第1話

文字数 1,610文字

 はー、今日はもうやめだ、やめ。
 自分のデスク周りだけぱぱっと適当に片付けると、傍らに置いたカバンを手にオフィスを出る。
 ここのところ、ずっと長時間の残業続き。毎晩のように終電間際の生活を送っていた。
 いつもは暗く沈んだオフィス街も、今日はまだビルの窓から明かりが漏れ、そこかしこに人の気配を感じる。
 今ならまだ間に合うか?
 スマホを取り出し、時間を確認すると、俺は歩を速めた。

 一週間前、満員の通勤電車内で、水族館のナイト営業の吊り広告をたまたま目にした。会期は、たしか今日からだったはずだ。
 あの吊り広告を見たときはなんとも思わなかったが、今日の終業チャイムを聞いてから、ずっとあの広告が頭の片隅から離れなくなっていた。
 ひとり焼肉、ひとりカラオケまでは経験済みだが、ひとり水族館はさすがに初めてだ。
 周りはきっとカップルばかりに違いない。
 激務続きでデートどころかメッセージのやり取りすらろくにできず、大学から付き合っていた彼女に見限られてから、三年……いや、もう五年になるか。
 思わず自虐的な笑みが漏れる。
 同じ職場には『俺はもう仕事と結婚することにしたから』と割り切っているような奴もいるが、俺はまだ『仕事が恋人』と言える域にすら達していない。
 とはいえ、彼女と別れて以降、俺の周囲に女の『お』の字すら感じたことはないが。

 閉館三十分前の水族館に、なんとか滑り込む。
 館内の人影は、思ったよりもまばらだ。
 まあ、平日のこんな時間に来るようなもの好きは、そうはいないか。
 イルカショーの時間はとうに過ぎていたため、重い足を引きずるようにして、ペンギン水槽へと直行する。
 水槽の前には、愛らしいペンギンの姿に歓声を上げる大学生くらいのカップルが一組。
 俺は、壁際のベンチにどかりと腰を下ろした。
 よちよち歩くペンギンをぼーっと眺めていると、なんだか無心になれる。
 しばらくすると、バケツを持った飼育員が、ペンギン水槽内に姿を現した。
 察しのいいペンギンたちが、飼育員をさっそく取り囲む。
 バケツが地面に置かれると、我先にと顔を突っ込みエサをついばみはじめた。
 その様子をしばらくの間眺めていると、周囲のペンギンよりもひと回り小柄なペンギンが、何度もゴツイ体格のペンギンに押しのけられ、なかなかエサのバケツへと辿り着けずにいるのに気がついた。
 かわいそうに。俺が念力でも使えれば、おまえに一匹くれてやるのにな。
 弱肉強食の世界。結局弱いものは淘汰される運命なのか。
 ペンギンの中に、社会の縮図を見ているようだ。
 かく言う俺も、上司に手柄を横取りされ、気力が尽きかけている。
 努力が報われる世界なんて、ただの理想だ。
 うまく立ち回れる奴だけが得をする。
 俺みたいなのは、結局なにもなし得ないまま、社会の藻屑となって消える運命にあるのだ。
 これ以上自分を重ねたあの小柄なペンギンの惨めな姿を見ていたくなくて、ベンチから立ち上がりかけた俺は、一瞬の奇跡を目の当たりにし、もう一度腰を下ろした。
 幾度も阻まれてきた大きなペンギンの隙をつき、小柄なペンギンがついにエサを手に入れたのだ。
 ははっ。すごいな、おまえ。
 エサのイカナゴを咥えたまま、得意げな顔で俺の方を見たそのペンギンが、じーっと俺を見つめてくる。
 なんだ、おまえ。ひょっとして、俺のことを気遣ってくれているのか?
「俺はいいよ。おまえが自分の力で手に入れたんだ。おまえが食べな」
 俺がそう言うと、そいつはうれしそうにイカナゴを丸呑みにした。

 ……そうか。できるまでやれば、できるんだな。
 まだすべてを投げ出すには、早いのかもしれない。
「よしっ。俺ももうひと踏ん張りするか。おまえに負けるわけにはいかないからな」
 パンッと気合いを入れるように太ももを一度叩くと、勢いよく立ち上がり、俺は水族館の出口に向かって歩きはじめた。
 来たときよりも、ずっと軽い足取りで。

(了)
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