第29話

文字数 3,000文字

 真っ白な通路が無限に伸びるこの場所は、人が生まれ、朽ちていった数だけ魂が存在する世界。
 そこは誰もがいずれ訪れる人生の終着点――アビルである。

「な、なんだ……ここは?」

 人は予想外の出来事に見舞われると、視覚や聴覚、五感から得たあらゆる情報を整理すべく、無意識の間に思考を働かせてしまう。それは一種の生存プログラムが起動した瞬間でもある。少年を羽交い締めにする左腕からは力が抜け落ち、ナイフを握りしめていた右手は役割を放棄したまま垂れ下がっていく。そこから抜け出すことは容易かった。

 心ここに有らずといった面持ちの男は、真っ白な通路に呆然と立ちすくんでいる。その隙に奏多は放心状態の男から距離をとる。

「この場所は人類が野生動物とサバンナで暮らしていた時代からずっと変わらず存在する真理の世界。アビルゲートを所有しているにも関わらず、来たのは初めてか? 裏道京太郎!」
「アビル……ゲートだと? まさか!? ここはアビルの中か!?」

 信じられないといった表情で奏多を見据える京太郎は「では、お前が案内人……シェルパか!?」真犯人を見つけた探偵のように驚愕している。

「お前の負けだ、裏道京太郎!」

 語気を強める奏多に、京太郎は否定するように首を振り「それは違う」小さく呟いた。

「むしろ、私はアポカリプスの扉――その鍵をようやく見つけ出したのだ。貴様さえ確保することができたなら【人類永久計画】も時間の問題で達成する」

 途端に上機嫌になった京太郎が「あはははっ――」愉快そうに肩を揺らす。はじめて目にしたアビルの世界に、半ば陶然と見惚れていた。
 あまりに尊大な男の物言いに、奏多は二の句がつけず、まるで何もわかっていないと嘆息。

「それは不可能だ。あんたは自分が置かれている状況をまるで分かっちゃいない」
「是非ともどういうことか、シェルパにご教授願いたいものだな」

 この期に及んでまだ、主導権は自分にあると傲慢な態度で鼻を鳴らした。

「僕の能力は肉体と魂を切り離し、魂をここ、アビル内に移行するための能力だ。還るためにはもう一度能力を発動し、魂と肉体の波長を合わせる必要がある。つまり、僕は自在にこちらとあちらを行き来することが可能だが、あんたはそうじゃない。僕がいなければ永遠にここからは出られなくなる」

 それにと、奏多は呆れ果てた口調で続ける。

「基本的にこちらの世界と向こうの世界の時間の流れは等しい。魂が抜け落ちた僕たちの肉体は、いまごろあんたの姪、裏道さんたちによって縛りあげられている頃だろう。ここに居ても、戻っても、あんたの未来は絶望だけだ」
「それは違うな。私に駆け引きや子供のはったりは通用しない。君は私をここに置いて一人で還ることはない――いや、正確には一人で還れないと言った方が正しい!」
「僕が一人で還れないだと?」
「君は人を殺したことがあるか? 当然ないだろう。だが私はある。この手で実の兄を殺した。君は私を人殺しと知りながら、私を助けてくれた。君は実に人間らしく、誠実な子供だ。そんな君が私を一人、ここに置き去りにするとは思えない」

 胡乱げに少年を窺う男が、見透かしたように鼻で嗤う。

「どうやら図星のようだな」
「だとしても、あんたがあちらに還ったところでもう終わりだ!」
「それなら問題ない。還らなければいいだけの話だ」
「は……?」

 予想外の反論に奏多は瞠目してしまう。

 男はシニカルな冷笑を浮かべたまま、理解不能な言葉を述べていた。

「還らないって……」

 自分がなにを言っているのか分かっているのかと問いただせば、「ああ、還らない」裏道京太郎はたしかにはっきりと、もう一度自分はここに残ると言い張った。

「私はこのまま君にアビル内を案内してもらい、二つの世界の調和を取ることにする。そうすればこのくだらん世の中からは死という概念そのものがなくなる。わかるかな? それこそが【人類永久計画】であり、我々の目的だ。私はここで神となるのだ!」

