第10話

文字数 4,164文字

性的な表現、不快な描写があります。そういったものが苦手な方は閲覧をお控えください


球磨の話を聞いた時、最初は喜び安心したが、それから一日たってみると、球磨の言っていた条件がどれほど厳しいものかが分かってきた。球磨の話では、今から六日後にもしかしたら時間を作れる、ということだった。だがそれでは、あと二人のメンバー、生内常世と竹真学郎を六日以内に探し出して説得しなければいけない。しかも僕は今、あろうことか左足を骨折している。包帯でぐるぐる巻きだ。さらに最悪なのが、この二人は音信不通なのだ。どこにいるかなんて全く分からないし、本人に聞くにしても電話はつながらない。

「あとは空に任せるしかないのか…」

僕は病院のベッドから天井を眺めながらそう呟いた。今の僕では文字通り足手まといだ。後は自由に動ける空に任せるしかない。

僕はため息をつくと目を閉じた。なぜ僕が目を閉じたのか分からないが、なぜか僕はそのまま寝てしまった。今は一分一秒が惜しいはずなのに。でも僕はその時、不思議と何の違和感も感じなかった。

そして夢を見た。

その夢は、いつかのとき、自分のベッドで見た悪夢と内容が同じだった。なぜそんなことが分かるのかというと、今回見た夢はくっきりと、鮮明に僕の脳裏に焼き付いたからだ。その内容はひどいものだった。

まず僕は、ある中年男性の目線になっていた。その男はどうやら精神が不安定なようで、常に酒かたばこを片手に持っていた。周りはひどく散らかったアパートの一室のように見え、空き缶や、そこに乱暴に詰められた吸い殻が無造作に投げ捨てられていた。だが、そのゴミの山の中に、いくつか子供用品が混じっていた。みたところ、中学生までの教科書やプリントのようだ。そして、ランドセルもあった。実際に使われていた時には、さぞ持ち主を華やかにしたであろう綺麗な刺繍がされたピンクのランドセル。どうみても何十万はする代物だった。それが今や、ほこりと灰にまみれて、隅に追いやられている。

「おい!――!酒買ってこい!」

突然男はそう怒鳴った。名前はよく聞き取れなかったが、誰を呼んだかはすぐ想像できた。男がそう怒鳴ったあとすぐ、男のいる部屋の扉がズリズリと重苦しく開いた。扉は引き戸のようだ、であればここは和室だ。男はその音を聞くと、無造作に擦り切れたジーパンのポケットに手を突っ込み、くしゃくしゃになった千円札を取り出した。そして後ろに投げ捨てると、擦れたレコードのような低い声で、

「釣りくすねんじゃねえぞ」

と言った。すると後ろから、

「はい」

と確かに女の子の声がした。明らかに子供の幼い声、僕はこのときやっとこの見知らぬ男の異常性に気づき始めた。女の子は音もたてずそっと中に入ると、千円札を拾うカサっという乾いた音が聞こえた。そして部屋を出るというタイミングで、どうやらその女の子は足元の空き缶を踏んでしまったらしい。どさっという鈍い音が後ろから聞こえた。だが依然として声は聞こえなかった。僅かな悲鳴も、転んだことで、痛がる様子もしなかった。そして男は終始、無反応だった。ずっと部屋の一点を見つめていた。屍のように体一つ動かさず、胡坐をかき、背中を丸めていた。その姿からは全く知性を感じられなかった。

少しして、引き戸が閉まる音がした。女の子はこの男のために酒を買いに行ったのだろう。一体この二人はどういう関係なのだ。親子だとは思うが、僕の知る親子とはこんなひどいものでは決してなかった。不意に男は、ゆっくり立ち上がると引き戸を開けて、リビングらしきところに移動した。このリビングもひどい有様で、いたるところにゴミ袋が散乱していた。みなで食卓を囲むテーブルは、ビールの空き缶に占領されていた。男はそのままリビングを通り過ぎ、洗面所に向かった。男はガサガサとゴミの海をかき分けながら、やっとのことで洗面台の前までたどり着いた。

鏡に映る男の顔はひどいものだった。たるんだ皮膚、ひどいクマ、充血た目、だらしない体。男には健康な要素は一つも見つからなかった。ただ、男は随分整った顔立ちをしていた。顔周りの皮膚が垂れ下がっているので分かりにくいが、若いころはさぞイケメンだっただろうと思った。みたところ、まだ年齢は30代後半と言った感じだ。男はしばらく自分の姿をぼーっと見つめた後、蛇口をひねりお湯をだした。そして乱暴に顔を洗うと、ひげを剃り始めた。男の行動は、一見ちぐはぐに見えた。それまで見てきた様子だと、日常生活はとてもまともではないだろうという印象だったのだが、それが丁寧にひげを剃っているのだ。違和感しかない。男はクリームまで塗って綺麗にひげをそると、元居た和室には戻らず、その隣の部屋に向かった。



ああ、これ以上は思い出したくもない。とてもひどい、でも思い出さずにはいられない。これは拷問だ。



男の入った部屋は、子供部屋だった。その部屋は他と比べて物はあまり散乱していなかった。だが、それと引き換えに何かひどいにおいがしていた。どうやらそれは部屋の隅に置かれたゴミ箱から発せられているようで、その中には丸めたティッシュが詰まっていた。男はまっすぐ部屋に置いてあるタンスに向かうと、一番下の引き出しを開けた。中には下着が入っていた。男はその中に手を突っ込むと、中から小さなパンツを取り出した。そして、それをポケットに入れると、和室に戻った。



それから……、もうやめてくれ!思い出したくない、やめろ!



