#9 雪のように降り積もる

文字数 10,422文字

 影の中から、緩慢な動作で現れる――墓から蘇るかのように。

 美しい容姿の青年。そう、あまりにも常軌を逸しているほどに。夕暮れ、差し込んでくる日差しまでが停滞し、何もかもがその場で静止するかのようになる。室内の温度全てが一気に低下する。

 エスタは膝をつき、彼を見た。そして、身体のこごえを自覚した。

「ディプス、どうして……」

 ガチガチと鳴る歯の奥から声を絞り出す。すると向かい側で揺れる青年――輪郭のおぼつかない幻のようにその姿は映し出される――は、笑った。口が、裂けた。

(願いを叶えてあげると、そう言ったんですよ)

 それは脳内に直接響いた。

(つまりは、シャーロット・アーチャーとの輝かしい日々にあなたを戻してあげると。そう言った)

「なんで、なんであなたがシャーリーと……あたしのことを……っ」

 身体を両腕で抱きしめる。強く、強く。
 寒さからではない。自分の奥の奥に秘めたものが曝け出され、素手で乱暴に弄られたような不快感をおぼえたからだ。

 ぶるぶると、エスタは震え続ける――恐怖。全てはその二文字に染められていく。

(それはね、エスタ……)

 さも親しげに、彼は言った。

(僕が、僕だからですよ――)

 そして。

 影の中から、ゆっくりと顔を出すもの。それによって暗黒は広がり、彼女の前面を全て覆い尽くす。視界は暗く染まり上がる。

「――ッ」

 喉の奥で悲鳴が上がる。だが、視界をそこから外すことは出来ない。自分が今見ているものが信じられない。しかしそれは現実。脳がショートしそうになる。今、彼女が見ているものは――。

 ……化け物だ。あの、街で暴れていた巨体の化け物。ニュースで見て、ダウンタウンを滅茶苦茶に暴れ回っていた。

 奴が今、影の中から半身をさらけ出し、エスタに向けて両腕を伸ばしていた。

 ――その、醜悪な赤黒い二本が、彼女に向かってくる。

(僕のことは、君達が一番良く知っているでしょう)

「……シャーリーを、巻き込むつもりなの」

 何がなんだかわからなかった。頭の中は目の前の存在に対する恐慌でいっぱいだった。それでも。それでも――ディプスの口から、『その名前』が語られることだけは、絶対に嫌だった。嫌で嫌でたまらなかった。

 否定して欲しかった。いつも通りの、街に引き起こす度が過ぎた悪ふざけのように――その発言も、単なる冗談にすぎないのだと。そう言って欲しかった。

 だが彼は、再び亀裂の如き笑みを浮かべて――告げた。

(ええ、その通り。そのとおりですよ)

 腕が彼女を掴もうとして加速した。

 エスタは悲鳴を上げた。

 声が裏返った。脚がもつれた。皮膚が引きつった。彼女は身を翻して玄関へと走った。
 だが、そこで転倒する。膝がフローリングにしたたかに打たれる。ぎりぎりに立ち上がる。後ろからは腕が伸びてくる。

 その醜悪な顔面が、影の中から首をもたげながら、彼女を見ている。光と影。強烈なコントラストが、狭くて汚い彼女の城を犯していく――まるで、抽象画のように。

 彼女は戸棚にぶつかった。棚のうち一段が外れて、床に中身が転がる。彼女はぶちまけられたそれらの中に倒れ込む。
 ほとんどは『仕事』のための服。着たくもないものばかり、薄汚い情欲と暴力とカネと――決して取れない汚れで染まりきったものばかり。エスタは涙を落とす。薄い布に水滴が染み込んでいく。

「嫌だ――嫌だっ、」

 そして彼女の視界に入るものがある。

 それは、鮮やかな赤色で染め上げられたマフラー。随分と古いようだったが、一際清潔に保たれていた。彼女はそれに手を伸ばし、ぎゅっと掴んだ。その動作はあたかも無意識に行われているようだった。

「どうして――どうしてっ! あの子は関係ない、あの子はもう、なんにも関係ない! それなのに、あの子に一体何をしようっていうのッ!!」

 縋るように。そこへ、ディプスの甲高い声が重なり、彼女の悲嘆を蹂躙する。

(必要なんですよ彼女は!! 僕自身の倦怠を――埋めるためにねッ!!)

