第3話 と

文字数 9,182文字

そう言った瞬間、ばっ、と電車がトンネルから空気を押し出す音がして、西に傾いた太陽の日差しが窓から2人を眩しく照らした。
「うん。行こ。」
空がスマホから視線を逸らさないままそう言った。
ちょっと唐突すぎたかな。
「やったあ!JKと海、最高じゃん、青春じゃん!いつ行こっか。あ!てかまずその海ってどこ?て言ってももう覚えてないか!でも親に聞いたら多分わかるよね!わあ海だあー!最後に海行ったのいつだっけ。あれ、でも今まだ4月だよね?海開きっていつ?あー、調べないと。あっもしかして夏にならないと海入れないんじゃない!?あ、じゃあ、すぐには行けないのか。ありゃあ。残念。」
空がスマホから目を離して私を見る。
「え、海入るの?」
「うん!」
「泳ぐの?」
「うん!」
「元気だなあ」
「あたぼうよ!」
「日焼けするよ?」
「まあ小麦色になっても、健康的なJKってことで!」
「ポジティブだなあ」
「じゃあ、空は、海眺めるだけでいいの?」
「やだ。海入って遊びたい。」
空がにやっと笑う。
「ほーらね」
私も笑い返す。
本当はちょっと日焼けは嫌なんだけどね。
ちょうどその時、キキィー、と音を出して電車が2人の家の最寄駅に停車する。
2人で立ち上がって電車から出た。
駅を出ると、空の綺麗な紺と橙色のグラデーションが高い建物の隙間から見えた。
仲の良いうちらだけど、家の方向は真逆。
「じゃあね、空!」
「うん、ばいばい。また明日!」
駅の出口で手を振りあって解散した。
マンションに着いて、エントランスの銀のインターホンに鍵を挿し込んで回す。
共用玄関の自動ドアが左右に開く。
入ってすぐの左側にあるエレベーターで7階まで上がる。
家の鍵を開ける。
「ただいまー」
私の声が響く。
玄関で靴を脱ぎながら暗い家の中に言っても、しんとした沈黙が返ってくるだけ。
奥まで進んで部屋の電気を点ける。
両親は共働き。
私は一人っ子。
「空と海、早く行きたいな。」
寂しい部屋の中を見渡しながら呟く。
そんなこと言ったって、どうしようもないんだけどね。
狭いマンションの間取りで、中学の時に両親が苦心しながら作ってくれた玄関から1番近い私の部屋に向かう。
元々物置として使っていた3畳くらいの小さい部屋。
シングルベッドと椅子と机。これだけ。
窓はあるけどいつも暗い。
誰もいない家は静かで落ち着くけど、たまに空みたいに兄弟がいて、家に帰るとお母さんが待っているような家族に憧れたりもする。
共働きは私のためでもあるんだってわかってはいるけど。どんな感じなんだろうなって。
空っていう友達ができてから、寂しさはずっと少なくなったけど、家に帰るとやっぱりなんだか物足りない感じがする。
お腹もまだ空いてない。勉強も当然やる気になれない。
こういう何にもなくて頭が空っぽになる時、何故か涙が出てきて昔を思い出してしまう。
なんで私ってこんなに弱いんだろう。もうずっと前のことなんだから、さっさと忘れたら良いのに。どうしてたまに心がまた傷つくんだろう。昨日もそうやってうじうじ泣いてるから今日遅刻したんじゃん。何で今更苦しくなってんだよ。
小学生の時、私はいわゆるいじめられっ子だった。
中学に上がる時、わざと家から遠い方の中学校を選んでおんなじ小学校の子達が少ないところに行った。いじめられっ子のレッテルを貼られたままは嫌だった。逃げた先の中学校でも、もし私がいじめられっ子だったことが噂で広まったらどうしよう、そうじゃなくてもまた無視されたり嫌がらせをされたらどうしようと不安で仕方がなかった。幸い、そんなことは起きなかった。空が1番に友達になってくれたからだ。空は私がなりたいと思っていた理想像を現実にしたような子だった。
空と友達になる前、私は中学生になったら自分を変えようと一念発起して、一人称も性格も見た目も全部変えた。
