やや遅れた前書き

文字数 1,575文字

芥川龍ノリスケ氏の本を拾ったのは練馬区の路上だった。
わたしのこの文章よりも先に氏の『皮膚炎』『時期』『スイッチ』を公開したのは、小説投稿サイトに載せる以上は、少しでも構成を工夫すべきかと考えたからである。説明たらしい序文を先頭に置くよりも、いきなり氏の作品から始めた方がインパクトが出、興味を持ってもらえるかと思われた。わたしは他にもカクヨムやステキブンゲイにも芥川龍ノリスケ氏の短篇を投稿してみた。しかしそれらのサイトはあまりに多量の小説や文章が投稿されているためか完全に埋没してしまい、まったく読者が付かなかった。唯一、NOVEL DAYSのみ反応があったので、ここだけに絞って引き続き氏の短篇小説およびわたしがこの本を拾ってやがて氏と出会い、その後の或る結末に至るまでを載せて行こうと思う。
わたしは40歳を過ぎ、視界が霞んだり人の名前がすぐ出てこない、日中もぼんやり眠い、など、ちょっと自分の健康や体のコンディションに老いを感じはじめ、ジョギングを習慣にすることに決めた。その日、深夜に大雨が降ったらしく、白いキャップ帽を深くかぶったわたしは足元に視線を落とし、あちこちに出来た水たまりをかわしながら早朝の練馬を走っていた。ジョギングの第一の効能は、考え込むことから解放されることかもしれない。我々は家族のことや、仕事のことや、過去のことや、お金のことで、ひたすらに悩んでいる。無心に走っている間はこうしたことに関する結論の出ない思考から解放される――この恩恵をわたしは感じていた。考えずに済む恩恵を。
青信号の点滅する横断歩道を通過する際、雨水を吸って死んだように横たわる本が視界に入った。わたしは最初、そのまま通り過ぎた。しかし何か気になって、横断歩道を渡り切った先で振り返った。信号は赤に変わってしまった。早朝にも関わらず車は途切れなかった。わたしは本が轢かれないように祈った。もしかしたら夜中にすでに轢かれてしまっているかも知れない。中毒に近い読書家のわたしは本というものを愛しており、それが路上に濡れて落ちているだけでもたまらなかった。車が途切れたところを見計らって本を拾い、そのまま元来た方へ戻った。本はカバーが外れ、表紙のタイトルも判然としない。やはり何度か車に轢かれたらしい。ページは雨水を吸い過ぎて崩れ落ちそうだ。持ち主はこの本を探しているだろうか。このまま路上に置いたままにした方がよいだろうか。しかしどう見ても本はすでに致命傷を受けており、使い込んだ雑巾のような色をしてだらりと垂れ下がっていた――たとえ持ち主がこの本を見つけたところで再び自分の書棚へ戻すとは思えない――わたしは、生まれて初めて人のものを盗んだ。ジョギングを中止するとそのまま家へ帰り、陽当たりの良い窓のそばへバスタオルを敷いて、本をそっと置いた。ドライヤーの風さえこの本を破壊してしまいそうで、まずは或る程度自然に乾かしてやるのが最善と思われた。その時から、本の修復と判読作業が始まった。完全に乾くまでは危うくて触れなかった。何ページかがくっついて一体化しており、簡単に、もげるように破れてしまう。わたしは数日かけて慎重に根気よく乾かした。
やがてページは枯れ葉のような質感に丸まって乾燥した。かさついてたいへんめくりづらかった。ピンセットを用いてページをめくった。わたしは誰が書いたどんな本なのかも分からないまま苦労して目を通して行った。最もダメージが少なく、割と容易に解読できたのは『セイロン風』という小説だった。これが、わたしが初めて読んだ氏の小説である。それを次に載せる。最初に公開した『皮膚炎』『時期』『スイッチ』の3作はかなり短く、そして唐突に非現実的な展開をし、乱暴に終わるが、これはそれらの小品よりかはもう少し長さがあり、日常的な話である。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み