第6話

文字数 11,561文字

目を開けると、松島が傘もささずに、ずぶ濡れで立っていた。
「・・・濡れるのは御免なんじゃなかったの?」
未だに頭は霞がかっている。しかし、私よりも松島が傷ついた顔をしているから、無理矢理にでも思考を回復する。
木の下に座る私には傘が立てかけてあり、幸いな事に衣類はそこまで濡れていなかった。さらに、雨で湿った土の上には松島のパーカーまで敷かれている。
私は平衡感覚の戻らない体を何とか起こすと、濡れ鼠になった松島に傘を差し出す。
「ほら、持って。風邪引きたいの。」
「・・・何も、聞かないの?」
私は溜息をつく。
「今の、見てたんでしょう?どうせ聞いたって貴方達は答えてくれない。だから、もう聞かないよ。」
「・・・俺は、知ってたんだ。」
「・・・」
「・・・紫は向こうに惹かれやすい。そして、向こうで紫が傷つけられた場合、君には性質上、此方に帰れなくなる可能性がある。」
「・・・そのようだね。」
「わかっていて、君を巻き込んだ。そして意図的にそのリスクを説明しなかった。俺には君の力が必要だったから・・・」
「それが松島の秘密だったの?」
松島は俯いている。
「・・・まあ、今更どうしようもないでしょう。とりあえず校舎に戻ろう。保健室で着替えを借りた方がいい。今の松島、床拭き雑巾みたいだよ。」
私は歩き出す。松島は未だに何かを迷っているようだった。しかし、私が建物に入る頃になって、ようやく動き出すのがガラス越しに見えた。
校舎は静かで、少し冷たい。先ほどまで幽霊に追いかけ回されていたのが嘘みたいだった。そして今回の記憶には不可解な出来事があまりにも多すぎた。理由はよくわからないが、私を探しているらしい結衣に、突然現れた翔真。幽霊の突飛な行動は兎も角としても、噛み合わない事だらけである。
そもそも、今見た記憶の日付はいつだったのだろうか。私はてっきり、その日を始業式の日だと思い込んでいたが、今の映像は現実との乖離があまりに激しい。やはり別の日に飛んでしまったと考えるのが妥当であった。
部活生用の扉から校内に戻ってきた松島は、黙って体の水滴を払っている。しかし、彼の濡れ方は既に服を脱いで水を絞らないといけないレベルだった。私は最早人目も気にせず保健室に飛んでいくと、ベットの下のプラスチックケースから予備の制服を拝借し、玄関までとって返した。その間、五分程度。松島は、魂の抜け殻かと思うほどの無表情で、その場に立ち尽くしていた。
「ほら、更衣室で着替えてきなよ。」
松島は差し出された制服をぼんやりと眺め、やがてのろのろとそれを受け取った。
明らかに何かがおかしい。私が向こうにいる間、一体松島に何があったというのだろうか。彼の放心振りは、私への罪悪感というだけでは説明がつかない。
「紫。」
ぽつり。雨の最後の一雫のような音だった。
「紫、今なら、少し君の気持ちがわかるよ。」
私はじっと彼を見つめる。
「・・・何があったの?」
「・・・幽霊に会った。」
それきり松島は、ふいと私から遠ざかり、男子更衣室に消えていった。
私は、考える。
毎度の事ながら、状況は次々に混乱してゆく。まずは、場所の幽霊の言葉を丁寧に思い出してみた。リュックサックから小さなメモ帳とペンと取り出し、物事を整理する。
気になっているのはやはり幽霊の言葉である。以前彼女は、結衣に私と近づかないよう警告していた。そして今回、結衣は何やら私の事で取り乱していたようである。二人の会話から察するに、私が学校に来ない事を結衣は案じているらしい。その点が引っかかっていた。
何故なら私は、あの日階段から落ちて全てが終わるまで、一度も学校を休んでいない。
