前半

文字数 2,988文字

 億劫な心と体を引きずるようにしながら、彼は街を離れて数刻歩き、荒涼とした草原へやって来た。

 身を倒すと体を埋めてしまう、雑多な草が生い茂る。誰の土地でもないのだから、誰も手入れなどしていない。

 

 自然のままの若草色や稲穂の黄金が、鮮やかに光を跳ねている。ああ、自然の色彩とは素晴らしい。誰もがそう思うだろうな。

 温かな色と草露の仄かな冷たさに包まれながら、男はどこか諦めたような心地で目を閉じた。

……ふぁ、あ~……

 目覚めて一番、大あくびをして身を伸ばす。目尻に浮いた涙を拭ってようやく目を開けると、飛び込んできたその光景に、男は思った。

 

 なんだろう、もしかして、僕はもう死んでしまったのか?

 

 先ほどまでごく当たり前に自然の色をしていた草原が、一面、真っ青に染まっていた。

 

 その荘厳な光景が畏れ多くて、男はこわごわと立ち上がる。すっかり腰が引けているが、そんな低姿勢でも少し離れた場所にいた女性の姿は目に留まった。青一面の景色の中で、彼女の輝かしい金色の髪はよく映えて、浮かび上がるように目立っていた。

あの~、こちらはもしかして、死後の世界なんでしょうか?

わっ……すみません、こちらに人がいらっしゃるとは

思わなかったもので。驚かせてしまいましたね

 女性は立ち上がり、ぺこりと頭を下げる。腰までの長さの髪が反動で揺れる。膝丈よりほんの少し長い、青い旅装のローブに、右側頭部の青いリボン、青い瞳。髪色以外の全てが青で統一され、ともすれば青い草原に溶け込んでしまいそうだ。

私はイリサと申します。実は私がいる場所は

このように青く染まってしまうもので。

街中にいると皆さんにご迷惑をおかけしてしまうと思って、

こちらにいさせていただいてたんです

 死後の世界ではございませんので、どうかご安心ください。彼女の笑みは実に静謐で、男の目にはまるで天使のように映る。こんなにも理想のままの世界なら、いっそ死後の世界であっても構わなかったのに。

迷惑だなんて、とんでもない!

それがもし本当なら是非、この僕を染めていただけないでしょうか!?

はい? と、おっしゃいますと?
是非にも染まりたいんです! あなたの色に!
はぁ。変わった方でいらっしゃいますねぇ

 本当によろしいのでしたら、とイリサが確認すると、男は必死の動きで頷いてみせる。

 

 そうは言われても、一体どちらを触ればいいのでしょう。こんなことを頼まれたのは初めてですし……。とりあえず、無難に。イリサは両手を伸ばして、自分より少し背の高い、男の肩に触れてみた。

 

 男の身に着けていた衣服の全てと後ろで縛っていた髪、眼鏡とそのレンズの全てが、塗り広げるように端から青に染まっていく。

おお……! 素晴らしい! 

こんな色に染まった自分に、長年憧れていたんです! 

ありがとうございます!

そうなんですか? 

喜んでいただけたなら何よりです~

 触れたものの全てが、自分のいる周囲が、青く染まっていく性質。迷惑と思われこそすれ、まさか誰かに喜ばれる日が来るなどと今まで夢想だにしなかったイリサは、謙遜などせず素直に喜びを伝えた。
よろしければ、一緒に僕の生まれ育った街へ来ていただけませんか!?
ええ~!? 街の人に怒られてしまいますよ!

決してあなたに嫌な思いはさせません、全ての責任は僕が取ります! 

どうか……どうか、お願いします!

 いくらなんでもこれは断るべきだろう……それがイリサの正直な気持ちだった。しかしながら、男の様子があまりに必死で、切実なもので……。
も~……しょうがないですねぇ~……

 元より、人に頼られたら断り難い質でもあって、男の希望を叶えることにする。男の足取りはご機嫌で、影のように後をついてくイリサの足は渋々とした体であった。




こちらの道が、普段僕のいる部屋から眺めている場所なんですよ!

