第20話

文字数 4,330文字

 夜風が前髪を揺らす。視界の先には透明な夜に光り輝く幻想的な濃緑色が、水面のようにどこまでも広がっている。

「ギリギリ……だったな」

 撃たれた胸に手を伸ばした奏多が安堵するように呟いた。

 Mr.チェイサーに胸を撃ち抜かれた奏多は、倒れた勢いで雷門を越えると、すかさずパンドラボックスを発動させていた。

 あと数秒能力の発動が遅れていれば、奏多の魂は消滅していたことだろう。

 視界に広がるオーロラと風の吐息、それに夜の匂い。失われつつあった感覚が嘘のようだ。呼吸困難に陥り、痙攣していた肺もすべて正常に機能していた。

「たしかに問題ないけどさ……これはいくらなんでもあんまりだよ」

 ゆっくり上体を起こした奏多がそっと左側に顔を向ける。本来縁側にいるはずのミチルの姿はどこにもない。室内に視線を向けるが、やはり人の気配は感じられなかった。

「あのバカ……」

 ミチルがすでにこの家にいないということを、奏多は肌で感じとっていた。

「お世話になりましたの挨拶もなしかよ」

 この家にやって来た時からいなくなる時まで、ずっと非常識な奴だったなと呆れ果ててしまう。

「このまま礼もなく、謝罪の一言もなく居なくなれるわけないだろ!」

 怒りに身をまかせるように室内に入った奏多は、迷わず二階に移動する。

 彼女がどこに向かったのかは大凡見当がついていた。目的を果たすために東京に向かったのだろう。しかし、行き先が東京だということはわかっても、詳細な場所まではわからなかった。そこで一旦、手掛かりになりそうな物を求め、奏多は彼女の部屋にやって来た。

「何かあればいいんだけど……って、全然片付けてないじゃないか」

 部屋の状況は昨夜と同じで、開いていない段ボールが山積みのまま放置されている。

「元々長居する気はなかったってか、本当にふざけた奴だな……ん?」


 段ボールの上には走り書きのメモと、通帳、それに印鑑が置かれていた。

【約束通り天道くんに全部あげるわ。さようなら】

 手にしたメモを握りつぶすと、奏多は印鑑と通帳を壁にたたきつけた。

「バカにするのも大概にしろ!」

 腹立たしいなんてものではなかった。じんじんと音を立てて湧き上がる怒り。きっといまの奏多を目にしたなら、鬼だって慌てて逃げ出してしまうだろう。

「絶対に見つけだして、誠心誠意謝罪してもらうからな!」

 決意表明に似た感情を吐き出しながら、裏道ミチルの叔父である裏道京太郎、彼に関する手掛かりはないかと段ボールを片っ端からひっくり返していく。

「なんだこれ……って、うわぁっ!? これ下着じゃないか!」

 誤って衣類が詰められた段ボールを開けてしまった。

「にしても……ピンクのリボン付きって、普段のクールな裏道さんからは想像つかないな」

 ミチルの下着を伸ばして縮めて眺めながら、意外と女の子らしい一面もあるんだなと感心していると、突如チャイムが鳴り響く。

「うわぁあああっ!?」

 やましいことをしている感覚はなかったが、突然のチャイムに動悸が速くなる。

「かなく~ん、ミチルちゃ~ん、いないの~」
「鍵、開いてるみたいだぜ」

 やって来たのは幼馴染でクラスメイトの綾瀬千春と、親友の堤下昇だ。

「入るぞ!」

 奏多は手にしていた下着を隠すようにポケットに押し込むと、急いで二人の元に向かう。

「っんだよ、居るなら返事くらいしろよな」

 階段を下りてる途中で目が合えば、昇の肩口から千春がひょっこり顔を覗かせる。その顔はぷくーっと河豚のように膨れた。

「不良のかなくん発見!」
「え、不良……?」
「つーかなんでそんな恰好してんだよ。親戚に不幸でもあったのか?」

 不機嫌を隠そうともしない幼馴染と、スーツ姿の友人に疑問符を浮かべる少年。

「ノブくん、かなくんに親戚はいないでしょ」
「あっ……悪りぃ。そうだったな」

 二人の顔といつも通りの会話を耳にした途端、奏多は緊張の糸が切れてしまったように階段に座り込んだ。

「大丈夫か? お前……」
「顔色真っ青だよ、かなくん!?」

 心配そうに駆け寄る二人に、奏多は大丈夫だと手のひらを突き出した。

「ならいいけどよ。てか裏道は一緒じゃねぇの?」
「二人して不良になって学校サボるからびっくりしたんだもん。それに電話もぜ~んぜん出ないし」
「俺っちはてっきり駆け落ちでもしちまったのかと焦ったぜ」
「ノノノノブくんっ!? かなくんとミチルちゃんはそんな関係じゃないから! ねぇ、違うよね? 大体ノブくんは――」
「あ〜わったぁ、わーったからさ、俺っちが悪かったよ」

 冗談だと笑う昇だったが、千春にはその手の冗談が通じなかった。二人のどうでもいい会話が干からびてしまいそうだった砂漠のような心に潤いを与え、奏多は日常を取り戻していく。