だから、そんな事はあり得ないのだ。私は常に学校に居た。そして私自身はその期間に何度も結衣を見かけている。同じクラスの生徒なのだから、嫌でも顔を合わせずには過ごせないのだ。
此処に大きな矛盾が生じている。背筋が寒くなるような気がした。
唐突に、肩を掴まれる。
驚いて後ろを振り向くと、制服に着替えた松島が立っていた。
「松島。」
「紫。話をしよう。」
妙に改まった様子の彼に、私は小さな胸騒ぎを覚える。
「もう、此処まで来ては隠し通せない。俺たちの秘密を、君に教える。」
今更になって、緊張の為か体が震えた。

私たちは連れ立って吹き抜けのホールを目指した。ホールは、倫明のシンボル的な場所である。大きなステンドグラスの窓の下には生徒たちの歓談用にテーブルと椅子が据えられており、パンフレットの表紙にも高確率でそこが選ばれている。しかし、高等部の校舎の中では少し奥まった場所にあるせいか、普段は殆ど使われていないのが実状だった。
松島は薄暗い自然光の下、一脚の椅子を引き寄せて疲れたように座り込む。私もテーブルを挟んで反対側の椅子へと腰掛けた。
自分を落ち着けるように大きく息を吸って、松島が私の目を見る。
「紫、まずは、ごめん。最初にこの場所で起こる事は俺が責任持つって約束したのに、今回の俺はまるで使い物にならなかった。」
先ほどよりもいくらか血の気の戻った顔で、彼は言う。
「あと、制服ありがとう。少し頭が冷えた。」
「・・・何があったのか知らないけど、正気に戻ったのなら良かった。」
「うん・・・それでね。俺には君に話さなければならない事があるんだ。」
私は深呼吸を一つする。
「聞かせて。」
「・・・紫さ、さっきの映像を見て、何か気になった事はない?」
「・・・結衣は、私が学校に来てないって言っていた。」
松島は小さく頷く。彼に先程までの弱々しさはなかった。
「結論から言わせてもらう。」
僅かに揺れた瞳の奥に、最後の逡巡を見る。そして、
「俺たちの間に虐めは、なかった。」
彼ははっきりとと発音した。
「・・・は?」
私は唖然とする。
「・・・なに、市の教育委員会みたいな事言ってるの?そこから否定されるとは思ってなかったんだけど・・・それは誤差ってレベルじゃない認識の齟齬じゃない?」
「待て、きちんと話を聞いてくれ。」
言いたい事は山程あったが、なんとか口を噤む。怒り?悲しみ?焦燥?過呼吸になりそうだった。
「馬鹿みたいな事言ってるのはわかってるんだ。ただ、できる限り落ち着いて聞いてくれ。これから俺が言う事はお前の世界をひっくりかえす。それを受け入れるも、拒むも、紫次第だ。ただ、少なくとも俺たちの認識ではこうなっているんだって事を話す。だから、出来るだけきちんと俺の話を聞いてくれ。」
「・・・善処はする。」
松島は言葉を吟味しながら、一つ一つ口に出した。
「俺たちが現実だと思っている方の世界ではさ、紫には空白の時間があるんだ。」
「・・・空白の時間?」
「・・・つまり、去年の八月後半から二ヶ月間の間、君は行方不明だった。」
私は絶句する。たっぷりと間を置いて、声を絞った。
「なに、言ってるの・・・?」
「・・・夏休み後半に入ってから、唐突に俺たちは紫との連絡が取れなくなった。携帯も通じない、ラインも届かない・・・何かがおかしいと思った。それで、君のアパートを訪れたんだ。事情を説明し、大家さんに許可を得て合鍵で扉をあけて貰った。勿論、紫の家族にも許可は出してもらった。君の家族も連絡が取れない事を心配していたからね・・・しかし、君のアパートには何の問題もなかった。普通に今朝まで生活していた形跡がいくつもあった。ただ、君だけがいなかった。」
