第2話

文字数 8,716文字

『朔日の月明り』

 糸のように細い三日月が紫色の深海で妖しく光る晩でした。
 月明りを探すように夜空を見上げるタケル伯父さんは、きっと今でもシズカさんを愛しているんだと思います。
 来月の七月七日。新月の晩にシズカさんが蘇ると、タケル伯父さんは本気で信じています。その望みだけがタケル伯父さんの生命力を保っているのです。

 世の中が、どんなに変化しても自分らしく生きることの大切さを伯父さんとシズカさんは、アタシに教えてくれました。

   ☆

 七年前。鹿山シズカの逮捕は造作もないことだった。被害者の生命維持装置を停止できたのは、当直で夜間勤務をしていた看護師の鹿山シズカ以外にはいなかった。しかし、起訴までには手間がかかった。
 鹿山シズカの殺人の動機を立証する為に、私が駆りだされたのだ。警察官になって三十年以上、殺人課で勤務するようになって十年近く経つ私にとって、最後の事件になったのが『看護師による連続殺人事件』だった。
 私には、思い出したくもない何とも後味の悪い事件だ。

 七年前の春。上弦の月が青白く光る静かな晩だったという。瀬尾律子の家庭教師として、医大生で従兄妹の二之宮ケンジが加賀家を訪れた。加賀タケルは、二之宮家を疎ましく思っていた。
「なんなんだよ。二之宮んとこの倅≪せがれ≫が、今さら律子に何の用なんだ」
 加賀タケルは、あからさまに怪訝な顔をして二之宮ケンジに捨て台詞をはくと、背を向けたと聞いている。二之宮ケンジは、世界の不条理を受け入れる賢者が、愚者の表情をするように受け答えたらしい。
「横暴な父が言い出したら他人の話に耳を貸さないんです。律子ちゃんの受験の手伝いをしろって言われて、僕が家を追い出されたんです。どうぞ勘弁してください。これから御世話になります」
「気に入らねぇなぁ。だいたい二之宮を名乗る人間が加賀の家の敷居を跨≪また≫ぐこと自体が許せねぇんだ。まったく、自分の所にだけ太陽が照ってると勘違いしてんだ」
 文句を言いながらも加賀タケルは、渋々と二之宮ケンジを受け入れた。

 勉強部屋で参考書を閉じると瀬尾律子は、二之宮ケンジに頭を下げる。
「アタシの為に、こんな田舎まで来させられたうえに、嫌な思いをさせてしまってごめんなさい」
「いいや。傲慢なのは僕の父さ。父は自分の利益の為なら手段を択ばない男さ。今回も律子ちゃんの受験対策というのは口実で、あわよくば僕と律子ちゃんを一緒にさせたいと考えているんだ。そうならなくても、律子ちゃんが芸術大付属校に合格したら、父の実家に住まわせて律子ちゃんを懐柔しようって魂胆なんだよ」
「えぇっ」
 瀬尾律子は戸惑いと愁いを隠し切れなかっただろう。

 二之宮ケンジの父親は街で市長をしながら、家業の建設会社を中心とするファンド経営に精をだしていた。二十歳の息子と中学生の律子を商売のために恋仲にしようなんて考えること自体が二之宮市長のサイコパス気質を表している。
 瀬尾律子と二之宮ケンジの感情とは関係なく、二之宮家の開発事業が社会問題になる。村の湧水が赤黒く染まり、子供達の内臓疾患が多数報告された。二之宮家の製鉄所による前代未聞の公害事件ではないかと大きく報道され、当局の捜査もされた。
 結局、公害事件は有耶無耶にされたまま、製鉄所は一時閉鎖される。そこで二之宮家は、加賀家が所有する山を開発し、織布工場を建設する計画を提案した。雇用問題の解決になるという理由から織布工場建設に賛成する一派と、二之宮家へ不信感を抱く反対派で村の意見は割れた。当の加賀家は、二之宮家と反りが合わない。ましてや加賀タケルは、村で唯一のマタギを生業≪なりわい≫としている。山を切り開くなんて計画は論外だった。