 化け物の腕が、エスタを掴んだ。

 その力は、か弱い一人の少女を影の中に引きずり込むにはあまりにも強大で……。

 彼女は抵抗した。だが、何の意味もなさない。衣類が乱れ、床に更に散らばっていく。

 彼女は影に、呑み込まれていく。化け物とともに。

「嫌だ、嫌だっ……シャーリーは、あたしのシャーリーは、こんな、こんな街で――ッ」

 ディプスは笑った。笑い続けた。彼女は呑まれていく、呑まれていく。

「……ごめん。ごめんなさい、あたしなんかと、友達で……」

 最後に彼女は涙を流し、影の中へと完全に呑み込まれて、部屋の中から消え失せた。そこにはもう、ディプスも化け物も居なかった。

 エスタの手が、赤い布の帯を掴んでいる姿を最後に、室内は静寂に包まれた。

 ――そして。
 ただ、夕暮れだけがそこにあった。



『こちらダニエル・ワナメイカー、現場はまたもや惨状となっています……市民の皆様は一刻も早い避難をお願いします!! ――くそっ、俺はさっさと違う仕事に……畜生、もう知らねえ、俺にも逃げさせろッ!!!! ――えっまだカメラ入ってたの!!?? 嘘だろ――――』

 報道ヘリが、ダウンタウンの上空を袈裟懸けに飛んでいく。その下に、炎と煙の街が広がっている。


 ビル屋上。室外機に囲まれながら巨大な対戦車ライフル(デグチャレフ・カスタム)を構えているのはミランダだった。その左手には今スマートフォンが握られ、ゆっくりと腰元へと降ろされていく。

 ……彼女は今しがた、フェイから全て聞いた。同様の通達が、キムやグロリアにも届いていることだろう。

「なんてこと……あの子が」

 そして彼女の目の前で今、怪物が唸りを上げて、ミランダの向かい側のストリートにあるビルに大腕を振るい激震させる。すぐ眼前である。咆哮が聞こえる。煙を僅かに隔てるばかりで、今気紛れを起こして怪物がこちらを向けば、ミランダもただではすまない。無論、何もしなければ、だが。

 その化け物の体の上を駆け巡り、群がる触手状の物体をかわしながら閃光を奔らせる存在。ミランダの目の前を通り過ぎ、また彼の身体の反対側へと走っていく。全ては、出来の悪いモンスター映画のように。

 向かい側でビルにヒビが入り、ガラスと壁材が骨組みから吐瀉される。霞む空気の奥できらきらと夢のように瞬いている。

「……おい、何してるミランダッ!!」

 彼女はまたも、一瞬ミランダの目の前を通り過ぎていく。彼女と、こちらを向いていない怪物の身体がすぐそばにある。それを、まるで幻を見るかのように眺める。

「……なんてことなのかしら」

「何をしているとッ――……言っているのだ、たわけが! 早く計画通りに事を成せ!!」

「だって……やる気が出ないのよ。いつだってこの街は……悲しみに包まれているわ」

「莫迦な事を抜かすな――ぐあッ!!」

 腕が振るわれて、チヨは吹き飛んだ。ミランダはその様子を、見た。

 ――……ああ、何故こうも悲しいことばかり起きるのだろう。何故こうも、不運が重なるのだろう。そしてその中で自分は、銃を撃つことしか出来ないのだ……ミランダ・ベイカーはそんな重い倦怠の中に一人、沈んでいた。

 そうなればもう、彼女は何もすることが出来ない。そしてその時間が増えていくごとに、彼女の内心での焦りと罪悪感が倍加されていく。それが余計に、彼女を無気力へと縛り付けるのだ。

 医者は言っていた――その時はいっそのこと、何も考えずに動いてみるのが良いのです。理由はなんでもいいんですよ。
 簡単に言う。医者という連中はいつだってそうだ――あぁ不幸、ミランダ・ベイカーはとんだ罪人だ、しかし誰も裁いてくれない。誰も、誰も……。

「もし私がシャーロットなら……どうするのかしら。この状況を……ねぇ、フェイ」


「芦州一刀流……ッ!!!!」

 巨人の腕の上を駆け、悶え狂うその巨躯の頂点に達した時、彼女は叫びながら刀身をその赤黒い肉に突き立てる。
 そのまま逆上がりのように脚を『蹴り』、『孔』を展開。回転しながら下へ通りていく。まるで裁断機のごとく。