松島が黙ると、辺りは耳鳴りがするほど静かになる。鋭い、沈黙だ。
「・・・そしてそのまま、紫は夏休みが明けても学校に来なかった・・・だから、君がさっき見た映像は間違いなく始業式の日の事だよ。それから二日経っても、三日経っても、紫は現れなかった。流石に紫の家族も警察に届出を出し、君は本当に行方不明になった。誘拐されたんじゃないかとか、誰かと駆け落ちしたんじゃないかとか、兎に角いろんな噂が立ったのはその時だ・・・当時はさ、結構な騒動だったよ。自衛隊まで参加して倫明の森を探索したり、全国区のニュースでも取り上げられた・・・けれど、紫はどこにもいなかった。本当に、君は消えてしまったとしか思えなかった。」
「・・・でも、私は学校に行っていた。普通に生活していたよ。」
「うん。だから、奇妙なんだ。奇妙な事がいくつも起こっていた・・・そのせいで捜査は大混乱。警察も正直お手上げ状態だったと思う。だって、考えても見てくれ。君の手掛かりはそこらじゅうに転がっている。君がこの街で暮らしている痕跡はあったんだ。なのに、君自身だけが抜け落ちている・・・端的に言って、手の出しようがなかった。」
「痕跡って・・・」
「まあ、これは例の一部に過ぎないんだけどね・・・俺たちは、夜通し君の部屋を見張ってみた事がある。真夜中も代わる代わる眠って、一瞬も目を離さなかったと断言できる。その夜、君の部屋には誰一人として人間は出入りしなかった。けれど、夜が明けて、蓋を明けてみたら、間違いなく人が寝起きした形跡がある。あの時は流石に、ぞっとしたよ。」
言葉もない。ただ呆然と、椅子に座っている事しか出来なかった。
「君の気配は、確かにあった。だから、なんとか君とコンタクトを取ろうと、あらゆる方法を試した。部屋にメモを残しておくとか、机に文字を書いておくとか、写真を撮ってみるとかね。胡散臭いことから科学的なことまで、思いつくことはみんなやったと思う。それで、俺たちは気づいたんだよ・・・場所の幽霊という存在に・・・倫明に重なる、もう一つの空間に君がいるって事。」
松島がちらりと私の瞳を見る。
「・・・多分、前も言ったように紫には天性の才能があるんだ。だから、場所の幽霊は君を選んだ・・・つまりね、その間、君は向こうに迷い込んでいたんだと思う。」
彼の言わんとする事を察して、思わず笑った。もう、笑うしかなかった。
「幽霊は、私だったのか。」
そこでふと場所の幽霊の言葉を思い出す。
「・・・成る程、センスある訳だよ・・・」
松島は痛ましいものを見るような眼差しを私に向けている。
「・・・そして、ある日突然、君は帰ってきた。いつの間にか学校の、東階段の下に君は落ちていた。もう、皆んなが諦めかけていた時だったから、衝撃は大きかったよ。君はかなり痩せてしまっていたけれど、誰かに暴行をされた形跡はない。制服を着て、失踪していたなんて事が嘘みたいな状態で帰ってきた・・・そして、目覚めてみれは君は本当に学校に通っていたと言う・・・正直、俺たちは少し君を疑っていたんだ。精神的な錯乱があるんだと思っていた。なにより、俺たちが紫を虐めていたなんて・・・そんな事、あり得ない・・・でも、君が見つかった時に一緒に回収されたノートが、紫の主張の正当性を証明した。君のノートには確かにクラスで授業を受けていた形跡があったからね。それで事件は一気にオカルト的な話に傾いて行った。」
松島は一旦話を切ると、来る時に買ったペットボトルの緑茶を流しこむ。私の指先は冷え切っていた。
「・・・帰ってきた紫に真実を話すか、皆んな迷ったよ。だけど、その時点で君は精神的にかなり消耗していた・・・俺たちは恐れたんだ。君が事実を受け入れられずに、壊れてしまうんじゃないかとね。だから、決めたんだ。紫には紫の経験した事を信じてもらおうと、皆んなで決めた。」