 私は加賀タケルに鹿山シズカの話を聞くことにした。
 シズカの話をする加賀タケルは、自分の父親を殺した女のことではなく、手の届かない愛しい女性を見るように目を細め、夜が近づいてくる東の空を見上げていた。
「なんで人間は、生き方や死に方に意味づけしたがるんでしょうね」
「何が言いたいんだ。俺は死ぬことにも、生きることにも意味なんてないと思っているよ。ただ、人は未来の為なら死ねるんじゃないかな」
 私が何気なく呟いた一言に対して、加賀タケルは感傷的に答えた。そして独り言のように、加賀タケルは自分に言い聞かせていた。
「人生で楽しいことなんて、そう多いもんじゃないよ。記憶の中にある命が俺を生かしていてくれる。俺は一時≪いっとき≫の想いを抱いて生きていければ満足だよ。アツシと親父は本当に殺されたのだろうか。俺がシズカさんと同じ立場だったら、きっと同じことをしたかもしれない」
 加賀タケルは姪っ子の為なら自分の父親を殺せると言っているのだろうか。私は、この事件の最大の疑念を加賀タケルに問いただした。
「だけど、律子さんの肺と膵臓の移植は成功したけど、心臓移植のドナーがいなければ助からないのでしょう。一時、延命できたとしても、律子さんの臓器移植の為に瀬尾さんと加賀アキラさんを殺すなんて考えられないですよ」
 私の見解を聞いているのか、加賀タケルは瞼を閉じたまま何も答えなかった。私は更に事件の核心に迫る質問をした。
「鹿山シズカと律子さんは親しかったんですか」
「用がないのなら失礼するよ」
 そっけなく返答を避けた加賀タケルは、背を向けて立ち去ろうとした。私は加賀タケルの背中に向かって叫んだ。
「もし律子さんが助かっても、祖父と父親が殺されたから自分が助かったなんて知らされたら、彼女の人生は台無しだ。鹿山シズカはいったい何を考えてんだろうね」
 振り向きざまに加賀タケルが答えた。
「人間なんて誰でも、それなりの贖罪≪しょくざい≫を背負って生きているんだ。そんな事、大した問題じゃねぇよ。それにアツシも親父も、自分の命が律子の役に立ったなら喜んでいるさ。間違いがあるとすれば、今の形ばかりの体裁なんだろうよ。目の前の人を人として扱わなくっちゃ意味がねぇよ」
 そう言うと加賀タケルは哀しげに目を伏せた。

 事件前、母親譲りで体の弱い瀬尾律子が倒れた。心臓、膵臓、肺は殆ど機能していなく、早急の臓器移植が必要だった。病院に向かう為、律子の父親、瀬尾アツシを乗せて、加賀アキラが運転する車は事故を起こす。二人は緊急搬送されたが助かる見込みはなかった。
 問題は、加賀アキラと瀬尾律子のどちらが先に亡くなるかだった。仮に瀬尾律子が先に亡くなれば、加賀アキラの遺産は全て加賀タケルのものとなる。
 だが、誰も予期しなかった事件が起きる。鹿山シズカが故意に加賀アキラと瀬尾アツシの生命維持装置を停止させたのだ。