「うち」という一人称は私をいじめていた子達のを真似した。そうやって自分のことを呼ぶと何故か自分が強くなれるような気がした。別にあの人達をリスペクトしたいわけじゃない。でも「うち」と言うと、私も言いたいことを言ってもいいんだ、という気持ちになれた。
性格は、自分が好きな、何かの物語に出てきそうな明るくて快活な子。こう言われたらこんなふうに答えようこんなことが起きたらあのドラマの登場人物みたいにこう行動しよう。そうやって自分を作り上げた。
ネットで「明るい人_特徴」と調べることもあった。
見た目も変えた。重い前髪を薄くして、長い髪の毛をばっさり切ってボブにした。似合うか似合わないかはどうでも良くて、何でもいいから変わりたかった。自分じゃない誰かになりたかった。制服の採寸に行った時も、周りよりスカートを短くして欲しくてぐっと下に下げて着た。それからちょっとずつ痩せて、先生にバレないくらい薄いピンクのリップを塗った。眉毛も整えた。アイプチもした。
自分のどんな事でもからかわれたくなかった。からかわれたくない、馬鹿にされたくない、という気持ちだけで生きていた。今でもそうだけど。
でも空は違う。空はただ自分のままだ。自分の思ったことを正直に言う。周りに一切流されない。正論で人を傷つけている人にでさえ「だったら何?」と言える。そんな子だ。そういう時の空はめっちゃかっこいい。私はずっと空みたいになりたかった。一方で、自分のままでいられる空の心の強さを妬ましく思う時もあった。今はもう、そんなふうに思うこと滅多にないけどね。だってそもそも、空みたいになりたいと思っても、もう私には出来っこない。私が私のままでいても、空みたいにかっこいいことはできない。元が現実から逃げようとするような子なんだから。第一、「のんちゃん」がこんな暗い子だったら空でさえ離れていってしまうかもしれない。それが1番怖い。
今日の話だってそうだ。鬼に助けてもらったかもしれない、なんて何かの話の主人公みたい。でも主人公みたいな空だからきっとそれは本当のことなんだ。空が見たのはきっと本当の鬼。
脇役の私でも空の物語で活躍する登場人物になれるなら、その鬼に会いに行きたい。と何となく思った。空みたいに主人公になることはできないけど、せっかく主人公の友達にはなれたんだから。こんな風に考える時点で主人公じゃないけどね。悪くいえば空を利用して、自分を特別にしようと企んでるわけだから。
時計の時間を刻む音を聞きながら目を閉じる。
何にもなれないのかな。私って変われないのかな。
「はあー」
大きくため息をついた。しょうがないね。所詮モブだよ私なんて。
ベッドから起き上がって冷蔵庫から保冷剤を取り出して目に当てる。泣く時は目を擦らないでおいて、泣いた後は目を冷やすと腫れにくい。
片目を交互に冷やしながら冷蔵庫の中身を物色すると、お母さんが作ったおかずが少し入っていて、後は冷凍食品ばっかりだった。いつものことだけど、たまには気分転換に自分でご飯を作るのも良いかもしれない。
スマホで簡単に作れるメニューを検索して、簡単な炒めものを作ることにした。お米を炊飯器に入れた後、近くのスーパーにお肉と野菜だけ買いに行って早速作ってみる。
切るのが難しそうな野菜はカットしてあるやつを使ったし、そんなに時間はかかってないと思ってたけど、ご飯が炊ける方がずっと早かった。
作った炒め物は3人分。自分の分を皿に盛って、後は別々のお皿に盛ってラップの上に「作ったから食べていいよ」と書いたメモを置いて冷蔵庫の中に入れた。
自分で作ったご飯は美味しいと良く言うけど、味は正直普通だった。食べ終わって洗い物をした後、さっさとお風呂に入って寝てしまった。
朝起きるともう既にお父さんは家を出ていた。
お母さんはいつものように慌ただしく準備をしている。
「お母さん」
「何?」
「昨日さ」
「うん?」
何だか言うのが恥ずかしくなって黙っていると
「何?何かあるなら早く言って」
と少し苛立った口調で化粧をしながらお母さんが急かしてきた。
「あの、冷蔵庫みた?」
