切だった何かを失うって、どう言う気持ちだった。」
彼の表情は動かない。
「・・・走れなくなった時は、やっぱりショックだったよ。よく分からないけれど、すごく荒んだ気持ちになって、親ともよく衝突した。リハビリもしてたんだけど、全然駄目でさ・・・ある時、何もかも馬鹿馬鹿しくなってしまった。それっきり。俺は走る事を諦めてしまった。」
「・・・」
「諦めないって。言う程簡単じゃない。でも諦める事も簡単じゃない。今は心の整理もついているけど、でもさ、未だに何か空虚だ。走れなくなった事よりも、自分の全ての行為が馬鹿馬鹿しく思えてしまった事に。後悔を感じているんだ。」
松島は小さく微笑んで、右足の裾を手繰る。露わになったふくらはぎには、鋭い線が走っていた。
私は、奥歯を噛み締めてその傷を見つめる。
「紫、病院で君が言った事。覚えている?」
「・・・何か言ったっけ?」
「この光景が俺を動かしたんだねって。君は言ったんだ。」
言われて、思い出す。
「確かに、らしくない事しているって、言ったかも。」
「あれ、その通りだったんだ。翔真が消えて、紫も去って、動かなくなった結衣を見た時に、何故か走れなくなった時の事を思い出した。じんわりとした諦観が体の中に芽生えて、何もかも成り行き的に仕方なかったって、思って、自分にがっかりした。」
「それは、」
「何も変える努力を、俺はしてこなかった。そして、今を諦めたら俺は一生自分の人生に納得がいかないままになってしまうと思った・・・だから、もう逃げられなかったんだ。」
心の中の大事な部分を、見透かされた気がした。
「私もね。」
自分の声の震えに驚く。しかし、言葉は喉の奥から溢れて止まらない。
「私も、ずっと思っていた。何かから逃げてしまった瞬間の、自分への失望が、いつまでも付き纏って離れない。劣等感が心の中に蔓延ってしまって、身動きが取れないの。」
「うん。」
「私はもう十分逃げた。なのに、いざ立ち向かおうとすると足が竦んでしまう。」
「それは、俺も同じだ。」
「私には、結衣にとやかく言う資格はないのかもしれない。」
「でも、何かを変える為に、紫は今歩いているんだろう?なら、資格はある。寧ろ君にこそ資格はある。」
蝉が鳴いている。私は、頷いた。右足を前に出す。
暑い夏の坂道を、私たち葬列にでも参加するような足取りで登った。光の輪を抜ける。
目の前には、倫明の校舎が佇んでいた。
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