第1話三題噺その五

文字数 1,692文字

 雪は明け方から降り出し、積雪は約1メートルに達していた。医療機器販売会社の営業をしている芝原大路は山手の住宅街で開業したばかりの先輩医師を訪ねた。芝原は結婚して15年になるが子宝に恵まれていなかった。妻の由紀子は姑に皮肉でも言われたのか、婦人科で検査を受けて、自分に異常がないから夫の大路にも検査を受けて欲しいと口喧しく言い出した。幸いにも公立病院に勤務していた高校の先輩から開業独立したという挨拶状を受け取った。このタイミングの良さに芝原は心を動かされ、年末の忙しい時期に先輩医師に相談を持ち掛けたのであった。
 コロナ禍で医療業界も様子がガラッと変わってしまった。こう言いながら先輩医師は看護師を兼務している妻に言って、コーヒーを出してくれた。まあ、なんだね芝原君、単刀直入に言えば、君の場合、無精子症だよと先輩医師は言った。芝原は言葉を失って、本当ですか?といったものの心臓の鼓動で全身が揺れた。解決策はあるから、絶望しなくてもいいよと先輩医師は励ましてくれた。射出した精液に精子がいなくても、いろんなケースが原因としてあるから、深刻にならなくてもいい。要するに精子が1個でもあれば、受精卵を作ることができる。
 思ってもいなかった検査結果に芝原は動揺した。雪道を無事に帰ることができるだろうか。彼は灰色の空から降り注ぐ雪を顔面に受け、気持ちが鎮まるのを待った。希望が無いわけではない。検査結果を妻に報告して、二人して不妊治療に取り組むしかない。芝原はトランクからヘルメットを取り出し、頭にかぶった。もし、雪道で事故にあっても、頭さえ防御できれば、死ぬことはないだろう。さらに、用心のためにヒーター付き保温チョッキを背広の下に着込んだ。高速道路の土方には雪がへばりついていた。芝原は慎重に運転していたが、前方を走っていたトラックが急にスピンし、一回転したかと思うと荷台の積み荷をバラまきながら逆走してきた。ブレーキを踏んだが、激しい衝撃と共に芝原は意識を失ってしまった。気が付いた時、由紀子の顔が目の前にあった。良かったねと由紀子は笑った。頷いたものの芝原は自分の命の行方について何も思い出せなかった。警察の人の話だと高速で事故に遭って、乗っていた車がガードレールにぶち当たって、高速の土手から道路わきにあった工場の屋根の上に車が飛ばされ、バウンドして敷地に落下したらしい。この時、大路は車から放り出されて、落ちた。幸いにも雪が積もっていたからクッションになって助かった。酷い事故の割には骨折もしていない。それにしても、落ちた時に工場の屋根から雪が落下して下敷きになったが、ちょうど掃除用具を入れた小さな倉庫がそばにあって、うまい具合に助かったらしい。それにヘルメットをかぶっていたのもよかった。保温チョッキが体温を保ってくれたらしい。
 この夜、芝原は夢を見た。それは雪に埋まった状態で真っ暗な洞穴に寝ている自分の周囲で赤や緑の光がパ、パ、パっと光る光景であった。この無数の光が自分を覆ってくるようであった。入院から三日後、担当医師から骨折もなく、打撲傷だけなので退院をすすめられた。背景にコロナによる病室のひっ迫があるようであった。体力も回復し、由紀子が持って来た新聞を見ていると日本粒子研究センターの発表として、芝原が事故を起こした夜に百万個の素粒子が観測されたというものであった。研究センターでは、この異常な粒子を「神子粒子群」と命名したと記事にあった。ひよっとすれば、俺が雪に埋まっていた時に素粒子が通過したのかもしれないと芝原は思った。それで俺は助かったのかもしれない。
 三か月後であった。由紀子が病院へ行ったら妊娠していると言われたというのである。まさかの奇蹟が起こった。「神子粒子群」が芝原の脳を通過する際に何らかの反応を起こしたのかもしれないと彼は一人合点した。いいように解釈すれば、気づかない内に素粒子が人間の機能に影響を与えているのかもしれない。小説的な空想でいい。幸せであればいいのだ。しかし、不幸もおこっているかもしれない。これこそ謎のホラーかもしれない。
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