それから男は部屋の真ん中で胡坐をかくと、ポケットに入れていたパンツを取り出し、そしてズボンを下ろした。



クソっ、なんでこんなこと思い出して。誰か助けてくれ。



それから5分ほどして、玄関の開く音がした。男はそれに何かしらの反応は示さなかった。そしてゴミをかき分けるガサガサという音がした後、引き戸が開いた。

「……ッ!………お父さん、お酒ここ置いておくね」

女の子は父親の姿を見て小さく息を呑んだ。それはビックリしているというよりも、そのあと起こる何・か・の不吉な予兆、光景としての小さな絶叫、のような悲痛さが滲み出ていた。女の子の声は恐怖で震えている。初めて僕が見た、その女の子が感情を露わにする瞬間だった。

「おい、まてや」

男はその場を逃れようとする女の子の気配を感じ取ったのか、そうドスの利いた声で言った。その声はそれまでのどれとも違う、本能的なものを感じた。僕は心底気持ち悪いと思った。女の子は父親の静止になすすべなくその場に固まった。一瞬、静寂が訪れる。そして、男はその静寂を破り立ち上がると、後ろを向いた。そこには女の子がいた。それは当たり前ではあるのだが、あまりにもこの空間にミスマッチで、僕は混乱した。その女の子はとてもかわいらしい見た目をしていた。さっき置いてあったランドセルなんかこの子にぴったりだろうと思った。そして、そのランドセル同様、すでにその輝きはくすんでいた。栄養失調によるものと思われる痩せた手足、ぼさぼさの髪、生気のない目。そのすべてが痛々しかった。男はそんな様子には目もくれず、目線を下に移した。床に置かれたビニール袋の中には、ビールが三本入っている。すると男はなんと右手で目の前の女の子を吹き飛ばした。女の子は宙に浮いたかと思うと、リビングの壁際まで飛ばされた。幸いゴミ袋がクッション変わりとなって大事は避けられたようだが、女の子はそのままピクリとも動かない、失神したのだろうか。

「てめぇ!なめてんのか!ビール一本分金ぇくすねただろ!」

男はすでに失神している自分の娘に向かってそう怒鳴りつけた。そしてぐったりとしている娘のもとまで近づくと、髪の毛を乱暴につかんで持ち上げた。

「こい、今日は2回だ!」

そう言うと男は娘を担ぐと和室に入っていった。和室の隅には汚い万年床があり、そこに娘を放り投げた。そして馬乗りになると、服の裾に手をかけた。



もうだめだ!これ以上はもう耐えきれない!早く夢から覚めてくれ!いやだ!助けて!助けて!



「人成君!」

そう呼びかける声で僕は目が覚めた。服が汗でびしょびしょになっている。のどもカラカラだ。

「う、うう…」

僕は唐突に吐き気を感じ、そのまま自分の服の上に嘔吐してしまった。そうだ、僕は今…。そう思うと、また吐いてしまった。すると視界も滲んできた。僕は泣いているようだ。僕は口を抑えながら、とめどなく流れる涙がぽたぽたと汚れた服の上に落ちるのを見るしかできなかった。

「ちょっと、大丈夫?まってて、今看護師さん呼んでくるから」

そう言って幸は病室を出て行った。幸は昨日からちょくちょく見舞いに来てくれているのだ。吐き気が若干収まったので僕は袖で涙を拭いた。まだ微かに涙が浮かんでくる。

「大丈夫ですか!?」

ぼたばたと足音がしたかと思うと、看護師さんを連れて幸が戻ってきてくれた。

「とりあえずこれでお口をふいてください。あ、服の方はこちらで洗濯いたしますので、上半身脱いでもらっても構いませんよ」

僕は看護師さんの言葉にぞわっとした。脱がせて何をするつもりだ。

「や、やめろ!」

僕は思わず手で遮った。看護師さんは驚いたように動作を止める。

「なにかお気に障ることを言いましたでしょうか…?」

「あ、いや、すいません。ちょっと混乱してて」

僕は慌てて謝罪した。そうだ、ここは現実だ。あのアパートじゃない。ここは現実だ。

その後僕は服とシーツを新品に取り換えてもらった。

「人成君、どうしちゃったの?寝てるとき、あんなにうなされてる人成君、初めて見た。」

幸は心配そうに僕を見た。

「ごめん、ちょっと、その、悪夢を」

「…だからずっと助けてって連呼してたんだ」

「そんなこといってたのか、俺」

助けて、か。

「それだけじゃないよ、時々死ねって言ってた。」

「死ね?そんな物騒なことまで言ってたのか」

「助けて、でも十分物騒だよ」

幸はやれやれと言った感じでつっこんだ。

それにしても死ね、なんてどうして言ったんだろう。僕はあの男に死ねって思ったのか。それとも……。

いや、やめておこう。今はもうあのことを思い出したくない。今日はもう疲れた。

僕は枕に頭を預けると、今度は正真正銘の眠気が襲ってきた。僕は一瞬ためらったが、その気持ちいい流れに身を任せることにした。今日は疲れた。

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