『セイロン風』

文字数 1,390文字

人が満たしていて当然の何かに失格しているような気がしていつも私は不安だった。
春だと云うのに溜め息のように重苦しい曇天はただでさえ不安に苦しむ私には耐え難かった。
私は都営電車に乗って馴染みの《喫茶 ポピイ》へ避難することにした。

《喫茶 ポピイ》は昭和の昔から雰囲気をそのままに営業を続けている、
古風な椅子や机の穏やかな雰囲気が落ち着く、畢竟洒落た個人経営の喫茶店であった。
しかも昭和の昔にこの店を開業したマスターは健在であり、
年齢は七、八十と見え、すっかり頭も禿げ上がっているものの、
元気な老人特有の晴れやかな微笑に我々客を迎えてくれる。

私はいつも通り最隅の丸卓へ疲れた腰を荷物でも置くように落とし、
この店で私の一等お気に入りの「セイロン風ミルク・ティ」を注文すると、
次に同人誌へ書く文章の事を考えたりした。

私のスマート・フォンのメモ機能へ何かの折にストックしてあるテーマは豊富だった。
が、メモをしたときには確かに面白いと感じたはずのテーマのほとんどは、
冷静に確認してみると寂れた公園の遊具のように何か陰鬱で頼りない感じを与えるものばかりだった。
わずか数点の目を引くメモでさえ、どれも下ネタなのであった。
私は片手に毛髪をかきあげ、木造りの枠に囲まれた窓から、
ぼんやりと曇天の下を眺めた。

人々は快活そうであったし、または退屈そうであった、
手をつないでいる者もあった、或いは誰も近寄るなという雰囲気を出していた、
忙しそうだったり、しんみりとしていたり、うきうきしながら電話していた、
怒り肩で、又は胸を張って、猫背であったり、大股であったり――、
右から左からひっきりなしに私の前を通り過ぎていった。
私はこういう人々の一見ランダムな個々の動きの全体を、
何か得体の解らない法則の支配しているような気がして、
恐ろしい気持ちにならないわけにはいかなかった。

「セイロン風ミルク・ティでございます」

そこへ私の丸卓へ、
この喫茶店のマスターの孫らしい女性が注文を届けに来てくれた。
彼女はしなやかで腰まで伸ばした黒髪のさらりと揺れる、
若々しくも全体的に品のある人なのに違いなかった。
私は憂鬱な気分を紛らわすために、
この女性店員へ話しかけてみることにした。

「あなたはマスターのお孫さんなの?」
「ええ、そうですよ。お店を手伝っているんです。
もうおじいちゃんも年だし。
ところでお客様はいつもセイロン風ミルク・ティですね」
「うん。実はセイロン風と云うのが何なのかも知らないけれども。
やはりスリランカのこと?」
「――あら、あたしも知らない。ちよっとおじいちゃんに聞いてみますね」

こう言い残すとマスターの孫はカウンターで皿を拭いているマスターのもとへそそくさと歩み寄り、
一言三言小声に交したと思うと、また私の丸卓へ戻って来た。

「知らないのですって」
「え、マスターも?」
「ええ。可笑しいですね。
作っている本人が知らないだなんて」

私はこの娘のいかにも可笑しいと云う風に笑うのに何か安らぎを感じ、
元気を取り戻した上、ますますこの《喫茶 ポピイ》を愛し始めた。

「存外、物事を長く続ける秘訣は、
こだわっていると見せかけて実は適当にやっている――
こう云うことなのかも知れない」

私はスマート・フォンのメモ機能へそのようなことを打ち込むと、
テーマが見つかったことに安堵して、
ゆったりと何風だか分からないミルク・ティーをすすった。

(了)
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み