SUMI

文字数 8,981文字

「おはようっ」
 凛とした声は、蝉の大合唱をものともせずに俺のもとへ届いた。俺は面食らって、金縛りのように硬直した。声の主は、社交辞令でも何でもない心からの笑顔を俺に向けていた。
 ひよこはピヨピヨと鳴き続けている。
 その少年を全く知らないわけではなかった。毎朝この交差点で出会う一人の小学生。まさか、夏休みになっても出会うとは思ってもみなかった。まして、挨拶をされるとは。
 ひよこは鳴き止んだ。
 本来なら「おはよう」と返すべきだが、言葉が出ない。少年は、魚のように口をパクパクする俺を見て少し首を傾げたが、カッコウが鳴き始めると、俺ににっこりと笑いかけて「じゃあね」と走り去っていった。
 いつの間にか、カッコウは鳴き止み、もう一度ひよこの声を聞く羽目になった。


 筆記具を収める音にチャイムが割り込むと、教室は一気に騒がしくなった。一週間続いた補習の最終日だけあって、皆、憑き物が落ちたように晴れ晴れとした顔をしていた。
「はあ?それで信号ひとつ逃して補習に遅刻したの?夏澄(かすみ)、あんたばかじゃないの?」
 朝の出来事を話すと、友人は声高に笑った。彼女の高い声は、暑さと英文で参っている俺の頭に追い討ちをかけた。
「どうせ俺は君と違ってばかですよ。だから夏休みでも補習に来てるんですよお」
 机に突っ伏したまま、ささやかに皮肉を言ってみたがあまり効果は無かった。
「それだけ言えるなら大した頭痛じゃないわね。それより夏澄。あんたも一応女子高生なんだから、自分のこと『俺』って言うの、いい加減やめなさいよ」
 またか。俺は彼女に聞こえないように短くため息を付いた。遠くの空は真っ黒になって、ゴロゴロと不吉な音を立てていた。
「自分のことを何と言おうが勝手でしょ」
「だめよ。印象悪くなるんだから!」
「別にいいよ。そうなったら努力しなかった俺の責任になるだけだし」
 空の色とは対照的に、教室はこれから本格的に始まる夏休みの話で溢れていた。俺の低めの声は周りに瞬時に掻き消されてしまったが、彼女の耳には届いていたようだ。
「なんでそんなにマイナス思考なの!?」
「なんでそんなにプラス思考なの?」
 彼女の声は空気を突き破り、俺の声はそれを傍観した。教室は静まり返り、残っていた生徒は何事かとこちらを見ていた。
 空の黒雲がグッと近付いた、気がした。
 静寂に耐え切れなくなった数人が囁き始めると、弾かれるように彼女は我に返った。ひどく動揺しているのが見て分かったが、フォローはしなかった。
「心配してくれるのは嬉しいけど、放っておいてほしい。俺も全く努力してない訳じゃないから。…じゃあ、俺は帰るね。バイバイ」
 呆然と立ち尽くす友人を残して、俺は足早に教室を出た。廊下ですれ違った何人かが声をかけてくれたが、全部無視した。
 七月下旬の日差しは半端じゃない。暑さに加えて、普段は使わない肩掛けカバンのせいでバランスが取れず、足元はおぼつかなかった。回転の鈍い頭で、日焼け止めを塗らなかったことを後悔していた。
 学校から家までは約二キロ。自主的に運動はしないからと、徒歩通学にしている。さほど苦にはしていないが、夏場は辛い。
 ふらふらしながらも家に近付いてきた時、角の家に住むおばさんが声をかけてきた。
「お帰りなさい。あら、まだ学校なの?」
「いえ、補習なんですよ」
 よそ行きの声。
「大変だねぇ。頑張ってね」
「ありがとうございます。失礼します」
 即席の笑顔を浮かべて挨拶をすると、少し歩調を速めて家路に着いた。
 カバンを投げ捨て、アイスコーヒーを用意すると、大きくため息をついた。
「もう、嫌だな…」
 挨拶をすることは嫌いじゃない。声をかけてくれる近所の人も嫌いじゃない。ただ、自分が嫌いだった。人によって態度と声が変わる自分。マイナス思考の自分。根暗な自分。意見を言わない自分。挙げればキリが無い。とにかく、自分を好きだと思ったことは一度も無かった。
 友人が言うことは尤もだと分かっていたし、『俺』と言うことを直さねばと、自分でも思っていた。でも、しなかった。それは自分が弱いから、なのかもしれない。