 その巨大な肉の塊に次々と亀裂がほとばしり、そのたびに周囲に筋が飛び散って車やビル壁を赤黒く染める。波濤の如き音を響かせながら、彼女は右腕から脇の下までを一気に切断しにかかったのだ。

 しかし。

「くッ」

 着地する。
 今、目の前で。肉が……再生していく。大きく開いた断面が、触手状の物体によってつなぎ合わされ――笑ったように見える亀裂が、埋まっていく。うぞうぞと不気味な音を響かせて。

「南無三……」

 チヨは吐き捨てる。そして、その肉の塊の中央に囚われた存在を見る。

 彼女はそれを知ってから、何度も引き剥がそうとした。だが、少女は触手の肉にがっちりと固められて拘束されていて、簡単に解放することが出来ない。

 仮に周囲の戒めを解いたところで、たちどころに再生してしまう。完全なる詰み。明らかに、再生能力が向上している――あの触手のような機構もそうだ。それはあの少女と融合したことで得られたものなのだろうか。

 ……腕が、迫り来る!

「――ッ!」

 チヨは受け止めた。だが。その衝撃を体の中だけでかき消すことは無理だった。彼女の力の真髄はあくまで切っ先にのみ込められる――このような防戦には、対応していないのだ。

 ……たちどころに彼女は後方へ吹き飛ばされる。周囲の瓦礫や自転車が風圧で飛ばされるのを目にする。身体の『孔』を展開してブースト、空中で姿勢制御。目の前で、噴き出た自分の血が不定形をとって踊るのが見えた。

 そして、着地。すっかりその場から群衆が消え失せていた。だから、簡単に見つけられた。

「――フェイ」

 そのまま口元の血を拭って、彼女に近づく。

「あのまま女がとらわれている以上、作戦の継続は不可能だ。他の案を考える必要がある」

「んー……」

 彼女は前方を見たまま動かない。怪物はなおも咆哮する。

「儂の技も通じん。ミランダは例によって使い物にならん。どうする」

「んー……」

「おい……」

「んー……」

「おい!!」

「どうしよう……」

 フェイは、引きつった笑顔を浮かべてチヨを見た。

「それを決めるのが貴様だろうが。何を馬鹿なことを言っておる……!」

「いやこれ全然どうすればいいか分かんにゃい。どうしようマジで。どうしようどうしよう」

「ッ……あああ、何故お前は肝心な時に悩みすぎるのだ!!」

「だってマジで分からんのだもの。どうすればいいのこれ」

 チヨとフェイはそのまま数分間不毛な会話を続けた……得られた結論は、『詰み』という一点に変わりはなかった。

 だが……。

「おい」

 チヨが、ずんずんと歩み寄っていく。
 ……そこで項垂れて、膝から崩れ落ちている少女に。

「エスタ……エスタ……」

「おい、お前」

 チヨが彼女を乱暴に揺さぶると、ゆっくりと顔を上げた。光のない目が覗く。

「……わたし(フェイ)が悩み過ぎと言うのなら、お前は考えなさすぎだ……」

「黙っていろ、フェイ。――……おい、お前。そこで呆けているだけなら白痴でも出来ることだぞ。お前にはもっと出来ることがある」

「……ボクに……出来ること??」

 ぼんやりとした口調で、シャーリーがチヨに問い返す。襟首を掴まれているが、抵抗をしない。

 ……前方で、また化け物が暴れてビルに腕を振るった。今度はスターバックスの入った中規模の商業ビルディングだ。中にまだ人が居たらしく、制服姿の者達が悲鳴を上げながら逃げていく……その上に、容赦なく瓦礫が降り注ぐ。

「そうだ。あそこに囚われているのがお前の友であるならば、お前に出来ることは一つ。お前が、あの女に呼びかけてみろ。元々限りなく詰みに近い。それで何かが変わるやもしれん」

「ボクが……エスタに?」

「そうだ。必要ならミランダにお前を運ばせてやる、ゆえに――」

「――……ですよ」

「……なんだと?」

 フェイが、ため息をついて近づいてきた。それから、チヨをシャーリーから引き剥がす。

「……その辺にしておけ、チヨ」

「……今、なんと言った」

 シャーリーは……俯いたまま、改めて言った。

「無理ですよ。ボクには……そんな資格、ありません」

 チヨは歯噛みし、フェイが溜息を付いた。

「……ボクには無理です。無理なんです」

 声が震えている。顔が下を向き続けている。目の前の状況から逃げるかのように。小さく、消え入りそうな声で。彼女が目にしたものはあまりにも、あまりにも酷だった。多くのものを、彼女は見すぎていた。