「なんで?」
「昨日野菜炒め作ってみて、それで、えっと、食べたかなぁって」
「えー。なにそれ。どこにあったのそれ」
「冷蔵庫に入れちゃった」
「えー!それは気づかないよ。昨日私たちどっちも冷凍食品食べちゃったし。」
「そっか」
「今日からお父さん出張だし、私も今日飲み会あるんだよね。だから自分で食べちゃっていいよ。」
「わかった」
何でもないふりをして、自分の部屋に戻る。
別にそんなに食べて欲しかったわけじゃない。そんなに苦労して作ったわけじゃないし。大したことないのに。何が悲しいんだろ。
「じゃ、行ってくるねー」とお母さんが言って、家を出て行く音が玄関から聞こえた。
そうして家に1人取り残されるとまた涙が出てきて部屋で1人うずくまって鼻をすすった。
今日はもう、学校休もうかな。これは流石に目が腫れてるのバレるよね。
熱で休むと学校に連絡して、昨日の野菜炒めを冷蔵庫から取り出して1人で食べる。
「まっず」
自分でご飯作っても全然、美味しくない。美味しくないじゃん。涙が豚バラ肉の上に落ちる。馬鹿みたい、私。まずい野菜炒めをお茶で流しこんで何とか食べ終わる。お皿は適当に水につけ込んだまま、自分の部屋に戻ってそのまま寝込んだ。

『...ピンポーン』
遠くからインターホンの呼び鈴が聞こえる。泥のような眠気が頭に絡みついて目が開かない。
『ピンポーン』
少し間を置いてもう一度呼び鈴が鳴った。寝返りを打って布団を頭から被り、寝心地の良い体勢を探す。どうしてこんな時に家を訪ねてくるんだろう。
『ピンポーン』
今は誰とも話したくない。
『ピンポーン』
下の宅配ボックス満杯だったのかな。
『ピンポーン』
宅配の人にしてはしつこすぎる。
『ヴヴヴヴ』
スマホが机の上で震えた。その時誰が呼び鈴を鳴らしていたのかを心のどこかで察した。スマホの通知を見るのも億劫だったけど、電話には出ないまま、一応画面を確認してみる。
『sora』
やっぱり。きっと様子を見に来たんだ。電話を無視してLINEを見ると5件空から通知が来ていた。既読をつけないように画面を長押ししてトークルームを覗いてみる。
『のんちゃん今日休みー?』
『電車乗っちゃうね』
『今日どうしたの?』
『体調不良だって?』
『放課後お見舞い行く!』
ごめん、空。
のそのそと起き上がってやっとインターホンを確認しに行く。そこに映ってソワソワしているのはやっぱり空だった。
「やっぱり居ないんじゃね。」
インターホンの画面外から男の子の声が聞こえた。
「病院とか?」
空が振り返って誰かに話しかける。
「電話でないんでしょ」
男の子がインターホンのカメラを覗き込む。声の主は空の幼馴染の怜希くんだった。
「うん。」
空が怜希くんにそう答えたところでインターホンの録画が切れた。
怜希くんと空って絶対両想いだよな。私がこうやって寝込んでたって空には幼馴染のそれはそれは仲良しな男の子がいるんだもんなあ。
そうやって心の中で皮肉を言う卑屈な自分キモいな。
のんちゃんって最低だな。自分に諦めを感じて、他人事のようにそう思った。心だけ、自分の身体から離れてる。実際、のんちゃんは他人みたいなもんだしね。私だけど私じゃない。でも私はのんちゃんに変身しないといけない。そうじゃないと、空も、他のみんなもまた居なくなってしまう。本当の私じゃ駄目なんだ。のんちゃんじゃないと駄目なんだ。でももう、疲れた。これから高校生活が始まるっていうのに、もう疲れてる。
本当に、のんちゃんになれたら良いのに。
インターホンから離れてまた自分の部屋に閉じこもる。空のLINEに既読をつけないまま、暇潰しにSNSを見ているといつの間にか午後5時を過ぎていた。
はあ、またあの不味い炒めもの食べないといけないのか。
何をするのも憂鬱で、ベッドに寝転んで天井を見上げる。
『ピンポーン』
インターホンの音がする。今度は誰だろう。
『ヴヴヴヴ』
またスマホが振動する。お母さんかな。飲み会無くなったとか?