 人が、怖い。
 そう感じるようになってから、もう何年が経っただろうか。きっかけははっきりしている―ギプスだ。
 俺は片足にギプスを着けている。歩き方を補助するためのもので、はずしても歩けるし、着けたからといって歩き方が変わったとは感じない。家に帰れば、邪魔だからすぐにはずす。俺にとってギプスは大した存在ではない。
 だが、周りは違った。ある者は歩き方を真似して笑い、またある者は俺を遠ざけた。
 腹が立った。でも、何も言わなかった。言っても余計にからかわれるだけだと分かっていた。友達や先生に訴えたこともあったが、他人が何とか出来ることではなかった。自分にも他人にもどうしようもないこと―それを知った時、人と話すことが嫌になった。終には、自分から他人を遠ざけるようになった。
『俺』と言い始めたのはその頃からだ。自分を少しでも強くもたせるための一種の自己暗示だった―俺のせいじゃない、俺は悪くない―言い返せない分、心の中で唱え続けた。
 学校は嫌いだった。それでも、学校には行き続けた。不登校になれば負けだと思った。たとえ色の無い生活でも、それだけは絶対に嫌だった。変なプライドだけが俺を支えていた。
 高校に進学するとそれは無くなった。高校生は大人なんだなと思った。クラスに溶け込んでいたとまでは思わないが、自分でも驚くほど、毎日を笑顔で過ごしていた。
 学校が、楽しいと感じた。
 色のある生活。やっと人並に生活できるようになった、そう思うと嬉しかった。
 だが、色の無い時間は存在した。
 登下校。道にはいつも小中学生が溢れていた。自分が色の無い生活を送っていた時と同じ年齢の人々。俺が最も怖いと思う人々だった。小声で何か言うかもしれない、指を差して笑うかもしれない…そんなことばかりが頭をよぎった。考えすぎだろうとは思った。それでも、すれ違う度、追い抜かれる度、体は強張り、変な歩き方は余計に変になった。聞きたくない、見たくない。そう思っても、制御などまるで出来なかった。毎日毎日、自分が築いた妄想に怯えながら歩いていた。
 日が長くなってきたと実感し始める頃、西からオレンジ色の光を浴びながら、倍ほどに伸びた黒い自分と並んで歩いていた。部活帰り、普段と変わらぬ真っ直ぐの道。向かいから一人の中学生が来るのが見えた。
 いつものように、距離が狭まるにつれて体が強張っていく…
 情けなく思えた。どうしてこんなことしか考えられないんだろう。ちょっと神経質になりすぎなだけだ、気にすることはない…
「足、変」
 妄想が、現実となった。
 刹那、掴みかかって殴り倒したいという衝動に駆られた。本当にそう言ったのかは分からないし、証拠など無い。単なる聞き違いかもしれない。だが、俺には確かにそう聞こえたのだ。動機は充分だった。
 すぐにその衝動は治まった。何やってんだか―俺は自分で自分を嘲笑した。が、怒りはしばらく腹の中でくすぶっていた。
 次の日、下校ルートを変更した。


 扇風機からは熱風しか来ない。でも、昼間からエアコンなんてもったいない。氷はすでに溶けきって、コップの半分程残っていたコーヒーは、黒から茶色に変わっていた。
元々甘いものはそれほど好きじゃない。だからコーヒーは小学生の頃からブラックだ。周りからは「よく飲めるね」とか言われるけど、俺に言わせれば砂糖やミルクを入れるほうがよっぽど信じられない。この苦味がおいしいのに。
「まず…」
 薄まったコーヒーは飲めたものじゃなかったが、残すのはもったいないので飲み干した。
「にゃあ」
 蝉の合唱にこそ負けていたが、俺にはその声が届いていた。条件反射のように台所へ向かうと、器に牛乳を注いだ。慎重に庭まで持っていくと、一匹の黒猫が塀の上に器用に座って待っていた。俺の姿を確認すると、黒猫は軽やかに塀から飛び降り、平然と牛乳を飲み始めた。雲一つ無い青空の下、黒猫が飲む、波打つ白い液体は眩しかった。
 いつの間にか俺はこの黒猫に牛乳を与えることが日課となっていた。野良猫だが人によく懐く。無類の猫好きの俺にとっては、何とも可愛らしい猫だ。野良とは思えないほど艶やかな毛並みは墨のように真っ黒だ。だから俺は、この猫をスミと呼んでいる。俺に名付けのセンスが無いことは言うまでもない。
 スミに初めて会ったのは、近くの小さな山だった。展望台からの景色が格別良いというわけではないが、登りやすいので俺は時々そこへ行っていた。まあ、ダイエットも兼ねて。
 妄想が現実となってしまった日、俺は無意識に山を登り、展望台のベンチで無駄な時間を過ごしていた。黒猫は何処からともなく現れ、恐れることなく俺のもとへ擦り寄ってきた。夕陽を浴びていっそう輝く黄金色の瞳は、真っ直ぐ俺を捕らえていた。俺は、急に込み上げてくるものを抑えられなかった。悔しい、悲しい、情けない…。気が付くと、俺は愚痴るように猫に話しかけていた。
 傍から見れば実におかしな光景だったに違いない。だが、それでもいいと思った。黒猫が自分の話を聞いてくれている。そう思うだけで、ほんの少し、気が楽になった。黒猫はずっと俺を見つめたまま動かなかった。
 その後いつ追跡されたのか、スミは俺の家をつきとめると度々牛乳を頂戴しにやってくるようになった。全く、ちゃっかりした奴。
「なあ、スミ」
 黙々と牛乳を飲み続ける黒猫の頭を撫でながらぽつりと呟いた。
「やっぱり、おれってダメな人間だな…」
 黒猫は一瞥しただけだった。