 彼女たち三人の前に、巨大な影が立ちふさがっている。咆哮し、まるで己の身を呪うかのように悶え苦しみながら。人々はその場からすっかり居なくなり、上空には報道ヘリがしきりに飛行している。

 どこかでサイレンが鳴り続けている。煙と炎と瓦礫とヒビが、そこにあった。

「……そんなことを言っている場合では――」

「チヨ、もうよせ――」

 その瞬間。

 後方で化け物が再び咆哮し、蔦の絡みついた大木の如き腕が乱暴に振り乱され、すぐ傍にあったビルを殴りつける。元々ヒビが入っていた。激震と轟音。

 チヨが最初に気付いて後ろを振り返った――影が三人の前にできていた。それは、その豪腕によって破壊されたビルの一部分が破壊され、巨大な塊となって三人の元へ落下してくるという情景だった。

 化け物の声が響く。チヨはシャーリーから手を離した。その目がフェイを見た。それだけで全てが伝わった。

 フェイが、シャーリーの頭を胸の中に抱え込んだ。チヨはそんなフェイの背中を後ろから掴み、身体の後方にある『孔』全てを全開にして、青白い噴射を最大限の力で行った。踏みしめた地面にヒビが入り、次の瞬間には破壊されたビル片が地面へと落下した。

 その勢いで、傍らの宝飾店からは看板がずり落ちる。車の数台は巻き添えを食らって凹型にへしゃげ、甲高い悲鳴を発する。プラズマのような光が周囲に散って、無数の瓦礫が生み出される。その時には既に――。

「くッ……」

 チヨは二人を抱えたまま、瓦礫の後方へと着地した。煙が立ち込めて、化け物のシルエットは更に奥へと追いやられる――だが、無事だった。彼女は荒く息をつく。フェイは服にこびりついた埃を叩いて払う。シャーリーはその場で項垂れたまま。

「……まだ、何も変わらない」

 その言葉通り。

 やがて煙が晴れ、化け物の体の中央に鎮座する少女の姿が見える。悲しげに瞳を閉じた少女の姿。シャーリーは決して、彼女に目を合わせない。

「このままでは、決して」

「でも……ボクには、無理なんです」

「……君が絶望する気持ちは計り知れないが……」

 フェイはしゃがんで、シャーリーに目線を合わせようとする。チヨはカタナを構えたまま、化け物を睨みつけている。

 そんな彼女たちの傍らを、もはや数少なくなっていた逃亡者達が通り過ぎていく。

 青い鱗を持った男と、一つ目の大柄の男――それから、サングラスを掛けた金髪の女。

「おい、何撮ってんだ、逃げるぞ!」
「へへへ、いよいよマジでこの街もおしまいかもしれないんだぜ……『ヘイ、世界中の視聴者の皆、俺は今黙示録の中に居るんだぜ――』」
「馬鹿、また看板が倒れてくるぞッ!!」
「いい加減にしなさいよフレッド!!」
「離せ畜生、俺をバカにしたカレッジの連中に――」

 あまりにも呑気に――ある意味での静寂の中を、場違いに通り過ぎていく。どこかでまた轟音が上がった。
 こういった騒ぎが起きるたび、連動して何かが起きる。いや、人為的に起こされる。それがこの街である。銀行強盗が起きれば、その主犯格を擁護する団体がどこかでボヤ騒ぎを起こす――ここはそんな場所なのだ。

「だって……」

 小さな金属音が響いて、少女の革ジャケットから何かが零れ落ちた。フェイはそれを見て、目を疑った。何故ならそれは、その場にあるはずのないものだったからだ。

「何故、君がそれを」

 それは。
 人間に突き刺さることで、その者をアウトレイスへと変えるモノ――十年前、ディプスによって天から降り注いだ短剣のうちの一つだった。



 さしものフェイも、それには驚きを隠すことができなかった。化け物の引き起こす騒ぎは彼女たちのすぐ傍にあり続けているが、それも今は酷く遠くに感じられるようだった。フェイとチヨが立ち尽くし、その前にシャーリーが重々しく座り込んでいる。

