第10話

文字数 2,453文字


「馬鹿にして…! あんたたちなんて、二度と会うこともないから!」


 そう捨て台詞を吐いて立ち去る彼女を、みんなは安堵の表情で見送りましたが、木山さんだけは、行く先を目で追いかけながら、


「僕、ちょっと様子を見てくるわ」

「えー? 何であんな奴ー?」

「もう、放っとこうよ。関係ないじゃん」

「悪い。すぐ戻るから、先行ってて」


 そう言って、八神さんの後を追い、雑踏の中に消えて行きました。

 かつて、自身が苦労した経歴を持つ木山さんには、八神さんのことが、他人事には思えなかったのかも知れません。

 まだ携帯も普及していなかった時代ですから、お店の場所を知らない木山さんを、綿部君と乃理ちゃんのふたりが喫茶店で待つことにして、私たちは一足先にいつものお店へ向かったのです。



 お店に到着すると、さっそく梨花さんの隣りの席をゲットした若林さん。憧れのマドンナを真横に、緊張からかグラスを持つ手が震えています。


「それにしても、梨花さん、よく妊娠が嘘だって見破れましたね。僕、びっくりしましたよ」

「まあ、そういう嘘をつかれた経験があったものですから。ね~、こうめちゃん」

「そんなことも、あったかも知れないね~」

「何にしても、梨花さんみたいな、美人で、頭も良くて、上品な女性を奥さんに出来たら、最高だろうな~。梨花さんっっ!」

「は、はい?」

「僕と結婚を前提に、お付き合いしてください!」


 いきなりかよっ!! という周囲の冷たい視線が突き刺さる中、女神のような美貌と、天使のような声で、若林さんをバッサリと切り捨てる梨花さん。


「ごめんなさ~い。私、お付き合いしてる彼がいるから~」

「あ、…そ、そうなんだ~。そうだよね~、これだけ素敵な人、みんながほっとくはずないもんね~、ハハハ…」


 若林さん、あっけなく玉砕でした。

 そこへ、木山さんを連れた綿部君と乃理ちゃんご一行が到着。


「綿部~! 会いたかったぞ~! 今日はとことん付き合ってもらうからな~!!」

「えー!? 何っすか、いったい~!?」


 可哀想ですが、私たちには若林さんをどうすることも出来ませんので、ここは全面的に、綿部君にお任せすることに。

 私の隣りに座った木山さんに、あの後の八神さんの様子を尋ねると、かなり感情的になっていたけれど、おかしなことはしないだろうと判断し、別れたそうです。しばらくは、木山さんのほうから連絡を取り、様子を見ようと思っているとのこと。


「直接、会ったりするのはきついですけど、もし、私に出来ることがあったら、言ってくださいね」

「うん、その時は頼むね。こうめちゃんって、苦労知らずなお嬢さんっていう印象だったけど、案外、苦労してる?」

「人間、色々ありますよ。誰にだって」

「そうだね。何にもない人間なんて、いないよね」


 このメンバーとはこの先も、異動になったり、退職したり、結婚したりと、それぞれが別々の人生を歩み始めた後も、ずっと長く交流が続きます。

 そしてそれぞれが、いろんな出来事に関わることになるのですが、それはまた、別のお話。


「おい、お前、何やってんだ!?」

「はいっ! 綿部、歌いまーす!」


 その時、ワインボトルを両手に抱え、急に椅子の上に立ち上がった綿部君。楽しそうに笑いながら、彼の母校の校歌らしき歌を歌い始めました。

 どうやら、かなり若林さんに飲まされた様子。今ならありとあらゆるハラスメントで訴えられるレベルでしょうが、まだそんな概念も存在しなかった、ゆる~い時代のこと。


「さっきの撤回! 何にもない人間も、一人くらいはいるかも」

「いるみたいですね、一人くらいは、確実に」


 まあ、本人が楽しんでいるのですから、OKということで。




     **********



 可燃ごみの日の朝。

 カラス除けのネットを掛けていると、待ち構えたように、葛岡さんのおばあちゃんが出ていらっしゃって、声高に話しかけて来ました。


「おはよう、松武さん!」

「おはようございま~す」

「やっぱり、佐藤さんとこ、離婚するんだってねぇ~! ダブル不倫とかっていうやつだったらしいよ~」


 朝から何て話を! と思いつつ、適当に相槌を打っていると、そこへ愛犬の愛子ちゃんを連れた百合原さんが通り掛かりました。

 当然、彼女にも食いつくおばあちゃん。


「あ、百合原さん、聞いたでしょ~、佐藤さんの離婚~!」


 すると百合原さん、淡々とした口調で言いました。


「それ、デマですから。ドラマの話をしてたのを聞いた誰かが、それを本人の話だと早とちりして、噂を広めたっていうのが真実らしいんですよね」

「え? そうだったの?」

「そうなんだって。ねえ、葛岡さん、そういう方ご存じありません?」


 すると、おばあちゃんは無言でスーッとその場を離れ、三軒むこうの椎名さんの姿を見つけると、駆け寄るようにして移動して行きました。


「任務完了。これで今回の噂は、収束するでしょ」

「佐藤さんって方は、大丈夫なの?」

「大丈夫。みんな大人だから、そんなに簡単に信じる人も少ないから」


 まったくもって、人騒がせなおばあちゃんですが、それでも憎めないのは、彼女のキャラクターがなせることなのでしょう。



 あれ以来、私は八神さんと会うことは、二度とありませんでした。

 ただ一人、木山さんだけは、何年かの間連絡を取っていたようですが、それも次第になくなり、今では彼女の行方を知る人はいません。

 噂では、某一流大学に入り、その後大学院に進んだ後、凄い研究をしている教授になったとか、セレブと結婚して、某タワーマンションのペントハウスに住んでいるとか、他にもまことしやかにいろいろと聞きますが、真実は定かではなく。

 知りたい気もしますし、知りたくもないとも思いますし。



 もしまた偶然に、あるいは待ち伏せに関わらず、どこかでばったり遭遇するのは勘弁して欲しいと思いますので、余計な詮索はやめて、彼女のことは記憶の中に封印しようと思います。


~ The virus of jealousy is latent in everyone. ~
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