 私は村人に加賀家と二之宮家の確執について聞き込みをした。
 村のスピーカーと呼ばれる老婆は、村の成り立ちから他人の懐事情までを週刊誌並みに解説してくれる。
「この村はね、昔は盛大なお祭りで賑わってたんだよ。ほらっ。あの川向こうの神社が鎮守様でね。今じゃ氏子も少なくなって御社≪おやしろ≫の建て替えもできないくらい大変らしいけどね」
「はぁ。それで加賀家と二之宮家のことなんですけど」
 脱線する話を修正する私に御構いなく、老婆は喋り続けた。
「だからさぁ。先代の宮司さんが頑固者で、山を売らないもんだから借金がかさんでね。結局、一人娘のシズカさんが二之宮の次男坊と婚約したんだけどね。借金のカタに土地を自由にしようっていう政略結婚みたいなものなのよ」
「その二之宮家の次男坊というのが」
「そうよ。律子ちゃんの父親のアツシ君。あの男が勝手にシズカさんと婚約破棄して、加賀んちのミカちゃんと駆け落ちしたの。それで、街の病院で産み落としたのが律子ちゃんよ」
「加賀ミカというのはタケルさんの双子の妹でしたね。確か亡くなったと聞きましたが」
「ミカちゃんは小さい時から体が弱くてね。可哀想なのは律子ちゃんよ。アツシ君は実家から勘当されて、母親の旧姓の瀬尾に苗字を変えさせられたのよ。律子ちゃんを産んで直ぐにミカちゃんが亡くなって、アツシ君は里帰りしたんだけど家には入れないし、仕事もないし、うつ病になっちゃたでしょう。仕方なく、加賀の家で律子ちゃんを引き取ったんだけど、加賀の家としちゃ、シズカさんに申し訳ないとか言ってさぁ。大人の事情なんて関係ないのに、律子ちゃんが肩身の狭い思いしてね。可哀想に。まだ子供なのに加賀のおじいちゃんの世話をしながら受験勉強しててね。律子ちゃんも苦労が祟ったんじゃないの」
 老婆の一人喋りを遮り、私は事件の核心に迫ろうとした。
「そういえば律子さんと二之宮ケンジさんは仲が良かったんでしょう」
「まぁ若い者同士だからね。だけど、あれだって二之宮市長がぁ。ほらぁ。いつもの事で、加賀さんとこの山を狙った政略結婚でしょう。だつて。律子ちゃんはミカちゃんの娘だから、おじいちゃんの遺産の半分は貰えるのよね」
「話は違いますが、シズカの実家の神社が御社≪おやしろ≫を建て替えるらしいですね」
「そうらしいわね。なんでも匿名の寄付があったらしいわね。シズカさんがあんなことになっちゃたから宮司を継ぐ人がいなくなっちゃたけど。誰が宮司をするのかしらね」
 村のスピーカーと呼ばれる老婆は、事件の核心は掴んでいないようだ。
 その後の調査で鹿山家に流れた大量の金は、二之宮家が寄付したものだと判明した。仮に瀬尾律子が助かり二之宮ケンジと結婚したら、二之宮家には利益がある。鹿山シズカが実行犯で、二之宮市長が主犯との見方もできるが決め手がない。
 別の見解として鹿山シズカが単独で、瀬尾律子を助ける為に、加賀アキラと瀬尾アツシを殺害したとすると、裁判官の心証も変わるだろう。
 もう一つの見立ては、十六年前に婚約破棄された恨みで、鹿山シズカが二人を殺害したというシナリオだ。
 どれも決定打に欠ける筋書きだ。しかも犯行は、ずさんで直ぐに捕まえてくれと言っているようなものだ。どんな理由があるにせよ人間二人を殺せば死刑は免れない。
 事実だけを時系列で並べれば、十六年前に鹿山シズカは婚約破棄をされた。交通事故で加賀アキラと瀬尾アツシの命は時間の問題となった。二之宮家から鹿山家の神社に大量の寄付がされた。鹿山シズカは加賀アキラと瀬尾アツシを殺害し、死期を早めた。結果として、肺と膵臓の臓器移植は成功し、瀬尾律子の延命になった。しかし、未だに心臓移植のドナーが現れず、瀬尾律子は危篤状態のままだ。
 私は事実だけを文書にまとめた。私の報告書を読んだ上層部は『看護師、鹿山シズカによる猟奇的な連続殺人事件』として立件し、起訴した。
 あれから七年の歳月が過ぎた。鹿山シズカの罪は赦されたのだろうか。