『sora』
「え」
なんでまた空が?いや、家に帰ってからまた電話かけてるのか。まだ空と話す心の準備はできていない。目の腫れも引いたことだし、インターホンが先だよね。
そしてインターホンを覗きに行くと、今度はそこに空が映っていた。
「なんで?」
流石に2回も無視する訳にはいかないのでインターホンの通話ボタンを押す。
「ごめん寝てた。」
『もー、どうしちゃったかと思ったよ!体調大丈夫?』
「うん。もう平気だよ」
『まだ本調子じゃなさそうだね』
本当はこれが本調子なんだけどね。
「寝起きだからかな。あはは。」
適当に誤魔化して、ふと目線を空の後ろにやると怜希くんも映っていた。
「怜希くん、遅くにわざわざごめんね。」
『別に俺は良いから』
まあ、空と2人きりになれたんだからそりゃ良いよな。そんな意地悪なことを思う自分がまた嫌になる。
『ねえねえ、ちょっと家入っても良い?』
「え?」
『あのさ、私達夕飯の材料買ってきたんだよね。のんちゃんの親帰ってくるの遅いっしょ。明日土曜だし、家帰るの遅くなっちゃっても良いから、ちょっとお節介させてよ。』
こういう時、のんちゃんなら
「良いよ。ありがと。」
って言うよね。
『よっしゃ!』
「ドア開けるね」
重い手を解錠ボタンに近づけてゆっくり押すのと同時に、空の姿がインターホンの画面から消える。
空のこういう強引な所、好きだけど苦手だ。いや、やっぱり嫌い。今、冷静になって考えてみると、風邪うつしたら悪いからとかなんとか言って断れば良かった。
うだうだ考え事をしながらインターホンの前で立ちすくんでいると、コンコンとドアをノックする音が聞こえて、そのすぐ後に
「来たよ!のんちゃん!」
と底抜けに明るい空の声がした。
「はあい。今開けるよ」
もうここまで来たら仕方ない。どうにでもなれ。ドアの前で深呼吸をする。私はのんちゃんだ。大丈夫。
目をつむってぐっとドアを押し開ける。
目を開けると、空がネギがはみ出したスーパーの袋を掲げてにっこり笑って立っていた。
「お見舞い来たよ!」
「ありがとう」
「こいつが人数多い方が盛り上がるって言って聞かないからさ。」
空の後ろから怜希くんがひょっこり顔を出して気まずそうに弁解する。
「全然良いよ。さ、入って入って。家の中」
「ちょっと待ってのんちゃん!今日は!なんと!」
「うん?」
「スペシャルゲストが来てます!」
「え?」
「じゃじゃーんっ!」
「ええっ?!」
空が両手を広げて指した方の物陰から出てきた人物に驚いて、思わず大声をあげてしまった。
空はまたまたにっこり笑って私を見つめる。もはやその笑顔に狂気さえ感じる。多分悪気はないんだろうけど。
「いや、なんかごめんね。突然。」
空に召喚された彼は頭を掻きつつ、目を泳がせていた。

そして今に至る。
「俺の家、あの、アプドなんだよ」
「え、そうだったの?」
昨日カフェで見かけたのっぽのイケメン、尋弥(ひろや)くんは、我が家の鍋にお肉を入れ、ガスコンロをカチッと鳴らし火をつけると、ここに至るまでの経緯を話し始めた。
「父さんプロのパティシエなんだ。本当は。で、一昨年までフランスで店出してたの。」
「え、やば。すごいじゃん。尋弥くんのお父さん。」
「うん。すごい。」
尋弥くんは自慢げに微笑んで話を続ける。
「まあ、それで母さんも経営手伝ったりとかで色々忙しくて、だんだん俺が朝ご飯とか夕飯を作ることが多くなってさ。それで俺が料理得意って話をたまたま怜希から聞いた空ちゃんが俺を連れてきたってわけ。怜希と俺、同じクラスで席近くて結構話すんだよ。」
「なるほど」
尋弥くんは鍋の上で手をかざして、鍋が温まってきたのを確認して、木べらで中のお肉をつつき始めた。
行動力がずば抜けてる空ならあり得なくもない。昨日空と駅でぶつかったというイケメン男子がたまたま尋弥くんで、彼の両親がアプドを経営してて、怜希くんと仲が良くて、料理が得意だから連れてきたってことか。
うーん。まあ詳しいことは後で聞こう。
「あ!やべ」
唐突に尋弥くんが鍋に計量カップで水を注ぐのをやめて私に向き直って顔を近づけてきた。
「え、何、どうしたの?」
「ごめん、牛乳買い忘れたから家の使わせて貰っても良い?」
この人、物理的な距離感おかしくない?
