おやすみ

文字数 1,436文字

 少女には三分以内にやらなければならないことがあった。眠らなければならないのである。一秒前に、数字が光っている時計を見た。十一時五十七分。夜だ。明日は少女の誕生日。あと三分で少女は七歳になる。だというのに、少女は目が冴えていた。このままでは夜の暗闇のなかで、少女は誕生日を迎えてしまう。それが少女には嫌だった。なんとしても避けたいことだった。わたしは、朝日とともに、目覚めたときに、昨日とは違う自分になっているはずなのに!
 もちろん、誕生日を迎えたからといって、その人間がただちに変わるわけではない。ましてや、零時を越えた瞬間に、取り返しのつかない変化があらわれるわけでもない。しかし、少女は固く信じ込んでいた。あと三分で、わたしは別のわたしになってしまう。それまでに眠らなければ。夢のなかに隠れていないと、わたしはうまく新しい自分になることができない。このままだと、七歳になれないまま、わたしは夜の世界に取り残されてしまう。わたしがわたしから離れていってしまう。怖い! 嫌だ! そんなふうになりたくない!
 十一時五十八分。少女はなんとか急いで眠ろうとした。しかし、急いで眠るなんてことは、人間にできることではない。眠ろう眠ろうとするほどに眠れないのが、人間というものである。永久不変の鉄則である。眠りに関する真理である。
 こんなことなら、きょう人形遊びをした後に、ぐーすかぐーすか昼寝なんてしなければよかった。たっぷり眠ってしまって、いまは身体に気力が満ちあふれている。ありがた迷惑な元気に包まれている。意識は全力で眠ろうとしているのに、身体は全力で目覚めたままだ。
 昼間の人形遊びが思い出される。花を摘んでいる女の子の人形の前に、同じ顔、同じ見た目、同じ花を持った女の子の人形が現れる。わたしはあなたで、あなたはわたしなの。そう言って、ふたりの人形は花を捨てて、手と手を重ね合わせる。あなたはわたしじゃないし、わたしはあなたじゃない。そう言って、ふたりの人形は手を離し、くるりと向きを変えて、花も拾わずに、それぞれ別の方向に去っていく。同じ顔、同じ見た目。どっちがどっちなのか、少女にももうわからない。
 十一時五十九分。時間がない。眠れないまままた一分が過ぎた。一分間の、なんと短いことよ! 少女は目を凝らして闇を見た。それからふたたび目を瞑った。目を瞑ると、自分ひとりの頭の中に閉じ込められたような気がする。鞄に詰め込まれた猫のような気分になる。鉄格子に挟まった鳥のような気分になる。嫌だ、嫌だ、嫌だ。わたしは眠るんだ! わたしは眠るんだ! わたしは眠るんだ!
 目を開くと、暗闇のなかで時計が見えた。十二時ぴったり。少女の誕生日だ。少女の七歳になる日だ。少女の眠りは間に合わなかった。少女は夢のなかに隠れられなかった。
 あーあ、もうだめだ。わたしは六歳のまま七歳になってしまったんだ。わたしはわたしからずれちゃったんだ。わたしはあなた、あなたはわたし。それなのにわたしはわたしではない。
 諦めたように、ふっと気が抜けてしまうと、途端に少女は眠気におそわれた。自然と瞼が落ちて、意識がぼんやり夢に溶けていく。うつらうつらと、少女は自分を慰めた。
 まあ、いいか。ずれたといっても、ほんのちょっとだ。わたしの背中を追いかけていけば、わたしにまた会えることもあるさ、きっと。朝が来たら、六歳のまま七歳になったなんて、すぐに忘れられるよ。
 おやすみ、わたし。誕生日おめでとう!
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