一周回って、脳は冴えている。今更この状況で松島が嘘を付いているとも思えない。何より今の話を考えれば考える程、感じていた全ての違和感に辻褄が合う。
私は、脱力する程に滑稽だった。
「・・・おかしかったのは私だったんだね。」
「違う。おかしかったのは俺たちを取り巻く何かの方だ。君じゃない。そして、今回紫が協力してくれたお陰で仕組みが見えてきた。何故、空間の幽霊が意思を獲得したのか。結衣に何があったのか。そして、君は何故巻き込まれなければならなかったのか。漸く、全てが繋がり始めた。」
「それは何故なの?どうして、幽霊は私を選んだの。」
松島の瞳が、遠くで焦点を結ぶ。
「・・・必要だったんだよ。場所の幽霊には紫がさ。」
「必要・・・?」
「そう。多分結衣の願いで意識を持った場所の幽霊は、力を欲していた。現実に干渉出来る程の大きな力を・・・そしてそれが、君だったんだよ。」
「私が向こうに迷い込む事が?」
「ああ。君はきっと誰よりも自然に向こうへ入る事が出来た。だから、場所の幽霊はわざと君を中へ閉じ込めたんだと思う。そして、意図的に紫にとって苦しい状況を作り上げた。君の記憶に、はっきりと向こうの空間の事が刻みこまれるようにね。その上で、幽霊は君を放った。紫はさ、此方の世界に帰ってくる必要があったんだよ・・・何故なら、存在の希薄なもの達が欲するのは、実在するものからの肯定だから。」
「・・・私が此方で勘違いし続ける事が、幽霊の存在を確かなものにしたって事・・・?」
松島は頷く。
「そう。結局、真実を隠蔽するという行為は、幽霊の思う壺だったんだ。紫は当然向こうでのの経験を現実のものとして受け入れた。虐めの記憶と友人達の裏切りに、君は酷く傷つき、そして苦しんだだろう。つまり、向こうの世界が君にとっての現実として刻み込まれた訳だ。勿論、君は疑わなかった。君は記憶を信じた。それが、実在しないものに力を与えたんだ。」
「私が、信じたから。」
「・・・それが、真相だ。」
松島の表情が影を帯びて、揺らぐ。
「・・・俺たち、約束してたんだよ。紫が何を思っていようと、君を守る為に秘密を守り通そうって・・・だから、俺はユダだ。一度向こうに囚われた事のある紫を、もう一度あの空間に送るなんて正気の沙汰じゃない。危険だとわかっていた。でも、紫が去って、結衣と翔真まで消えてしまって、君以外に手掛かりがなかったんだ。現実に干渉する力を確立した今、幽霊は間違いなくに君を欲する。それを、知っていて、真実を知る為に俺は君を餌にした。」
ショックではないと言えば、嘘になる。しかし、今何よりも自分に絶望していた。
ありもしない世界に騙されて、ありもしない罪を友人達に擦りつけた。そして、優しい彼らに嘘をつかせた。最悪な嘘をつかせた。
松島に吐いたいくつもの冷たい言葉が、天井から降ってくる。言葉が、言葉が、私の胸にじっとりと滲む。意味もなく相手を傷つけていたのは、私だ。
痛みさえ感じる。
こうして聞くと、私は自分の意思で生きた事なんてなかった。知らない所で誰かに利用され、知らない所で誰かに守られて・・・透明な人形は私だ。
何者からも逃げてきた結果の今。自分の弱さを棚に上げ、結衣や翔真、松島に言い訳を押し付けた。ならば、それを糧に築いたこの人格は何だろう。あってないような。この心はなんだろう。
あまりに惨めだった。
何と言ったら良いのか、さっぱりわからなかった。
脳内に住み着いた場所の幽霊が、結衣の声で囁く。
「幽霊はその空虚さ。幽霊は、紫だよ。」
力は出ない。打ちのめされている。振りをしている?
