第9話 モラトリアム・アゲイン

文字数 4,702文字

 次の日は、一人で地下鉄に乗った。
 地下鉄の駅から外に出ると、太陽が出ていて眩しかった。街路樹以外の植物は見えないのに、この世の終わりみたいに蝉が鳴いていた。日陰から出ることがひどく億劫になったので、携帯でA大学までの道筋を調べた。現在地から一度も曲がらずにたどり着くようだった。道に迷うはずがない。日傘を開いて、意を決して歩き出した。
 夏休みだからか、大学の構内はがらんとしていた。どこからかドラムを叩く音が聞こえてきた。しばらく歩くと、ちょっとした広場のような場所に出た。直径三十メートルほどの円形になっていて、真ん中に知らないおじさんの石像があった。おじさんは学帽を被っていたから、きっと大学の創始者か何かだろうと思った。
 広場のふちにベンチが並んでいたので、ちょうどおじさんを正面に見られる場所に座った。彼の目線は私の頭上を通り過ぎて、何もない建物の壁に注がれていた。私とおじさんの間を、何人かの学生が通った。彼らは一人きりだったり、二人組だったり、カップルだったり、十人ぐらいの大所帯だったりした。私は携帯を見ているふりをしながら、学生たちを目で追った。携帯はずっとロック画面のままだった。
 男子学生の一人と目があった。
「ねえお姉さん、これから時間ある?」
 彼はそう言った。マッシュヘアーで、丸縁の眼鏡をかけていた。紺色の襟付きシャツを着ていた。イケメンではないけれど、とりわけ不細工でもない。強いて言えばひょうきんな顔だった。
「なんで?」
 私は反感たっぷりに言った。
「演劇サークルで、これから公演があるんだ」
「へえ。どこでやるの?」
「一号館のホール。チケットはタダで良いから」
 渡されたチケットには、四畳半ほどの和室で一人の男が正座しているイラストが描かれていた。油絵のようなタッチだったけれど、男の顔は黒く塗りつぶされていた。夜明けの朝顔。それがタイトルだった。
「君は何の役なの?」
「僕は音響担当だよ。役者はほかにいる」
「じゃあ、行ってみようかな」
「本当に? 助かるよ。あと十五分で開演だから」
 彼は細長いチケットを渡してきた。
「ねえ、一号館ってどこ?」
 私はそう聞いた。
「なんだ、うちの学生じゃないのか。案内するよ」
 彼と横並びなって構内を歩いた。彼と私の身長はほとんど同じだった。大学時代に戻ったような気分になった。
「何年生?」
 彼はそう訊いた。
「三年生」
 私は嘘をついた。そうなんだと彼が言うので、年齢を誤魔化せたみたいでうれしかった。もういちど大学生をやっても良いかもしれないと思った。
「どこの大学?」
「関西の方なの。今は東京の友達の家に遊びに来ているけど」
「そうか。夏休みだもんな」
「君は夏休みじゃないの?」
「夏休みだけど、普段からあまり授業に行かないから、夏休みの感覚がないんだ。ずっとサークルに顔を出してばかりだし」
「なんで演劇サークルに入ったの?」
「なんでだろうなぁ」
 彼は空を見上げながら考えた。彼の目線の先には、建物に挟まれたくすんだ青空と雲しかなかった。彼は二十秒くらい何も言わなかった。地面のアスファルトがレンガ調から真っ黒なコンクリートに変わった。
「演劇をしている人を見ると、カッコいいなって思ったんだ。でもやってみるとこれが難しくて、仕方ないから音響担当に回ったんだ。裏方だよな。これが意外にも好評で、俺の効果音には臨場感があるとか、タイミングが絶妙だとか言われるんだよ」
「裏方の方が向いているのね」
「そう、向いているから続けてるんだ」
「本当は役者がやりたいんでしょう」
「そうだな。でも、やりたいけど苦手なことを続けるより、やりたくないけど得意なことを続ける方がずっと良い」
「そうかな」
「そうだよ」