 どこかで地響きと轟音が響いた――まるで轟音のように。対岸の出来事のように。

「それを、どうして君が持っている?」

「これは……十年前、ボクの目の前に突き刺さったものです。ボクは咄嗟に身を引いて、これから逃げました」

 何かを抑え込むようにして、酷く平板な口調でシャーリーは言った。対するフェイは、あくまで何も求めることのない言い方を返した。

「それは政府が回収を進めていたもので――」

「――知ってますよッ!!」

 シャーリーの言葉が、そこで爆発した。唐突に彼女の激情が花開いた。いや、今まで溜め込まれていたものが、今噴き出したに過ぎない。彼女は唇を噛みしめる。それから地面に、水滴がぽたぽたと垂れ始める。背中が震えて、しゃくりあげるような声がする。

 また、どこかで音がした。
 カチャリ、と。シャーリーが短剣を握り、胸に抱く。それから、ぽつぽつと零す。

「ボクはこれを持ってなきゃ駄目なんです。これは、ボクの過ちの証拠だから……ずっと、忘れないように持ってなきゃ駄目だったんですッ……!!」

 フェイは沈黙を返した。

 ……それからシャーリーは、あくまで自然に、自分から語り始めた。

 一度始めれば、終わるまで止まることがなかった。全ては彼女の中から次々と湧き出てくる言葉だった。


 十年前。それはエスタとシャーリーが、共に時間を過ごしている時に起きた。全ては突然に唐突に。多くの人々が日常を過ごす真っ最中に起きた。少なくとも殆どの人間がそのおこりを予想することは出来なかったし、また対処もできなかった。

 ――はじめは、ただの地震だと人々は思った。しかし、地面がビリビリと震え続けるに従って、少しずつ表面のアスファルト、そして根本の地層が剥離されていくその現場を見るに従って、現状が常軌を逸していることを悟っていったのだ。

 それは、エスタとシャーリーにとっても例外ではなかった。昼下がりのラジオが、数十年前の楽曲『世界の終わり』を流していた。

 その時、それは起きたのだ。二人の間に亀裂が迸り、シャーリーの居る側の地面が持ち上がった。二人を割く境界だった。シャーリーの居る側に、たまたま富裕層が多く住んでいたというだけの話だった。しかし、天の上では――謎めいた笑みを浮かべる青年が全てを操っていた。

 轟音と激震、悲鳴の数々。そして混乱を極める情報の濁流。その中で二人は分かたれた。身体に抵抗できぬ浮遊感を感じたその瞬間には、既にシャーリーの居る場所は地上から浮き上がっていた。

 目の前にはエスタが居るが、少しずつ下へと下がっていった。だが、その時手を繋いでいた。エスタが――持ち上がろうとしていた。自分の側へ、引っ張られようとしていた。

 ……空の上から無数の剣が降り注いだのは、ちょうどその時だった。
 ロサンゼルスのあらゆる場所に、それは降り注いだ。

 人々に突き刺さると、苦痛の代償として、言い知れぬ不快感を与え――やがて身体に未知の変化を生じさせる。それに対し理論的な変化を与える暇もなく、それは始まった――パニックは倍になった。

 街中で悲鳴が起きて――死が発生した。目の前で人間が化物になった。自分の手足が自分でなくなっていった。そして、空に土地が奪われていく。幾人かはそれらの光景を見て発狂し、やがて死んでいった。