   ☆

 ドゥッザァッ。
 森の奥で産み落とされた子鹿を青い月の光が照らす。生々しい匂いの湯気が立ち昇る。子鹿に、まとわりつく膜を舐める母鹿。
 地上に堕ちる肉片。
 霧が森の中に引いていき、朝露が光りだす。
 何事も無かったかのように、夜が明けていく。
 この太陽が輝く世界で、産まれたばかりの子鹿は三歩しか歩くことができなかった。やせ細った母鹿が我が子の亡骸を舐め続けている。
 この山の水脈は穢されている。
 三千年以上続く加賀家はマタギを生業≪なりわい≫としている。マタギは、山の命を保全して、山の神と相饗≪あいにえ≫をすることに努めなくてはならない。
 近代化が進む今となっては、俺が村で最後のマタギとなってしまった。
 俺は泉の畔に子鹿の亡骸を埋葬した。山の神へ再生の祈りを捧げている時に声をかけられた。
「やっぱり水脈を正さないといけないわね」
「あっシズカお嬢さん」
「やめてよ、お嬢さんなんて。幼馴染じゃない。それに古い家の風習なんて時代遅れよ」
 先程まで赤黒く濁っていた泉が、シズカさんの足元だけ涼しげに透明な光で煌めいた。その立ち姿は陽炎≪かげろう≫のように透けていながら、太陽にように力強い。一直線に延びた白いワンピースにかかる長い黒髪が山の風に揺れている。
「いゃぁ、シズカお嬢さんは世が世なら斎皇女≪いつきのみこ≫になられる御方だ。やっぱり、お嬢さんです」
「斎皇女≪いつきのみこ≫なんてヤメてよ。私は神様に嫁ぐ気なんかありませんから。事実、二之宮家に嫁ぎ損ねた女ですもの」
 シズカさんは悪戯っ子ぽく笑っていたが、俺は声を荒げた。
「アツシの野郎、バカにしやがってぇ。ミカもミカだっ。シズカお嬢さんには何て申し開きすればいいか」
「やめてったら。みんな子供の時からの友達じゃない。それにアツシ君は小さい時からミカちゃんが好きだったのよ。私はね、ホッとしてるの。人間も流れる水みたいに正直に生きなきゃいけないんだって思い知らされたわ。アツシ君は勇気があるわよ。タケル君には、そんな勇気があるのかしら」
 そう言ってシズカさんはニヤニヤしながら俺の顔を覗き込んだ。その澄んだ瞳は子供のように純粋で、細い体は壊れてしまいそうな儚さだ。俺はシズカさんに近づくことができずに口を閉ざし、目をそらした。シズカさんは寂し気な顔をして、背を向けると呟いた。
「やっぱり鹿山の土地を二之宮家に売却しようかしら」
「いいや。今さら流れに逆行する必要はありません。神域は守り続けましょう。二之宮の製鉄所は閉鎖することが決まったそうです。水脈さえ戻れば、また山の恵みを奉納させていただきます」
 シズカさんは振り向きざまに現実を俺に突き付けた。
「いずれにしても数年後には鹿狩りをする人がいなくなるのよね。御社≪おやしろ≫の在り方も、その時代に生きる人達に合わせて変わるしかないのよ。風習もしきたりも人間も変わっていくのよ」
「俺は歳の取り方を知りませんから。こんな生き方しかできないです」
 俺はシズカさんが期待する答えを用意できなかった。シズカさんは黙って西の山に沈む太陽を見ていた。
 母鹿の産後の胞衣≪えな≫に森の虫やミミズが群がり、血生臭い肉片は山と一体化していく。

 山は、時を紡ぎ、新たな命を育む。

 俺は数年ぶりに健全な姿の大鹿を射止めた。火薬の匂いのする道具ではなく、古≪いにしえ≫から伝わる弓と矢で大鹿の急所を射抜いたのだ。素早く大鹿の首を切り落とし、血抜きをする。大鹿の鮮血が山の大地に染み込んでゆく。
 翌日、御社≪おやしろ≫に大鹿の首≪こうべ≫を奉納する為、律子に準備を手伝わせた。
「あぁ、今夜は満月だが月食の晩だから、月が欠ける前に急いで祭壇を作ってくれ」
「はい。アタシ、本物の鹿って初めて見るわ」
 恐る恐る大鹿の首≪こうべ≫を覗き見る律子を俺は制した。
「律子は奉納の首≪こうべ≫には触れなくていいから。そっちの棚を作ってくれ」
 俺は祭壇に大鹿の首≪こうべ≫を供える。昼間、精気を放ち、俺と対峙していた大鹿の瞳は、深い闇を抱き何も語ろうとしなかった。その佇まいは山の命の為に土塊≪つちくれ≫となり、神に近づく存在だった。
「あっ、始まったな」
 見上げると、神々しく白い光を放っていた満月が赤黒く染まり欠けてゆく。気づくと、暗がりでうずくまる律子が腹を抱えていた。
「どうした。気分でも悪いのか」
 律子は黙って首を振るだけだ。祭壇の炎が揺らめき、律子の下腹部の赤黒い染みを照らす。
 生々しい鉄錆の匂いが夜風に漂う。
「律子。先に帰っていいぞ。あとは俺がやっておく」
 日に日にミカに似てくる律子の後姿を見ながら、俺は考えていた。ついこの前まで子供っぽかった体形の律子が、女の匂いを身につけている。
 どうすることもできない俺は悩んだ挙句、翌日、律子をシズカさんに会わせた。