それさえ定かではなかった。思わず、口の端だけで笑う。久しぶりに、自虐的な私が私を見ていた。
「はは」
「紫、」
「・・・ごめん。あれだけ警告されておいて、いざ聞いたらこのザマ・・・今日は一人で帰らせて。」
松島は苦しそうに私を見る。
「・・・最後に教えて。松島はもしかして、翔真が向こうに居るって、知っていた?」
「・・・予想は、していた。あいつには元々、紫のような才能はない。そう簡単に向こうへ行く事は出来ない筈だ。だから、きっと俺のまだ知らない何かの情報を掴んで、一人で行動を起こしたんだと思う。あいつはあいつで、多分結衣を連れ戻そうとしている・・・結局、紫を巻き込まないと物事を動かせなかった俺よりも、あいつはずっと格好いいよ。」
そして、彼は最後に微笑んだ。
「紫があいつに惚れるのも、わかる。」
目を見開く。思わず大声で言った。
「私は、翔真を好きになったりはしない!」
松島の透明な眼差しが、私を貫く。
「違う。それこそ君は逃げているだけだ。そして、紫が逃げれば逃げるだけ、傷つくのは結衣だよ。」
息を飲む。
「以前、言った筈だ。紫は嘘つきだって。俺には結衣と同じくらい、君が息苦しそうに見えた。今もそう見える。」
拳を握る。酸素不足で苦しい。
もう彼の、透徹した目を見つめる事は出来なかった。走り去る自分に、もう一人の私が言った。
「また独りよがり。自己防衛の為の自己否定は、誰かを傷つけるよ。」
・・・そうかもしれない。でももう遅い。
「・・・そう。」
諦めたような、声だった。

***

雪原の果てに、結衣が蹲っている。雪は止み、ただ灰色の空が低い音を立てていた。私は、少し離れた所から彼女を眺めている。
「結衣。」
結衣はぴくりとも動かない。彼女の裸足の足は、氷の冷たさのせいで真っ赤に染まっていた。
「結衣、帰らないの?」
私はゆっくりと彼女に近づき、丸まった背にそっと手を置く。
結衣が振り向くのを、私は根気よく待ち続けた。声もない。痛いほど冷たい風の中に、私たちは二人きり。
「・・・ごめんね。」
やがて、結衣が振り返る。泣き腫らした瞼に、ガラス玉のような瞳。彼女の暗い目は、不思議なほど艶々と光った。
私の姿が、彼女の虹彩に反射している。私は、思わず己の姿を覗き込んだ。
倫明の制服を着た、黒髪の少女。しかし、結衣の瞳に映る私には顔がない。目も鼻も口もない。喜びも悲しみも表さない、のっぺりとした肌。
「・・・こう、見えてるの?」
それは、とても恐ろしい姿だった。
「結衣。貴女に、最後の追い討ちをかけたのは私だった?」
結衣は何も言わない。代わりに彼女の細い指が、雪原に言葉を紡いだ。
『帰れない。』
「どうして?」
『人間が怖い。紫は、特に怖い。』
「じゃあ、私が結衣の元を去ったら?」
『それはもっと怖い。学校も怖い。母さんも怖い。翔真も、松島も怖い。』
私は黙って雪の上に書かれた言葉を眺めた。
「・・・そうか。」
分身と違って、此方の結衣は小さく、脆かった。
どうしたらいいだろう。結衣の無実が証明された今、本当に謝らなければならないのは私である。
ある意味、全てが事故だった。しかし、確かに私は謝罪せねばらならず、そしてきっと彼女たちも私に謝罪せねばならない。ただ本当の所、何を謝ればいいのか、誰にもわからない。それが問題なのだった。
それは生きてゆく罪に?生まれ落ちた悲しみに?忘れ去られた小さな嘘に?
「酷だね。人生って奴はさ。」
皆んな血まみれだ。人は大人になる前に、殺さなくてはならない。大人になると言う事は、人間になると言う事で、人間になると言うことは、罪を許容すると言う事だ。私たちは善悪を超越した子供の神聖さを自ら引き裂き、脚色された皮をかぶり直して、毎日夜明けを待たねばならない。
きっと、大人になったらなったで楽しい事は沢山あるだろう。寧ろ、幼少期の漠然とした喜びよりも深い楽しみがあるのかもしれない。しかし、今の私たちがこうして苦しむ理由は、そこではないのだ。将来への不安は勿論大きな要素としてある。しかしそれは本質ではない。
結衣の、翔真の、松島の、私の。苦しみの根源は、もっと神様に近い所にある。
「結衣、壊してあげようか?」
結衣が私を見上げる。
「もし、現実に絶望してるっていうのなら、それごと壊してしまおうか。」
恐怖だろうか。懇願だろうか。結衣の表情が歪む