 補習が終わったからと言って、学校に行かなくなるわけではない。部活動は八月六日の準備でそれなりに忙しかった。
 交差点ではカッコウが鳴いていたが、次の信号まで待つことに決めた。自分の足では間に合わない。こんな炎天下の中走るなんて、やなこった。
 日はすでに高いところまで昇っていた。少しでも日を避けようと影を探すが、どれもやたら小さい。大きな木が一本立っているが、その影でさえも小さく見えた。
「おはようっ」
 すっかり気が緩んでいた俺は、凛とした声に思いっきり肩を振るわせてしまった。うわ、すごくダサい。
 少年は予想以上に驚かれてしまったことに驚いていた。振り返ると、叱られた子供のようにうつむいて「ごめんなさい」と言った。君は悪くないよと言ってあげたいが、うまく声が出ない。ようやく落ち着くとぎこちない笑顔を浮かべた。
「おはよう」
 少年は弾かれたように顔をあげた。一瞬、驚いた表情を見せたが、みるみるうちに喜びの表情へと変わっていった。
「うん、おはようっ」
 太陽よりも眩しい笑顔だった。
 それから、少年とは毎朝のように交差点の信号で出会った。夏休みだというのに、まるで計ったように。ただ「おはよう」と言うだけ。それだけだが、気付けば日課となっていた。お互いに名前は知らない。知らなくて困ることは無いし、知る必要性は無いと思う。ただ、少年は俺が恐れている『小学生』だ。他の小学生と何が違うのか自分でも分からないが、少年に対してはもうぎこちなさも消えて、自然と挨拶が出来るようにまでなっていた。嬉しいような、恥ずかしいような、変な感じだ。少しは進歩したってことなのかな。