 気分高揚し、生き生きと男は路地裏を示す。馬車等の行き交う町の本通りから建物一列を挟んだすぐ裏手にある、静かな通りだ。人通りは常にまばらである。

 

 彼につき従う、のんびりした足取りのイリサがここへ至るまでに通った石畳の歩道、一本線を引くように青く染まってきていた。それを見るだけで男は興奮を抑えられなかったが、「この街で、青く染まった姿」を見るのは慣れ親しんだこの一画でありたい。そう思ってここまで堪えてきた。

 

 良かったら僕の後ろをついて歩いてみてください、と告げてから、男は未舗装の土の道を右へ左へ、隙間を埋めるように折れながら歩く。イリサが大人しくその後に続くと、地面は群青に染まる。

おお~……場所によって染まる色が違うんですね!

先ほどの草原とはまた違った色ですね。

草原は空の色に似ていましたが、こちらは海の深みを思い出します

イリサさんは海を見たことがおありで?
見たというよりは、私にとってはなじみ深いと申しますか

羨ましいなぁ。僕はこの街を出たことがありませんので、

死ぬまでに一度でもいいから海を見てみたかったのですよ

 男の故郷、王都フィラディノートは黄土色の煉瓦で四方を囲んだ内陸の街だ。経済的には大陸一豊かな、地方出身者にとっては憧れの街である。しかし、住居を確保することが優先で街は建造物で満ちて、必要最低限の道路を除けば土の地面さえ見えず、街を出なければ草花すら視界に入らない。男にとっては実につまらない街だった。

青い色が好きだから、海が見たいのですか? 

海に憧れているから、青い色が好きなのですか?

もちろん前者ですとも! 港町へ行き波止場へ立てば、

視界いっぱいに海と空しかない景色が見られるのでしょう? 

なんとも素晴らしいのでしょうなぁ~……

 生まれてから何度も焦がれた夢想に浸りかけて、慌てて頭を振りその魅惑を払う。自分達の行動が住民に気付かれて、誰かに咎められるより早く、少しでも街を青く染めたい。
試しに、この建物の壁に手をついてみましょうか
は~い

 最初は躊躇っていたというのに、イリサも男の奇妙なおねだりにすっかり慣れてしまい、言われるがまま赤茶色の煉瓦に手のひらをぺたりと押し当てる。

 

 イリサの手の着いた場所から滲みが広がっていくように、煉瓦が青く染まっていく。

青い煉瓦なんて初めて見ましたよ!
私もです。こんなこと試したりしませんでしたから
 浮足立った男は調子良く、通りの建物を次から次へと、青い色に染めて回る。なじみ深い裏通りが一軒残らず青く染まったその時。
シアーズさん! 何をしているんですか!
 通報を受けた最寄りの駐在所の駐在員が駆けながら、男の名前を叫ぶ。

いけません、イリサさん! 

あなたはどこかへ身を隠してくださ、い

 自分の終生の願いを叶えてくれた恩人をお縄に着かせるわけにはいかないと、男は慌ててそう促した。すぐ傍らにいた彼女を振り返ったその時。

 

 気が付いた、彼女の、足元。そこにあるべきはずのものがないことに。

シアーズさん、この青い髪、どこの理髪店で染められたんです? 

いったん駐在所へお出でいただきますよ。

少しだけお話聞かせてもらえたらすぐ部屋へお帰りいただけるので、ご心配なさらず……

 事務的な駐在員の言葉も、右から左へと聞き流す。草原からここまで行動を共にし、今も彼の隣にいたイリサには目もくれず、青い地面に痕を残すほどの力で引きずっていく。ちょっとバツの悪そうな顔で、イリサは壁際に佇むばかりだった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

名前:イリサ


このお話からわかるのは、「触れたものを全て青く染める、謎の力を持つ女性」ということだけ……


※作者のノベルデイズでのメインアイコンのキャラクターがどんな人なのかを紹介するための、一番短いエピソードが本作です。今後、長編バージョンをチャットノベル化するべく活動していきたいと思います。

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色