五、 Eureka(エウレカ)

文字数 1,769文字

――Eureka! 見つけた。オイラーの等式を更に推し進めると虚数iのi乗は実数になるのだ。つまり、虚体の虚体乗は実体になる。ではi乗、つまり、虚体乗とは何を意味するのか。それは例へば、0乗が何ものも一に帰着させることから、それは、存在の期待値が一の、つまり、存在の確率が一であるといふ完全無敵の実在のことだとすれば、それから類推するに、先づ、虚数iの0乗が仮に一になると仮定すると、0乗が何を意味するかを推論できれば、虚数i乗の何かの手がかりが見つかるかも知れぬ。それ以前に0の0乗が一になるとの解釈も存在してゐる。無を0乗すれば有の一となる。これが確かだと仮定すれば、0乗とは神の一撃、若しくは無に(おもて)を授ける契機に違ひない。これを虚数iに当て嵌めると虚体にも0乗は面を授ける契機となるやも知れぬ。そして、虚数iのi乗は虚体を虚体から実体へと変容させる契機なのかも知れぬ。虚数乗は虚体の化けの皮を剝がす契機だとすると、埴谷雄高の虚体の正体見たり!

 やはり虚数の虚数乗が実数になるまで闇尾超は思索の触手を伸ばしたか。成程、闇尾超の思索の原資には数学が大いなる割合が占めてゐて、数学をして、闇尾超の思索を推進させる起動力になってゐたのかも知れぬが、それでは駄目なのだ。合理から始めては世界の術中に嵌まるのみ。不合理から始めなければならぬのだ。とはいへ、闇尾超は数学を礎に置いたとはいへ、それは全て闇尾超の推論でしかない。だから、それは善しと看做さなければならぬのかも知れぬが、闇尾超の発想の原点に数学がどっしりと腰を据ゑてゐるのであれば、それでは何にも語ってゐないのも同然なのだ。
 然し乍ら、オイラーの等式を導き出すオイラーの公式は、存在が絶えず揺らめいて振幅を表してゐると解釈できなくはないことの数学的な帰結であるので、強ち闇尾超の推論が間違ひであるといふことでもない。全ては存在が揺らめいて曖昧模糊としてしか存在できぬことを指し示す証左として数学的な表現では、その帰結としてオイラーの公式が見出され、言語表現では、埴谷雄高の虚体、更にいへば、闇尾超が主張したところの杳体の、その杳として存在を摑まへられぬ主体のもどかしさは、存在そもそもが古めかしい言ひ方をすればハイゼンベルクの不確定性原理により存在が曖昧模糊としたものであり、存在を確たるものとして摑まへることは逆立ちしても不可能事であるのだ。存在といって画然と存在してゐるものなどそもそも此の世に存在しない。あるのは曖昧なものばかりで、それをして存在が闡明するものとして捉へるのは、誤謬の始まりであり、誤謬と戯れてゐたければ、それで構はぬが、闇尾超も私も誤謬を突き抜けた何が見えるか今以て誰も目にしたことがない視界を見たいが為に日日、悪戦苦闘し、さうして、闇尾超は精神を病んでその果てに夭折してしまった。それでも、
――Eureka!
と、感嘆してゐることから、闇尾超は存在の秘密の何かを垣間見たことだらう。さうぢゃなきゃ、闇尾超は死んでも死にきれなかった筈だ。しかし、私には闇尾超の霊魂が未だに此の世を彷徨ってゐて更に思索に思索を重ね、一度垣間見た存在の秘密をそれこそ合理的に構築して見せ、不合理な世界、若しくは闇尾超の望みであった此の不合理な宇宙をぎょっといはせ、宇宙顚覆のその端緒を見出さうと躍起になってゐるのかもしれぬ。
 ともかく、闇尾超は何かを見出したことは確かだ。存在然としてゐながらその実、霧がかかったかのやうに曖昧模糊としてしか存在できぬ存在物は、その尻尾を闇尾超に摑まれ、仮象の国に安住してゐた物自体を引っ張り出して宇宙に蟻の一穴ではないが穴を開けたのかもしれぬ。だが、宇宙は、その時、ニヤリを笑ってその穴を闇尾超当人で栓をしてあれよといふ間に塞いでしまったやもしれぬのだ。その穴を仮に《ゼロの穴》と名付けてみれば、そのゼロの穴の栓になった闇尾超は例えば虚数が蠢く虚=世界を覗き込んだのであらうか。その宇宙の穴から見えた世界は一体全体どんな風景だったのだらうか。思ふに闇尾超が見るもの全ては、闇尾超の視線が向いた途端に存在は皆恥ずかしがり、闇に身を隠してしまったのだらうか。私は虚数の世界は闇の中だと思ってゐるのだが、闇に対した闇尾超は果たして何を見出したのだらうか。
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