「適切な愛」感想文

文字数 1,719文字

 グレッグ・イーガン、その名を聞いた瞬間、私の大判焼きを頬張る手が止まった。
「ヒッ、きたぜ」
 そうなのだ。
 SF小説は好きだけど、ゆるーい科学、生物学知識しか保持していない私には、彼の作品は非常にハードルが高いのだ。
 すべてを超えしもの(ラスボス)と言っても過言ではない、彼の代表作『ディアスポラ』は
「そうか、私の頭の中には脳みそというものはなかったのだな」
と痛感させられる難解作。
どんな内容かと一言で説明しようとすると
「仮想現実都市コニシで主人公のヤチマがこんにちはーって叫ぶ話」
としか言えない。

「こんにちはーー」

辛いが、ここまでだ。
 この説明で気になったという奇特な方は、ぜひ『ディアスポラ』を読んでみて欲しい。「ふざけんなバーカ」と思った方もぜひ一読あれ。で、でね、出来たら感想聞かせてね。頼むぜ。

 さて、では本題の「適切な愛」はというと、これはまず短編なので難易度が少し下がる。そして内容も『ディアスポラ』に比べるとかなり入り易い。

 物語は、主人公のカーラが医師や保健外交員と話しをする所から始まる。彼らとカーラが話す理由は一つ。カーラのパートナーであるクリスが列車事故に遭い、重傷を負ったためだ。体の大部分を損傷したクリスには、新しい体が必要だと医師は言う。さて、ここで言う新しい体とは──。それはつまり、代理母にクリスのクローンを産んでもらうということだった。だがしかし、当然ながらクローンはクローンであって、クリス自身ではない。クリスが体験した記憶は、クリスの脳内に保存されている。よって「クリスを失わない」ためには、成長したクリスのクローンに脳を移植する必要があるという。
 そして、クローンの準備が整うまでには二年間かかり、それまでは現在のクリスの脳を生かしておかなければならない。だが、脳を生命維持装置で生かしておくには、莫大な費用がかかる。しかしながら、カーラとクリスが契約している保険内容には生命維持装置の費用は含まれていないと保険外交員は言う。カーラの収入では装置を二年間使用することは非常に難しく、よって、最も安価な維持方法を外交員は提案してくる。その方法とは──。

 世界初の体外受精による子供が誕生したのは1978年、クローン羊のドリーが誕生したのはそれから随分と先のこと、1996年になる。「適切な愛」が発表されたのは1991年なので、イーガンの知識と想像力がいかに素晴らしいかは言うまでもない。
 さらに、この作品の魅力はそれだけではない。愛や社会的価値観についても「自分ならどうするか」ということを短編とは思えない深さで考えさせられる所にある。
 事故直後、病院の集中治療室にいるクリスは意識もなく、近づくことすら出来ない。そして、代理母にクローンを出産してもらうにしても、二年間はクリスと会うことも、話すことも出来ない。更に二年後に会うクリスは、以前のクリスである絶対的な保証もないのだ。それでも、自分の身体と精神的負担を「愛」という言葉で紛らわし続けることは果たして可能なのだろうか。

「もし、事故に遭ったのが私だったら──クリスは、私と同じ行動を取るだろうか」

 このような疑問は、必ず生まれてくるだろう。
 いやいや、愛しているならどんなことでも耐えるべきだ。愛とは見返りを求めず、先の見えない不安な状態でも、何一つ報われなくても、あなたが幸せならそれでいいと思えること──?
 うーん、それは果たして愛なのだろうか。少し過激な言い方をすると、私にはある種の虐待に思えてしまう。自己虐待であるし、相手にも幻想を抱き過ぎではないだろうか。私なら「僕はどんなに不幸でも、きみが幸せならいい」も、「僕の幸せのためにはきみは我慢しろ」と言われるのも、どちらもちょっと抵抗がある。
「僕はこうだと嬉しいけど、きみの意見はどう?」と聞いてくれたら飛び上がるほど嬉しい。
 まぁ、これも夢を抱き過ぎなのかもしれないが。
 「社会的に期待された愛」と「自身(もしくは相手)が期待した愛」。そのどちらの愛も消失した時、それは解放なのか、絶望なのか。
 
 さて、あなたにとっての「適切な愛」とは。この作品を読んで、教えてもらえたら嬉しい限りである。
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