 控えめに言ってこの男はイカれている、と奏多は思った。

「案内なんてするわけないだろ」
「ああ、だが君は私を置き去りに還ることもできない。一度還って仲間を集めて私を捕らえることも不可能。その間に私はどこかの扉をくぐり抜けているかもしれない。そうなれば君は歴とした人殺しだ。良心に苛まれながら生涯を過ごすことになるだろう」

 京太郎の変わることのない傲然たる態度に、奏多の苛立ちは募る一方だった。

「それでも君が頑なに私を案内しないと言い張るのならば、致し方ない。私としてはとても不本意ではあるが、腕の一本、眼球の一つくらいくり貫いて従わせるまでのこと」

 奏多はこれまで十五年間生きてきて、出会った山千海千の大人を含めても、これほど最低な者には会ったことがなかった。助けたことを後悔してしまうほどに……。

 苛烈極まりない殺気に満ちた男が、冷然とした表情でゆっくり歩み寄ってくる。ナイフを持つ右手にはぎゅぎゅっと膂力が込められていく。

 奏多は冷静に、自分がすべきことを瞬時に思考する。

 ――こいつを捕まえて能力を発動する。……大丈夫だ、これまでだって危機はたくさんあった。Mr.チェイサーに比べればこんな中年親父の一人くらいどうということはない!

「やれるもんならやってみろよ! 丁度、その憎たらしい顔面を殴り飛ばしてやりたかったところだっ!」

 男に真っ直ぐ拳を突き出した奏多が、泰然と啖呵を切る。

「ほざけっ! 武器も持たないガキが図に乗るなっ! 若さだけですべてが上手くいくほど世の中は甘くはないということを、その体にたっぷり教え込んでやるわァッ!」

 騎士の一等星の精悍な面構えから、奏多は怒髪天を立てて目を見開き、忌々しくナイフを構える男へ向かって駆け出した。

「うぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおああああっ!!」

 バネのように撓る背筋に力を込め、右腕をこれでもかというほど大きく振りかぶる。そのまま眼前に迫った男の顔面めがけて拳を振り抜いた。

 刹那――

「うぐぅっ……!?」

 下っ腹に衝撃が突き刺さる。焼けるような痛みが瞬間的に脳まで達すると、脳の一部がショート。神経回路が焼き切れてしまったのではないかと思うほどの激痛に、奏多の顔が歪んでいく。

 それでも、一度勢いをつけた拳は止まらない。憎悪に染まった男の顔面めがけて拳は振り抜かれる。

「ごのっ……やろぉぉおおおおおおおおおおおおおおっ!!!」

 気合一閃、全身の力を凝らし、筋肉の限界まで振り絞って放たれた一撃は、男の体躯を容易く薙ぎ払う。宙を舞った男が視界から消え去った直後、遅れて凄まじい打撃音が響き渡る。

「ぐぅっ……うっ」

 倒れるようにその場で膝をつく奏多。下腹部に視線を落とせば、深々とナイフが突き刺さっている。身体に穴を空けられるのはこれで何度目になるのだろうと、考えたくもないことを考えてしまう。

 男の行方を探すようにゆっくり首をふると、壁に激しく頭部を打ちつけた京太郎が白目を剥いて天を仰いでいた。

「う゛ぅぅっ……!? ぐぞっ!」

 奏多は腹部に刺さったナイフを抜き取り投げ捨てると、血まみれの手で床を這う。まるでナメクジになったような、ひどく惨めな気分だった。

 混濁する意識のなか、奏多は男の身体に手を伸ばすと、「パンドラ……ボック、ス……はつ、どう」みんなが待つ世界へ、命からがら帰還する。
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