唐突に、足元が揺れた。深い地層の、そのまた奥から、音が駆け上がってくる。雪が割れる。いや、雪だけではない。地面そのものが裂ける。
私と結衣との間に、不思議な亀裂が走った。私たちを分かつように。
そして、結衣の座る地面はぐっと持ち上がった。
「断層・・・」
時を別ち、人を別ち、記憶を別つ。断層。
「結衣!」
彼女はまた私の届かない場所に行ってしまう。
「結衣!私は、必ず貴女を連れ戻す。何もかもを破壊して戻ってくる。だから、待っていて。」
叫びは聞こえただろうか?私は、途切れた雪原に立ち尽くす。

夜明け前。またこの時間だ。
眠れない夜の果ての微睡みは、結局夢に奪われてしまった。痛む頭を持て余す。
昨日の松島は、無事に帰り着いただろうか。あの時は彼自身も随分と消耗しているようであった。私が取り乱した所為で松島には余計な心配を与えてしまっただろう。
「きっと理由があるとは思っていたけれど・・・まさか、私ごと消えていたなんてねえ。」
言ってみて、あまりの突飛さに辟易する。
現代人らしく、私は携帯を手に取った。音楽でも聞いて心を落ち着けようと思ったのだ。しかし、メッセージが届いていた。
『大丈夫か?』
松島からだった。送られた時間はつい先程。
何故だろう。私は咄嗟に通話のマークを押した。
呼び出し音が数回、そして松島の声が機械を伝わって響いた。
「どうした?」
「・・・いや、なんとなく。起きてしまったから。」
松島がそっと息を吐く。表情が見えない分、声や吐息から彼の緊張が伝わってくる。私は思わず笑い声を漏らした。
「大丈夫だよ。まだ現実感はないけど、一晩経ったら少し落ち着いた。」
「・・・昨日は、ごめん。紫が嫌がるような事をわざわざ言った。」
「・・・最後のはちょっときつかったけど、真実を教えろって言ったのは私だから、いいよ。」
静寂は切なく、穏やかに部屋を満たした。
「意外?」
疲労や、時間帯のせいか、妙な笑いが込み上げてくる。
「・・・少しね。俺だったらもっと衝撃を受けるだろから。君は君の知らない内に失踪していました、なんて言われたら、そんな事を言う人間を疑うと思う。」
「怒っていると思った?」
気まずそうな松島の顔が脳裏にありありと浮かんだ。
「・・・少しね。」
私はベッドの上に体を投げ出す。横になっていると、薄暗いこの部屋にどろりと溶けて同化してしまいそうだった。
「なんかさ、意味のわからない話すぎて、脳がどう反応をするべきなのか、迷っているという感じがする。」
「そうだろうね。」
「だってさあ、私、本当に苦しかったし、悲しかった。でも、虐め自体が現実のものでなかったのなら、あの時の感情ごと嘘になってしまう。つまり、今の私が丸ごと嘘になってしまう。そうしたら、私は本物の幽霊にならない?それが少し怖いの。」
「・・・紫、」
彼は、ほんの少し間を置いて、囁くように言った。
「昨日、俺が幽霊を見たって言ったの、覚えている?」
「うん。」
「君が向こうで結衣の分身に追いかけられている間、俺も其方の空間に飛ばされていたんだよ。」
「入れるの?」
「うん。場所の幽霊が俺を阻止しようとして無理やり飲み込んだんだ。」
「そうか、私がいれば向こうへの回路が繋がるから、幽霊は松島にも干渉できるのか・・・」
「まあ、そう言うこと。つまり逆も然りでさ、紫がいれば君を媒介に俺も本当は向こうへ行くことが出来る。ほら、一番最初の時、君を迎えに行っただろう?ただ出口がわからなくなると二人して帰ってこられなくなるから、普段は此方から君の目を通して彼方の映像を見ているんだ。」
「成る程・・・」
「それでさ、俺が飛ばされた空間は、去年の紫の迷い込んだ方の時間だった。」
「・・・私が虐められていた、嘘の時間の方?」
「うん。でもあれだって、嘘ではないんだよ。ただ、他の空間や時間から断続しているというだけだ・・・それでね、君を見てしまった。」
自分の顔が強張るのがわかる。
あの頃の自分よりも惨めなものはない。状況を好転させる方法がわからなかった。口を聞いてくれないクラスメートも、黒板の暴言も、机の切り傷も、掲示板の噂も、何もかも。ただ、何故自分が標的になってしまったのか、疑問だけが堂々巡りをし続けていた。
そして結局、諦めの方が私を早く飲み込んだ。胸の中に空虚を膨らませて感情を殺し、考えることをやめた。
「・・・見たの?」
