後半
文字数 2,671文字
視界の全てが白い部屋。白い寝台の上で白い布団に包まれて、そこから頭だけを出してただ天井を見つめるだけの日々。今も青く染まったままの髪と、元はただの眼鏡だったがイリサに染められて「青い色眼鏡」と化したレンズを通して見える青みがかった視界が、彼にとって何よりの慰めだった。
イリサに染めてもらった、窓の外の裏通りは今も青く染まったままで、街を騒がせている。いつその色がなくなるかもわからないからと見物人も多く、かつては静かだったその通りは今は些か賑やかだ。ああ、いいなぁ。こんな喧噪も、僕はずっと恋しかった。
あの日、あんなに楽しげに自由に動かせたその体は、それこそあの日が最後の自由だったのだろうか。まるで嘘のように、診断通り、疲れ果て寝台から下りることさえ出来なくなった。それこそ、すぐ側の窓辺へ立ち、愛しい青い世界を眺める自由さえ……。
シアーズに長年与えられた病室は一階で、開け放たれた窓からはその気になればこうして入り込むことは可能だが。そんなところからの見舞客は彼の人生で後にも先にもこれっきりだった。
イリサは膝より長いスカート丈に苦戦しながら、窓枠を乗り越えるのだった。
そうですねぇ……もしかしたら、自分の力で、この足で……
望みを叶えることさえ出来ない僕を憐れんで……
神様があなたを遣わしてくださったのではないでしょうか
僕は子供の頃から、青い色が大好きで……
この街で見られる全てを、青い塗料だけで描き、表現してきました。
来る日も、来る日も。
大人になったら港町、ミラトリスへ移り住んで、
毎日青い海を見て暮らすんだと夢見て……
しかし、この世界で正式に成人と認められる十五歳を目前にしたところで、彼の体は病に侵された。長い時間を歩くことも出来ず、馬車などの長距離移動にも耐えられない。迫りくる死は別に、恐ろしくもない。ただ、ごく平凡な大人の体であればさしたる距離を移動さえすれば、誰でも目に入るものなのに……海を見ずに死ななければならないことが、ただただ無念でならなかった。
人生の終わるまでに夢を叶えられて、僕は幸せでした。
イリサさん、ありがとう、ございました……
シアーズは大好きな色に包まれながら、数日後、永き眠りに着いたのだった。
シアーズと別れ彼の部屋を後にして、イリサは徒にフィラディノートの街を練り歩き、無作為に街頭を青く染めて回った。単身では情報を得る手段を持たない彼女は、シアーズの死を知ることが出来ず、彼の夢を少しでも叶えたかったのだ。
そしてかねてからの約束だったその日を迎えると、街の入り口へ向かう。
赤い髪に黒い着物の成人男性が、腕に空色のテディベアを抱えている。おまけに、人の目には映らないイリサと場所を選ばず会話するので、傍目には独り言をぶつぶつと繰り返して見える。往来でこうして歩いているだけで奇異の目をばしばしと向けられるが、本人は人の目を一切気にしない性格だった。
イリサの長年のパートナーであるコウとは、別行動を取ることはめったにない。しかしこの度、どうしてもコウひとりで片付けたい用事があって、イリサだけでフィラディノートに残ることになった。
コウの側にいる時は、イリサの備え持つ魔力は制御出来るため、周囲を青く染めたりはしない。シアーズに初対面で説明した通り、人の迷惑にならないよう、フィラディノートから少し離れた草原でイリサはコウの帰りを待っていたのだ。
あの時、シアーズが見たのは、イリサの足元に「影が存在しない」という事実だった。
コウの影の中に入ったとたん、イリサが青く染めた草原も町の風景も、全てが元の色に戻ってしまった。
私の魔力はこうやって、コウ君のところへ帰るだけで、跡形もなく消えてしまいます。でも、シアーズさんが描き続けた青い色の絵画はこれからもずっと、この世界に残り続けます。
生命と海を司る神たる私よりも、僅かな時間を精いっぱい生きた彼の方が、ずっとずっと凄くて尊いと……私はそう思うのです。