 現実が、現実でなくなっていく――シャーリーにとっても。
 ……空に上に、短剣が見えた。その時、彼女が取った行動は。

 ――それを考えるだけで、彼女の中は苦痛と後悔で満たされる。

 この十年、片時も忘れることはなかった。そして今もなお、その痛みは増え続けている。今、この瞬間にも。

 彼女は体の中の熱が行き場をなくして、外へ溢れ返ろうとしているのを知覚した。誰かに、自分の首を絞めて欲しかった。罵って、殴りつけて欲しかった。

 だが、そのいずれも起こらない。分かっている。全ては自分の――自己満足だ。

「逃げたッ……ボクは、逃げたんですッ! 空の上から降ってくるそれを見てッ……ボクは」

 指がアスファルトを掻く。彼女の爪は折れ、血が滲む。だが、痛みよりもなお強いものがあった。涙がこぼれ続ける。顔面が、ぐしゃぐしゃに濡れる。

「そのまま……剣を恐れずに手を伸ばせば、エスタに届いたのに! こちらに引っ張り込むことだって出来たのに! ボクは……後ろに下がったッ……」

「それは君の、防衛本能がそうさせたのではないのかな」

「違う、違うんですッ」

 腕が、地面を叩きつける。彼女は吐き捨てる。フェイは黙ってそれを見る。

「ボクは、怖くなった! 見ているモノ全てが、何もかもが変わっていく……何も変わらない、変えさせないと信じていたのに……そんな現実が急にやってきて、何もかもが怖くなったっ……だから逃げた! エスタから手を離して、後ろへ逃げた……!!!!」

 そして短剣は、シャーリーの目の前に突き刺さり。
 その奥に、エスタの見開いた目と、絶望する表情が見えた。その表情が一瞬にして焼き付いて、脳裏から離れなくなった。

 ――間もなく、浮遊する大地が彼女たち二人を分け隔てて、エスタの姿も激震と硝煙の中で見えなくなっていった。

「十年間……ずっとずっとずっと、後悔し続けてた……でも、ようやくここに来た……ただボクは、もう一度会いたかった……なのに」

 周囲に広がるのは、戦場と化した街並み。至る所でヒビが割れた地面。ガラスと瓦礫を吐瀉し、斜めに崩れかかったビルの群れ。潰れた死骸を晒す車。
 そこから発せられる、未だ続く断末魔のようなクラクション。バチバチと火花を散らす電線、看板や広告。よろよろと逃げていく、老人や粗末な身なりの者達。

 怪物がこの通りに突如姿を現してから、まだ、一時間も経過していない。その中でシャーリーは、まだ何も出来ていない。ただの、情景の一つにすぎない。

「なのにボクは、また逃げた。あの子の変貌に対して、この街の現実の中に居るあの子に対して、何にもできないんだと思って逃げてきた、また怖くなって逃げたっ――だからボクにはあの子を救う資格も何もないんですッ……ボクはずっと逃げ続けてきて、今もまた逃げてるんです……ボクは……――最低な奴なんです……ッ!!!!」

 シャーリーはそれっきり、一度押し黙った。後方で怪物が吼えていた。チヨがそれに向かってカタナを構えた。言葉は流れなかった。何処かで声にならない声が聞こえたが、風とともに消えていく。

 フェイは、自分の目の前で蹲り、背中を震わせて涙を流す少女を見た。
 何も出来ずに、自分の罪を懺悔するかのように全てを吐き尽くした少女を見た。

 彼女はポケットから次の煙草を取り出そうとしたが――その動作を取りやめた。指先は拳の形に握られて、腰の隣に置かれた。彼女は、少女に手を差し伸べた。

 ここより離れた場所では、彼女の仲間たちが、彼女の次なる指示を待っている。ここでいかなる会話が交わされていようと、その事実が変わることはない。

 それから……いくつかの一瞬が流れた。途方もなく長い時間のようだった。間もなく、フェイは口を開いて、静かに言った。

「君が自分のことを最低と思っているなら、それは間違いだ」

 それから、少女に手を差し伸べる。
 シャーリーは顔を上げた。そこには困惑。それ以上に、言葉の真意を問いたいという思いがあった。

「えっ――」

「何故なら……かつては我々も、この現実に膝を屈したことがあるからさ」

 そうしてフェイは……小さく微笑んだ。
 シャーリーは立ち上がった。
 フェイが身を翻す。

 硝煙の向こう側に化け物がいる。
 今もなおその身を揺るがし、被害を拡大させ続けている。既に彼の周辺のビル群は殆どが使い物にならなくなっている。根本から斜めにへし折れているか、殆どの階層にヒビが入っているかの、どちらかだ。

 彼女は、そんな現状の中、まるで悪魔のように佇む存在へと目を向けた。それから、ちらりとシャーリーの方を向いた。

「ありがとう。君の言葉が、わたし(フェイ)の目を覚まさせてくれた」

「――……」

 彼女は新しい煙草を取り出して、火をつける。相も変わらず、アークロイヤルのアップルミント。大きな煙を口から吐き出す。

 ――それから間もなく、彼女の仲間たちに指示を飛ばし始めた。


「さぁ……ここからのギグが、メインステージだ」
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