 一号館は他のどの建物よりもさびれたコンクリートの建物で、あちらこちらが日に焼けひび割れていた。自動ドアがガラガラ音を立てながら開いた。入ってすぐ左手がホールの入口になっていて、畳ほどの大きさの立て看板が掛けられていた。
「中でチケットを見せてくれれば良いから」
 もう少し粘って集客してくる、と彼は言った。
「ねえ、公演が終わったら迎えに来てくれない?」
 私は彼の目を見てそう言った。
「良いけど、なんで?」
「帰り道が分からないの」
「来た道を戻れば良いよ」
「方向音痴なの」
「地図アプリがあるでしょう」
「私、あれ苦手なの。画面の中の地図を回すと、自分も一緒に回っちゃうの」
 しばらくの間彼は目を合わせてくれたけれど、恥ずかしくなったのか、腰に手を当てて不意に玄関の方を振り返った。それから自分の首筋を触った。
「良いよ。少しだけ片づけをしたら行くから、この辺りで待っていて」
「ありがとう」
 ホールの中は、ホールと言うにはあまりにお粗末で、大教室にあるような木造の椅子が五十席ほど並んでいるだけだった。私は少し迷ってから、一番後ろの列の真ん中の席に座った。舞台の上にはポスターの通りに四畳半の畳が敷いてあって、奥に段ボール製の仏壇が立てられていた。
 音楽がかかっているわけでも、アナウンスが流れてるわけでもなく、他のお客さんのひそひそ声だけが聞こえた。暇なのでお客さんの人数を数えてみた。全部で十六人、そのうち一人で来ている人が八人、二人で来ている人が四組だった。みんな学生みたいだけれど、そう思う自分は学生ではないのだから、実は全員学生ではないのかもしれない。椅子は硬くて、終わるころには腰を痛めそうだと思った。
 やがて舞台の下手からスーツを着た女性がでてきた。
「これから皆様にご覧いただくのは、どうしても夢を諦めきれない男の苦悩と葛藤の物語です。そしてこの物語は、皆様の物語でもあるのです。さあ皆様、準備はできていますでしょうか。お手洗いに行くなら今しかありません。携帯はマナーモードに設定の上、心のポケットに大切にお仕舞いください。皆様の物語が実りあるものでありますように。開演まで今しばらくお待ちください」
 スーツの女性は手元のマイクに向かって一字一句この通りに語ると、一礼をして舞台袖に下がった。
 マナーモードにするために携帯を開くと、由紀からメッセージが入っていた。「今日は遅くなるから、先にごはん食べてて」と書いてあって、まるで同棲しているみたいだ。マナーモードにした携帯を心のポケットに仕舞った。
 ぼんやりと灯っていた照明が徐々に明るさを落とし、あたりは真っ暗になった。天井に取り付けられた火災報知機の赤いランプが一番星のように目立った。ステージの中がぱっと明るくなると、いつの間にか喪服を着た男が背中を向けて正座していた。彼は背筋をぴんと伸ばし、両手を腿の上に置いていた。男は柔らかな手つきでおりんを鳴らした。そして手を合わせて頭を垂れた。おりんの丸っこい金属音がホールを包み込んだ。誰かが死んだのだ。
 ホールの出口で、私は二十分も待った。その間に、数少ないお客さんがばらばらと出ていき、サークルのメンバーが忙しく出入りし、私の足腰はさらに痛くなった。暇なので、パズルゲームをして時間を潰した。ようやく彼が出てきた。おまたせ、と彼は言った。
 私たちは来た道を戻って、大学の門に向かった。相変わらず人気の少ない構内を、先ほどの公園の話をしながら歩いた。本当は帰りの道くらい覚えていることを、私は言わなかった。彼だって、本当はその事を分かっているような気がした。彼の歩くペースが、行きのときよりもゆっくりだったからだ。
「結構面白かったよ」
 私はそう言った。
「本当に?」
「うん。演技にも熱が入っていたし、笑えるシーンもあったし」
「そうかぁ」
「何、作り手としては不満なの?」
「不満というか、今回は結末をどうするかで揉めたんだ。すっきり終わらせた方が良いっていうやつと、結末を曖昧にして終わらせた方が良いっていうやつがいた」
