第4話午後

文字数 2,028文字

 防災無線から、正午を知らせるチャイムが鳴った。
まだあまりお腹が空いていないけれど、いただいたお弁当を食べようかと台所へ向かった。

 ふと思い立ち、冷凍庫の扉をあけて確認した。数日前の朝食で食べたパンが最後だったと思い出したのだ。

 案の定、冷凍庫にパンは無くて、生鮭の切り身、舞茸、茹でて下処理した大根の入った保存袋などがあるだけだった。

 昼ご飯の前に、パン生地をこねてしまおうかと考えて、オーブン下のパンこね機を取り出そうと屈んだ。

「よっこらしょ」

 四十年近く愛用しているフードプロセッサは重くて、食卓の上まで持ち上げるのに骨が折れる。
かけ声をかけて、勢いをつけて持ち上げた。

 (カッター)を、パンこね用の羽に交換して、強力粉を三百グラム、スペルト小麦粉を三百グラムを計った。
スペルト小麦は小麦の原種で、古代小麦と言われる。独特の香りがあって好きなのだ。

 確かクルミがあったはずと、ごそごそ冷蔵庫をかき回して、クルミの袋を出し、百二十グラムを天板に広げた。オーブンで空焼きをするのだ。

 低温で数分空焼きしている間に、塩十グラム、インスタントドライイーストを十グラムを、フードプロセッサのボウルに放り込んだ。

 砂糖は入れない。別の容器にオリーブオイルを三十グラム。仕込み水として水と卵を合わせて三九十グラム計って準備完了。

 オーブンから芳ばしい香りが漂ってきたので、焦げないうちにと天板を外に出し、ザックリとクルミを砕いた。
 
一粒、二粒つまみ食いで口に入れ、カリカリ噛みながら、フードプロセッサのスイッチを入れて、パン生地をこねた。

 パン生地は、仕込み水を入れながら、三分ほどでこね上がってしまう。生地に、クルミを混ぜるのが,力仕事になるけれど、私がこの年になってもパンが焼けるのは、この機械のおかげだ。
 今回はたっぷりクルミを入れたので、後で食べるのが楽しみだ。

 そうこうしている間に、お腹も減ってきた。グゥとお腹が鳴ったので、慌てて両手で押さえた。

 誰も見ている人なんていないのに、つい、あたりを見回してしまった。ひとりきりなのに、ちょっと照れくさい。

 生地を入れたボウルにラップを張って食卓に置き、発酵させている間に、昼食を食べることにした。

 川野さんが届けてくれたお弁当は、老人向けに少なめの量で、薄めの味つけに整えられている。
町の給食センターの栄養士さんが監修しているそうで、毎回違うおかずが楽しみだ。

 電子レンジでお弁当を温め、お椀に味噌少々と鰹節、刻んだネギを入れて、電気ポットのお湯を注げば、インスタント味噌汁のできあがりだ。

 やさしい味の肉じゃがが、おいしい。ゆかりご飯の紫蘇の香りが食欲をそそり、ちょっと食べ過ぎてしまったかもしれない。お腹が苦しかった。

 最近は消化が遅い気がしている。少し食べ過ぎると、なかなかこなれない。おそらく長年使ってきた胃も腸も、くたびれてきているのだろう。

 少し長めに食休みを取ろうと、ゆっくり食後のお茶を飲みながら、パンの発酵が上がるのを待った。
 
 発酵は面白い。専門的な知識はないが、微生物が生きることでパン生地が膨らみ、死ぬことでうま味や香りが出て、パンが焼き上がる。

 人間の都合良く働いてくれることが発酵で、不都合に働く場合は腐敗になる。微生物はただ生きて死ぬだけなのに、同じ生死でも人間の都合に左右される。

 まあ、人間の生死も自分の意のままにはならないが。せいぜい死ぬまでは、思うままに生きていよう。

チリンとスマホが鳴った。ショートメールが届いたらしい。

『お姉ちゃん、買い物行くけど欲しいものある?』

妹からだった。
ひとまわり年の離れた妹は、車で十分ほどの同じ町に嫁いでいる。
嫁いでいるとは言っても、もはや大きな孫もいるお婆ちゃんだ。息子二人は定年間近で、今は長男夫婦と暮らしている。

 ここは車が無いとスーパーまで出られない田舎町なので、買い物ができない私を気遣って、時折連絡してくれる。

 そうだな、何かないかと考えてみた。
どうしても欲しいというものは、実はあまり無いのだ。無ければ無いなりに、それで満足して暮らして行けてしまう。

『ヨーグルトと、何か果物買ってきてくれるかな』

 パッと思い浮かんだものを書いて返事をした。

『わかった、夕方行く』
『よろしく。くるみパン焼いてるよ』
『欲しい』
『用意しとく』

 発酵が終わったパン生地を十六個に切り分けて、丸めて休ませ、その後、コッペパン形に成型して天板に並べた。

 発酵機能に設定したオーブン底の受け皿に、お湯を張って湯気を出し、二回目の発酵をさせる。

 待っている時間は、執筆の時間。
パンを焼いている間は、集中できないので、推敲したり、軽く構成を考えたり、切れ切れの時間を楽しんでいる。

 書いた文章は、ウェブに投稿しておけば、どこかの誰かが、少なくとも何人かは目を止めてくれる。

 そのささやかな楽しみのために。九十になろうとしている今でも、何かを表現したいとあがいている。
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