「うん。」
松島が言う。それは、何よりも悲しい事だと思えた。
「・・・そう。」
「表情のない君の、声を持たない君の。悲痛な叫びが聞こえるようだった。」
何も言えなかった。あの頃の感覚が蘇る。今でも、ひた隠すトラウマが実はいくつもある。よく似た音や、匂いや、光の加減。そういうもので、ふと思い出す。
「俺はさ、本当の所、紫がどう言う世界に居たのかよくわかっていなかった・・・だから、帰ってきた後の、君の変わりように本当に驚いていた。でも、今なら理由がわかるよ。」
「・・・昔の私の方が性格、良かったと思う?」
「良くも悪くも、紫は注意深くなった。でもね、冗談やお世辞や、同情もなしに、俺は今の君の方が面白くなったと思うんだ。」
「・・・つまり性格は悪くなったけれど、そっちの方がいいと。」
「・・・まあ、強かさは悪い事じゃない。」
私は松島なりのフォローに吹き出した。
「なんだそれ、言葉を選んでいるだけで言っている事は変わってないじゃん。」
「違うよ。だいぶ違う。なんて言うかさ、昔の紫はいい子過ぎた。当然それはいい事だ。だけど、君の場合は過ぎだった。見ていて息苦しくなる程、紫の笑顔は精巧な作り物だったよ。」
私は考え込む。彼らに私は作り笑いを向けただろうか。私は本当に楽しかったし、幸福だった。あれが年相応の喜びなのだと思っていた。
「実は俺、昔の紫はちょっと怖かった。いつでも焦っているようだったし、なんだか危なっかしい人だなって言うのが、第一印象だったんだ。あれだけ仲良くなっても、本当の紫は、誰も信用していない気がしたんだ。・・・でも、今になって思うよ。本当に友人同士で信頼し合っている高校生なんて、ほんの一握りなんだなってさ。友情は尊い物だって言う前提の為に、俺たちは自分を騙す。自分が誰かに友情を感じていて、信頼しているって、言い聞かせるんだ。それは円満に社会生活を送る為に必要なもので。決して責められるべきものではない。寧ろ高度なコミュニケーション能力ってそう言う事だと思う。それがさ、普通なんだ。」
「でも、本当の愛情や友情も、そこから始まるものだったりしない?初めは全てが振りで、嘘。それがゆっくりと本物になる。」
「そうだね。だから俺たちの関係性は悪いものではなかった。あのまま行けば、友情は本物になる筈だった。ただ、俺たちは機を逃した。奪われたと言ってもいい。」
「・・・松島はさ、私たちの関係性は偽物だと思う?」
「関係性は本物だよ。俺たちは俺たちだから・・・ただ、厳密な意味での友情とは違う気がする。まあ、厳密に定義する事自体が間違いだけれどね。友達なんて気がついたらなっていて、離れたり近づいたりしながら、なんとなく一緒にいる他人だ。深く考えないのが正解。現代社会が俺たちに求める関係性は、ドライでスマートなものだから。この時代に泥臭い愛情は好まれない・・・ただ、最近考えずにはいられないんだよ。俺たちはどこへ向かっていて、どうやって大人になればいいのか。」
私は黙って彼の言葉の意味を反芻する。
「・・・じゃあ、私がいい子を完全にやめて、泥臭い友情のために頭の悪い事をするって言ったら、手伝う?」
「は?」
頭の底がじんわりと熱い。
「私、さっき結衣に約束しちゃったんだよね。何もかも壊してあげるって。」
「結衣に?」
「そう。私、昨日の事があって思い知った。私たちは向こうの世界の事ばかり考えてきたけれど、それは結局、向こうの世界の事でしかない。本当に現実を変えようと思ったら、私たちは現実にこそ向き合わなくてはならない。結衣を取り戻すために必要なのは、言い訳の効かない行動なんだって事。誰の目にも明白な何かでなくては、結衣の絶望は癒せない。」
「・・・何が言いたいの?」
「私は、これから思いつきと衝動のまま動く。そう言う話。」
「何をするの?」
扇風機が回っている。私はその羽を眺めなら言った。
「結衣の親に会いに行く。」
「・・・正気?」
「言ってるでしょう。正気じゃないよ。私、その問題に関しては完全に部外者だもん。でも、これは前から思っていたの。結衣が愛した人がどんな人なのか。知りたいと思っていた。」
「会ってどうする気?俺たちに何が出来る?」
私は口角を上げた。
「なんとかするんだよ。」
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み