「良いよ、そのくらい。全然使っちゃって」
「ありがと〜」
なんかふわふわしてる子だな。
材料を買って来るだけ買ってきて私の家でテレビゲームをし始めた空と怜希くんを眺めていると
「あれ、今日ご飯食べてないの?」
と尋弥くんが冷蔵庫の扉からひょっこり顔を出して聞いてきた。
「え?何で?」
「いや、なんか野菜炒めが1人分だけ残ってたから、そうかなって」
「あー...」
「食べないの?」
「うん。多分もう誰も食べないと思う。」
「じゃあ、これお鍋の中入れちゃうね」
「え。」
そう言って牛乳と一緒に私の冷えたまずい野菜炒めを冷蔵庫から取り出して、
「その野菜炒め、不味いよ?」
「えーそうなの?そんな風には見えないけど。」
「不味いんだって」
「じゃあ食べてみて良い?この箸使うね」
「箸は良いけど...ええ...」
私が戸惑う横で、尋弥くんは箸で野菜炒めを取って口に入れ、目を閉じて口をもぐもぐさせている。
なんだか少し緊張する。
少しして、尋弥くんのぱっちりした大きな目が開いた。
「ん?普通に美味しいじゃん。ちゃんと温めて食べた?冷めてるから不味いと思ったんじゃない?」
「あ...うーん。そうかもね。」
表には出さなかったけど、尋弥くんのまっすぐな答えに心臓がじんわり温かく揺れるのを感じた。
「お肉が煮えたら、アクを取って、野菜炒めも入れちゃって」
お見舞いをされている側のはずの人間が何故か料理を手伝っている状況に若干疑問を感じながら、無心で鍋をかき回しているうちに美味しそうなシチューのようなものができた。
「何これ?シチュー?じゃないよね?」
「うん。ブランケットっていうフランス料理。まあこれはちょっとアレンジしてるから、ブランケット"ふう"だけどね。」
「めっちゃ良い匂いする!」
突然空が私と尋弥くんの間から顔を出して叫んだ。
「わ、びっくりした。ブランケットって言うんだってよ。フランス料理なんだって。」
「え!なんか名前が美味しそう!」
「空ちゃん達も、ご飯炊けたし、温かいうちに食べようよ」
「わー!やっとだ!苦労して待った甲斐があったよ!」
「苦労っていうかゲームしてただけじゃない?」
「いやそれも立派な試練だよ」
そう言って大真面目な顔をする空に返す言葉が見つからず、不自然に黙ってしまう。
「なんか今日、のんちゃんいつもと違うね。」
失望されたような気がして、顔がこわばった。気づかれないように俯くと
「どうした?」
と言って空が私の顔を覗き込もうとする。
反射的に無言で空の肩を押し返す。バランスを崩した空が尋弥くんにぶつかる。
その一瞬はとても長く感じた。
沈黙が深くなる。
何も考えられない。
ああ、どうしよう。いつもみたいに明るくできない。
頭が真っ白だった。
「のんちゃん。」
空が口を開いた。
何も言わないで。お願い。もうーーー
「ご飯食べようよ。ブランケット!」
予想外に明るい声がして顔を上げると、何も変わらない空がいた。
「そうだね。あったかいもの食べよう。」
その後ろに尋弥くんがいた。
そして不器用な手が私の背中をトントンと叩いた。驚いて振り向くと、真っ直ぐに私を見つめる怜希くんがいた。
「私...」
「飯食お。皿どこ。」
「あ...そこの、戸棚。」
「おけ。」
無愛想に答える怜希くんの背中。
「これバターライス?めっちゃ良い匂い〜!」