 パキッと音を立てて、アイスの棒は二つに割れた。微妙に斜めになったから同じ形ではなかった。二つになった棒を口の中で転がしては噛んだ。いつもの癖だ。だんだんと、木の棒が柔らかくなっていくのが分かる。
 散歩がてら山を登ったが、間違いだった気がする。展望台に着く頃にはもうヘトヘトで、ちゃんと帰れるか心配になったくらいだ。アイスの自販機を見つけると、無性に食べたくなった。暑いからじゃなくて、青空の下でアイスを食べるのが漫画みたいでやりたくなっただけ。しょうもない理由だと自分でも思った。
 実際、おいしく頂けたのはほんの二、三口だけだった。溶ける溶ける。漫画のようにどころか、慌てて食べたから味が分からなかった。二度としないと心に決めた。
 木の感触はすっかり無くなってしまった。
 少し離れた所にあるゴミ箱に投げ入れようとしたが、思い直してベンチから立ち上がった。ゴミ箱の口は広かったが、入らない気がしたのだ。
「こんにちはっ」
 棒が手から離れると同時に、背後から凛とした声がした。もう振り返らなくても誰だか分かるし驚くことはなかった。
「こんにちは。妙なところで出会うね」
「えへへ。僕、ここによく来るんだ。おねえちゃんも?」
「うん、時々ね。家から近いんだ」
 一人っ子の俺にとって『おねえちゃん』と呼ばれるのは、何ともくすぐったかった。
「この辺りに住んでいるの?」
「うん、三丁目五番地なんだ」
 自分で尋ねておきながらどこなのか分からなかった。顔に出ていたのだろう、少年はすぐに話題を変えた。
「僕は真澄(ますみ)。スミって呼ばれてるの」
「あら偶然。わたしは夏澄。スミって呼ぶ友達もいるよ」
 真澄くんは「わあ一緒だ」と笑った。小学生らしい反応だなあと思う。
 俺は思い出したように周りを見渡してみたが、もう一匹の『スミ』はいなかった。
「よくここに黒猫が来るんだけど、墨みたいに黒いから、わたしはスミって呼んでるの」
「そうなんだ。あ、でも、みんなスミだとややこしいね」
 真澄くんはけらけらと笑った。子供っぽく、でも少し大人ぶってる感じの笑い方だ。年相応に感じたのか、よく似合うと思った。
「ところで真澄くんは一人でここに来るの?お父さんやお母さんとは来ないの?」
 普通の質問をしたつもりだったが、真澄くんは少し困ったような顔をした。
「…いないの。パパは誰か知らないし、ママは事故で死んじゃったの。今は、近所のおばあちゃんにお世話になってるんだ」
「…そっか」
 訊いてはならないことだったのかもしれないが、俺は謝らなかった。謝りたくなかった。
 俺もよく足について訊かれることがある。それは嬉しいことだ。変な目で見ず、少しでも気に留めてもらえているのだから。だから、俺は隠さず話す。簡潔に、でも正直に。嬉しくて、自然と笑顔になる。
 だが、話し終えると人は皆「ごめんなさい」と言う。その瞬間、自然な笑顔は作り笑顔に変わる。自分で訊いたくせに謝るなんて変だと思うし、ものすごく嫌だ。
 真澄くんが俺と同じ考えとは限らない。それでも、自分が嫌だと思うことはしたくなかったのだ。
「でも、淋しくないんだ。だから頑張れるの」
 真澄くんは笑顔で言い切った。彼の笑顔の力なのだろう。見ると何故だか励まされる。でも、その笑顔は他でもない真澄くん自身に向けられているように思えた。
「そっか。応援してるよ」
 俺は屈んで、まだ俺の肩までの背丈しかない真澄くんと目線の高さを同じにして言った。真澄くんの膝に目が行ったのはその時だった。
 真新しいケガは膝をうっすらと赤く染めていた。俺の目線に気付くと、真澄くんは照れくさそうに言った。
「さっき転んだんだ。舐めてれば治るよ」
 確かに大したケガではなさそうだったが、放って置くわけにもいかないのでバンドエイドを渡した。この歳になってもよく転ぶ俺は、バンドエイドを常備している。ただ、青い花柄というのが難点だ。
「これ貼っとき。こんな柄で悪いんだけど」
 真澄くんはキョトンとして、バンドエイドを見つめていた。そんなに嫌だったか、青い花柄。俺は短くため息をつくと立ち上がった。
「家に帰ってからでもいいから貼っときなよ。じゃあ、わたしは帰るね。今日はお話できてよかったよ、またね」
 真澄くんは我に返ったように顔を上げると笑顔で言った。
「うん。僕も楽しかった、さようなら」
 その笑顔が悲しそうに見えたのは気のせいだろうか。ただ一言、真澄くんが最後に呟いた言葉が耳に残った。
「ありがとう…」


 宿題をすべてやり終えた時には、夏休みはもう二日しか残っていなかった。七月中に終わらせるなんて言っていた時代が懐かしい。
 いつものように散歩に出た。郵便局の前まで来た時、花屋のおばあさんが、黒い物体の前にしゃがみこんで何かをしているのが見えた。毎日野良猫に餌を与えているおばあさんだ。話をしたことはなかったが、気になって声をかけた。
「こんにちは。何をしているんですか?」
「供養じゃ。今朝そこで死んどった」
 言われて、その黒い物体が何か初めて気付いた。息絶え、動かなくなった一匹の猫。一見どこにでもいる猫だが、おれには分かった。
 スミだった。確かに死んでいると分かるのに、その顔はただ眠っているだけのように見えた。
「いつも餌をあげとったんじゃ。他の猫と喧嘩しない良い子じゃった」
 おばあさんは、まるで自分の孫のように、愛おしそうにスミを撫でていた。
「この猫は、どこかよそに住んどるみたいなんじゃ。本当ならそこへ埋めてやりたいんじゃが、分からんけぇのう…」
 独り言のように呟くおばあさんの言葉に、おれは何か引っ掛かるものを感じた。
「分からんと言えばもう1つ…。わしは昨日、そこで人が轢かれるのをみたんじゃ」
「え?」
「暗がりでよく見えんかったが、あれは人影じゃった。じゃが、行ってみたらおらんかったんじゃ。わしも年じゃけぇ、見間違えたと思って帰ったんじゃが、気になってのう。今朝行ってみたらこの猫が死んどったんじゃ」
 おばあさんは「不思議なことがあるもんじゃ」と言いながらスミを撫でていた。おばあさんの話は信じ難い話だった。だが、自分の口から出た言葉はもっと信じられなかった。
「おばあさん。わたし、この子の住んでる所知ってます」
 おばあさんは驚いた顔をして言った。
「本当かい?じゃあ、そこへ埋めてやってくれんかのう」
「はい」
 おれは低く小さな、でもはっきりと言った。
 野良猫の棲み処など知るわけがない。だが、行く当てがあった。そこへ行けば、引っ掛かっているものが何か分かる気がした。