 つい数時間前まで、Mr.チェイサーと命懸けの死闘を演じていたことが嘘のようだ。

「とりあえずダッシュで来たから俺っち喉乾いたわ。なんか貰ってもいいか?」
「ああ、うん。構わないよ」

 ズカズカとなれた様子でキッチンに向かった少年は、紙パックの牛乳を冷蔵庫から取り出す。それをコップに注いで一気に飲み干すと、何かを探るように室内に視線を走らせた。

「どうかした?」
「裏道はいないのかな、ってさ」

 ――あ、そっか! ノブは片恋相手の裏道さんを探していたのか。

「というか二人とも学校はいいの? まさか早退してまで来てくれるとは思わなかったよ」
「……お前本当に大丈夫か? 時計見てみろよ、もう十六時だぜ?」
「えっ!?」

 アビルから帰還したのが午前四時頃なので、奏多は実に十二時間もの間ミチルの部屋を捜索していたことになる。

「あたし部屋見てくるねぇ~」
「おっ、頼むわ!」

 奏多が呆然と時計を見つめているうちに、千春はミチルの部屋に向かってしまった。彼女はミチルが部屋にいると思い込んでいるのだろう。

「一緒に住みはじめてからさ、なんか気になることとかないか? その……裏道のことで」
「……いや、別に」

 ――居候前から山ほどあったけど、言えるわけない。

「どんな些細なことでも構わねぇんだ」

 ――ノブって意外と恋愛にのめり込むタイプなのかな……?

「悪りぃ、変わりなければいいんだ。今のは忘れてくれ」

 いや、好きな人のことを知りたいと思うことは別に変なことじゃない。ただ……。

 奏多は昇の聞き方が気になっていた。それではまるで浮気を疑う彼氏のようじゃないかと。

 ――怪しい。

 実は付き合っていたとかいうオチではないよなと友人の顔をガン見すると、昇はわざとらしく奏多から顔をそらした。ますます怪しい。

「ずっと言おうかどうか迷っていたんだけどさ、僕に何か言うことない?」
「な、なんだよ言うことって!?」

 そりゃもちろん恋バナだよと思う奏多。

 万が一二人が付き合っていたとすれば、期間は短いが親友の恋人と同居していたことになる。そういう面倒くさいことはなるべく早く話し合っておきたかった。

「いや、その……えーと、ノブに関する大切なこと、とか?」
「!?」

 友人のリアクションにまさか当たっていたのかと戦慄する奏多。

「そ、そんなことより! お前だって俺っちに何か隠してることがあるんじゃねぇのか!」
「なにかって……?」
「だって変だろ? 他人のことに基本無関心のお前が、突然裏道の親父さんのことにだけ興味を持つなんて。やっぱり変だぜ」

 ――まさか僕が裏道さんの浮気相手だと勘違いしているのか!?

「いや、それは一緒に住んでるから」
「そのことだけどな、今日学校で改めて裏道がお前の家に住むことになった経緯を千春に聞いたんだよ」
「それがなにか……?」
「どう考えてもおかしいじゃねぇか! お前、裏道は家賃が払えなくて家を追い出されちまったって千春に話したらしいな」

 それを言ったのは彼女本人だと言いたかったが、刑事のような友人は話を聞いてくれない。

「相手はトリック製薬の令嬢だぜ。親父さんが死んでも莫大な遺産は娘の裏道に入る。家賃が払えなくなるなんておかしいだろ!」
「……いや、だから、それは……」

 奏多の周囲を歩きまわる友人は、いつもの陽気な友人ではなかった。浮気調査を依頼したなら必ず尻尾を掴むと評判の探偵のようだ。

「まだ言い訳しようってのか?」
「いや、言い訳とかじゃなくて……」
「二日前の六月十五日、この家の前に鍵屋の車が止まっていたって証言もある。そのあとすぐに引っ越し業者が数名、制服姿の女子生徒と一緒にこの家に入って行ったって証言も取れてんだよ。それも大量の段ボールを抱えてな!」
「そんな……こと……言われても……」
「つーか気になったから裏道の家族を装って引っ越し業者に電話で確かめたんだよ。そしたら手続きをしたのは二週間前だって言うじゃねぇか。おかしくねぇか?」
「それは……」

 お前の彼女が勝手に押しかけて来ただけなんだよとは言えなかった。それじゃまるでミチルが彼氏よりも浮気相手の自分が好きみたいじゃないかと考え込んでしまう。

 ――いや、僕は浮気相手ではないけど……。

「そこで俺っちはある仮説を立てた」

 どうにか友人の誤解を解けないものかと考える奏多に、友人はさらなる追い打ちをかける。

「奏多が裏道に弱味を握られて脅されているんじゃねぇかっ! てなっ」
「……………………………………………………は?」

 ――どうして浮気相手(じゃないけど)の僕が裏道さんに弱味を握られるんだ? まさかとは思うけど、裏道さんが僕を好き過ぎて無理やり押しかけて来ているとでも思っているのか? ……いやいやいや、それはいくらなんでもエロ漫画の読み過ぎだよノブ! というか自分の彼女をそんな最恐ヤンデレ彼女みたいに言わなくても……。

「俺っちを信じてすべて話してくれねぇか? 俺っちならお前を救えるかも知れねぇんだ」

 奏多の両肩にそっと手を置いた昇が、真剣な眼差しで問いかける。

 ――自分の彼女をどんなヤンデレだと思っているんだろ。

「僕は裏道さんに脅されてなんかいないよ。それに、彼女はその……すごく身勝手な人だけど、浮気(そんなこと)をするような子じゃないよ」
「俺っちに、胸に手を当てて親友に誓えるか?」
「誓うよ!」

 ――僕と裏道さんはそういう関係じゃないんだ。

「そっか。ならいいんだ」

 一安心と嘆息したのもつかの間、ドタバタと騒がしい足音が響き渡ると、血相を変えた千春が走り込んでくる。

「かなくんあれはなにっ!? なんでミチルちゃんの部屋があんなにぐちゃぐちゃなの!?」
 えらい剣幕で掴みかかってきた千春の言葉を聞いた昇は、雷に打たれたような顔で奏多を一瞥。同時にリビングを飛び出していた。

「待ってノブッ!」


 奏多は千春に「ごめん」と一言声をかけ、すぐに友人のあとを追いかけた。
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