前半
文字数 2,988文字
億劫な心と体を引きずるようにしながら、彼は街を離れて数刻歩き、荒涼とした草原へやって来た。
身を倒すと体を埋めてしまう、雑多な草が生い茂る。誰の土地でもないのだから、誰も手入れなどしていない。
自然のままの若草色や稲穂の黄金が、鮮やかに光を跳ねている。ああ、自然の色彩とは素晴らしい。誰もがそう思うだろうな。
温かな色と草露の仄かな冷たさに包まれながら、男はどこか諦めたような心地で目を閉じた。
目覚めて一番、大あくびをして身を伸ばす。目尻に浮いた涙を拭ってようやく目を開けると、飛び込んできたその光景に、男は思った。
なんだろう、もしかして、僕はもう死んでしまったのか?
先ほどまでごく当たり前に自然の色をしていた草原が、一面、真っ青に染まっていた。
その荘厳な光景が畏れ多くて、男はこわごわと立ち上がる。すっかり腰が引けているが、そんな低姿勢でも少し離れた場所にいた女性の姿は目に留まった。青一面の景色の中で、彼女の輝かしい金色の髪はよく映えて、浮かび上がるように目立っていた。
迷惑だなんて、とんでもない!
それがもし本当なら是非、この僕を染めていただけないでしょうか!?
本当によろしいのでしたら、とイリサが確認すると、男は必死の動きで頷いてみせる。
そうは言われても、一体どちらを触ればいいのでしょう。こんなことを頼まれたのは初めてですし……。とりあえず、無難に。イリサは両手を伸ばして、自分より少し背の高い、男の肩に触れてみた。
男の身に着けていた衣服の全てと後ろで縛っていた髪、眼鏡とそのレンズの全てが、塗り広げるように端から青に染まっていく。
おお……! 素晴らしい!
こんな色に染まった自分に、長年憧れていたんです!
ありがとうございます!
決してあなたに嫌な思いはさせません、全ての責任は僕が取ります!
どうか……どうか、お願いします!
元より、人に頼られたら断り難い質でもあって、男の希望を叶えることにする。男の足取りはご機嫌で、影のように後をついてくイリサの足は渋々とした体であった。
気分高揚し、生き生きと男は路地裏を示す。馬車等の行き交う町の本通りから建物一列を挟んだすぐ裏手にある、静かな通りだ。人通りは常にまばらである。
彼につき従う、のんびりした足取りのイリサがここへ至るまでに通った石畳の歩道、一本線を引くように青く染まってきていた。それを見るだけで男は興奮を抑えられなかったが、「この街で、青く染まった姿」を見るのは慣れ親しんだこの一画でありたい。そう思ってここまで堪えてきた。
良かったら僕の後ろをついて歩いてみてください、と告げてから、男は未舗装の土の道を右へ左へ、隙間を埋めるように折れながら歩く。イリサが大人しくその後に続くと、地面は群青に染まる。
羨ましいなぁ。僕はこの街を出たことがありませんので、
死ぬまでに一度でもいいから海を見てみたかったのですよ
もちろん前者ですとも! 港町へ行き波止場へ立てば、
視界いっぱいに海と空しかない景色が見られるのでしょう?
なんとも素晴らしいのでしょうなぁ~……
最初は躊躇っていたというのに、イリサも男の奇妙なおねだりにすっかり慣れてしまい、言われるがまま赤茶色の煉瓦に手のひらをぺたりと押し当てる。
イリサの手の着いた場所から滲みが広がっていくように、煉瓦が青く染まっていく。
いけません、イリサさん!
あなたはどこかへ身を隠してくださ、い
自分の終生の願いを叶えてくれた恩人をお縄に着かせるわけにはいかないと、男は慌ててそう促した。すぐ傍らにいた彼女を振り返ったその時。
気が付いた、彼女の、足元。そこにあるべきはずのものがないことに。
シアーズさん、この青い髪、どこの理髪店で染められたんです?
いったん駐在所へお出でいただきますよ。
少しだけお話聞かせてもらえたらすぐ部屋へお帰りいただけるので、ご心配なさらず……