 三丁目五番地。

 地図で調べると、意外と近いことが分かった。使わなくなったバスケットに、スミを布でくるんで入れて歩いた。気のせいか、生きていた時より重く感じた。
 車一台がやっと通れるくらいの細い道が続いた。両側には犇めくように民家が立ち並んでいる。知らない町に迷い込んだ気分になり、自分の行動範囲の狭さを改めて痛感した。
 三丁目五番地は確かに存在した。しかし、そこに家は無く、人が入らないよう鉄線が張られていた。雑草の長さから、ここ数ヶ月のものではないとすぐに分かった。
 おれは驚かなかった。それどころか、こうなるのではと心の奥で予想していた。
 人目が無いことを確認すると、鉄線を潜って中に入った。草を掻き分け奥へ進むごとに、この先に待ち受ける真実への恐怖がつのっていく。だが、もう引き返せなかった。
 突然、視界が開けた。驚いて足元を見ると、地面の色が異なっていた。植物が育たない土なのだろう。見回してみてもこの地面一帯は、境界線を引いたように何も生えていなかった。思ったよりも広い空き地の隅に目が留まったのは、偶然ではなく必然だった。
 四角い大きめのドラム缶が一つ、横倒しになっていた。表面こそ錆びついていたが、内側はきれいだった。中を覗いた瞬間、自分の中に引っ掛かっていたものが一気に吹き飛んだ。柔らかい草や羽が詰められている中に見える青いもの。皺一つ、汚れ一つ付かないように大事そうに置かれている青いもの。
 花柄のバンドエイドだった。


 何の前触れも無く二学期は始まった。昨日までは八時に起きていたのに、今日からは六時起きだ。眠くて敵わない。そして当然のようにテストがある。だから休み明けって嫌いなんだよなあ、と、ため息を漏らす。
 交差点に真澄くんはいなかった。いないことは分かっているはずなのに、信号を二つ見送った。
 空き地の土は思ったほど固くなく、猫一匹埋める穴を掘るのに十分とかからなかった。スミの横には少量の餌と花、そしてバンドエイドを添えてやった。埋め終えると、また来るからねと呟いて逃げるようにその場を立ち去った。一度だけ振り返って、ここに埋めたことは正しかったのかと思ったが、深くは考えなかった。
 結局、スミの真意は謎のままだ。人間の姿に化けてまで現れなければならない程、彼の目には情けなく映ったのだろうか。スミと出会って…いや、真澄くんと出会って自分が変わったのは確かだ。彼にはそれが分かったのだろうか。…分からない。
 教室は夏休みの思い出話やこれから待ち受けるテストの話で騒がしかった。ふと自分の席がどこだったかを考えてしまった。
「あ、夏澄おはよう」
「おはよう」
 友人と会うのは補習以来だ。一瞬、気まずい空気になるのを覚悟したが、彼女は気にしていないようだった。もしかしたら、すっかり忘れているのかもしれない。
「夏澄テスト勉強した?あたしさっぱりだよ」
「してるわけないじゃん。私もさっぱりだよ。宿題で手一杯だったし…」
 言いかけて顔を上げると、友人は得体の知れないものを見るかのようにまじまじとこちらを見ていた。
「な、なに?」
「あんた、今『私』って…」
「ああ。直せって言ってたから直したのよ。ひと月足らずで直すなんてすごいと思わない?」
 少し得意げに言ってみた。「すごい」とか「やれば出来るじゃん」とかいう反応を期待したのに、彼女は腹を抱えて笑い出した。
「ちょ、マジ、夏澄が『私』とか、に、似合わねー…あっはははは!」
 失礼な、と思ったけど、彼女があまりにも笑うのでつられて私も笑ってしまった。確かに、まだ自分でも気持ち悪いと思う時がある。慣れるまでもうしばらくかかりそうだ。

 澄みわたる青空は、どこか懐かしいほどまぶしかった。
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