「結局、曖昧な感じで終わったのね」
「うん。だけど俺は、もっとすっきり終わった方が良かったと思うんだよ」
「そう? 私は曖昧な方が好きだけどな。考えさせてくれる感じがして」
「でもそれだと、何のメッセージも伝えられないじゃないか。物語が意思を持っていないとダメなんだ」
「ふうん。でも私は、さっきのお話は面白いと思ったよ」
「そう言ってくれるのはうれしいよ。でも、あの結末がなぁ」
「じゃあ君が脚本を書けば良いじゃない」
 私がそう言うと、彼はそうだなぁと呟いて黙ってしまった。結局彼は、役者と音響と脚本のどれをやりたいのだろう。いや、本当は全部自分でやりたいのかもしれない。けれどそんなことは不可能だから、役者にも音響にも脚本にも中途半端に片足を突っ込んでいるのだ。その様があまりにも不器用でカッコ悪くて、彼のことを少しだけ愛おしいと思った。

 やがて正門に戻ってきたけれど、お腹がすいたという私の一言によって、二人で近くのハンバーガーショップに入った。店内は若者でほとんど埋まっていて、大学よりも大学らしかった。流行のポップソングが安っぽいスピーカーから流れていた。
 ハンバーガーとポテトとアイスティーが乗ったトレイを持って、私たちはどうにか二人がけの席に腰を落ち着けた。クッションの効いたシートのおかげで、腰の痛みが引いていくのが分かった。私たちは黙々と食事をした。私はポテトから食べるタイプだけれど、彼はハンバーガーから食べるタイプのようだ。ポテトをほとんど食べきったところで、私は口を開いた。
「ねえ、人を探してるの」
 彼はポテトを口に運ぶ手を止めた。
「へえ、誰を?」
「斎藤大輔っていって、君の大学の院生なの」
「ううん、聞いた事ないな。学科は?」
「理数科、だと思う」
「理数科か。何人か知り合いがいるから、聞いてみようか」
「本当に? ありがとう、助かる」
 私は心底うれしそうな声を出した。実際のところ、本当に大輔が理数科に行ったのか確証がなかった。大学の理学部に進んだことと、大学院に進学したことしか知らなかった。大学院は別の学科に行ったのかもしれないし、そもそも別の大学の院に進んだのかもしれなかったけれど、そのままエスカレーター式に院進したことに賭けるしかなかった。
 彼は何人かの知り合いに電話をかけてくれた。なかなか手応えはないみたいだった。その間に私はポテトもハンバーガーも食べ終わり、彼のポテトは冷めてしなしなになっていくので、私も申し訳ない気持ちになってきた。わずかに残ったアイスティーの氷が解けて、ほとんど水になっていた。
「あ、本当ですか?」
 彼は電話口にそう言うと、私に目配せをした。ありがとうございます、また今度飲みに行きましょうと言って電話を切った。
「見つけたよ」
「マジで?」
「うん。アカウントももらった」
 彼は携帯の画面を見せてくれた。確かに「ダイスケ」という名前のアカウントだった。
「すごいすごい。ありがとう。本当にありがとう」
 私が覚えたての言葉みたいに何度もありがとうと言うので、彼もうれしそうだった。大学のコミュニティがこれほど素晴らしいものだとは知らなかった。彼とアカウントを交換してから、大輔のアカウントを送ってもらった。
「友達のなの?」
 彼がそう聞いた。
「うん、高校の友達。私この間、自分のアカウントを間違えて消しちゃったの。それで誰とも連絡ができなくて大変だったの」
 私はまた適当なことを言った。今どき誰だって、いくつもSNSをやっている。誰とも繋がれない状況を作る方がずっと難しい。けれど目の前の彼は疑うそぶりを全く見せなかったので、私は安心した。
「見つかって良かったよ。もうなくさないようにね」
 彼はそう言った。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み