炊飯器を開けて幸せそうな空の笑顔。
「そうだよ。バターライスもちょっとコツがあるんだよなぁ」
と自分の手料理に満足げな尋弥くんの瞳。
その中で異質な私。1人だけ、何にもない。みんなが遠くに見えて、立ちすくんでしまう。
「ねえ、のんちゃん。見て、美味しそう。」
尋弥くんによって綺麗に盛り付けられたバターライス。でも、何も感じない。匂いがわからない。ご飯ってどうやったら美味しそうに見えるんだっけ。
「おいしそう」
心にもない言葉をまたぽつり。真心をみんなが積み重ねてくれているこの場所で、1人、偽りの心を積み重ねていく。
棒立ちの私を通り過ぎて、怜希くんがリビングのテーブルにお皿を並べる。
空が私の手を引っ張って自分の横に座らせる。私の向かい側に尋弥くんが座り、斜めに怜希くんが座った。
「じゃあ、せーので食べよ!」
「それ揃える意味あんのかよ、空。」
「まあ良いじゃん。空ちゃんがせーのって言ったらいただきますって言って食べようよ。」
「なんか小学生の時みたいだね、あ、中学でもそういうのやってたか。」
「まだ今年の話じゃん。忘れるの早すぎだろ。」
怜希くんが微笑む。
「じゃあ、せーのっ!」
「いただきます!」
「いただきます。」
「頂きます。」
「いただきます...」
全くお腹は空いていなかったし、むしろ吐き気がしていた。でも、まさか食べないわけにもいかないので、無理矢理自分の口に白いクリームスープを運び、ゆっくり飲み込む。
温かくてとろみと酸味がある、優しい味。
「うんまっ!」
空が目を輝かせる。
「何これ!初めて食べる味だけど、なんか美味しい!」
「うん。俺も食べたことないけど、美味い。」
「どうやってこれ作るの?」
「内緒!今日は今日にしか食べられない特別な隠し味が入ってるからね。」
「ええ!なにそれ〜。ずるい〜、けど美味しいから許す!教えてもらっても作れないし!」
「またアプド来たら作ってあげるよ。」
「営業が上手いなァ」
「あ、俺アプド行ったことねえや。」
「お、じゃあ次は3人で行こう!ね、のんちゃん?」
「...うん。」
空と目を合わせることは出来なかった。
すぅ、と空が大きく息を吸い込むのが聞こえた気がした。ため息かもしれない。
と、突然
「のんちゃん。私、のんちゃんのこと大好きだよ。」
クリームスープよりも優しくて溶けそうなくらいに温かい空の声がした。
はっとして横を見ると、私を見つめる空の目が赤くなっている。
「だからなんか変に悩むんじゃない!私が愛す!」
そう言うとぎゅっと力強く私を抱きしめた。
「...ッ」
私の中の氷が、空の温かさで溶けていく。溶けた水は私の目から流れ出た。
「ありがとう」
精一杯の声で応える。
空が私の肩を抑えたまま、私から離れる。
「温ちゃんってあったかいんだよね。あは。」
空も精一杯の笑顔で応えた。
私はその笑顔を目に焼き付けて、怜希くんに向き直る。
「怜希くんも、ありがとう。」
「そういうの良いんだって。お前らさっさと食えよ。冷めるぞ。」
そうは言いながらも怜希くんの頬は赤く染まっていた。
「尋弥くん」
「ん?」
「ブランケット、美味しい!」
私の偽りのない真心が、やっとこの場所に積もり始めていた。
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