 川辺で談笑するシズカさんと律子を遠目に眺めながら、俺は子供の頃を思い出していた。
 あの時の俺達は何処にいったのだろう。

 シズカさんと律子が笑いながら近づいてくる。
「伯父さんとお父さんが子供の頃は仲が良かったって本当ぅ」
 珍しく満面の笑みで、不思議そうに尋ねてくる律子に、俺は素っ気なく答える。
「別に。今と変わらねぇよ。なんだよ。何か貰ったのか」
「あっ、これっ。シズカさんに貰ったの。護符っていう御守りなんだって」
 律子が奇妙な絵柄の和紙を俺に見せる。シズカさんが律子の肩を抱きながら答えた。
「これはね、鹿山家に古くから伝わる御守りでね、図柄には色々な説があるんだけど、一説では死返玉≪まかるがえしのたま≫といって、死人も蘇るほどの霊力がある神宝≪かんだから≫を描いたものなんですって」
「お嬢さん、そんな貴重なもの大丈夫なんですか」
「いいのよ。律子ちゃんが持っているべきなのよ」
「シズカさん、また会いに来ていいですか」
「もちろん」
 そう言ってシズカさんは律子を抱きしめた。律子は嬉しそうにシズカさんの胸に顔をうずめる。気丈に振る舞っていても律子は母親の温もりを求めているのだろう。
 律子が笑いながら俺を見て、とんでもないことを言いだす。
「伯父さんとシズカさんが結婚すればいいのに」
「バッカァやろう。そんな単純な話じゃねぇんだよ」
「あらぁ、単純な話じゃないのぉ」
 怒鳴り声をあげる俺をからかうようにシズカさんが茶化した。
 それにしても、こんなに明るい律子を見るのは初めてだ。
 突然、シズカさんが真顔になり呟いた。
「私はね。子供が産めないの。だから自分から結婚には積極的になれなくて。ちょっと考えてね。私の命が誰かの命に繋がるならって思って。私の臓器は全て移植してくださいって届け出ているのよ」
「そうなんですか。でも、子供が産めるとかは結婚に関係ないですっ」
 焦って口走った俺へシズカさんの突っ込みが返ってくる。
「あらぁ、それってプロポーズなのぉ」
「あぁ、いゃぁ」
 俺は、だらしなく口籠るしかできなかった。

 その日の晩。居間で律子と親父がヒソヒソと話している。
「ねぇ、おじいちゃん。シズカさんと伯父さんは好き同士なんでしょう。なんで結婚しないの」
「さぁね。二人の気持ちは分からないけど、タケルは古いしきたりが気になっているんじゃないか」
「古いしきたりって」
「加賀家は三千年前から狩りをして、山の恵みを鹿山の神社に奉納するのさ」
「今でもそうよね」
「それでな。殺生をする加賀の人間と、神職の鹿山の人間が夫婦≪めおと≫になることは禁じられていたんだよ」
「なぁにぃ。そんな迷信めいたことっ。くだらないっ」
「そうだな。律子の言うとおりだ。人を愛せなくなると未来がなくなってしまうね。言い伝えによるとな。二千六百年前に加賀家の先祖のマタギが、鹿山の斎皇女≪いつきのみこ≫と。律子は斎皇女≪いつきのみこ≫って知っているか」
「昔の風習で一生、結婚しないで神様の御世話をしていた女性のことでしょう」
「まぁ、そんなもんだな。それでな。その結婚しちゃいけない者同士が駆け落ちをしたんだよ。ところがな。鹿山の斎皇女≪いつきのみこ≫は身籠ったのだが死産で。母体も助からなかったんだ。それ以来、加賀のマタギは人里から姿を消し、山に籠るようになったという話なんだよ」
「そんな大昔の話を気にしているなんて馬鹿げているわ」
「そうだね。律子は律子らしく生きなさい。律子は未来の希望なんだ。律子が生きていることが全てなんだ。人の業≪ごう≫は、川から海へと流れていき、海底深くに沈み、やがて潮風の息吹で掻き消され、罪は赦されるんだよ。何が正義かじゃなくて、律子は好きな生き方をしなさい」
 その通りだった。律子や親父の言うとおりだ。
 俺は流れる川のように素直に生きればよかった。何故、直ぐにでもシズカさんの所に行かなかったのだろう。もし、あの時、俺がシズカさんに会いに行っていたら、シズカさんは死刑にならなかったのだろうか。だとしたら心臓移植を受けられずに、律子が亡くなっていたのだろうか。
 今さら過去を詮索しても仕方がない。
 人生において未来以上に大切なことなど、あるのだろうか。
 これから俺はシズカさんの御霊≪みたま≫の安寧を祈る為に、一生を捧げる。

   ☆

 アタシが退院して一か月後でした。タケル伯父さんが、アタシの御守りを借りにきました。
 タケル伯父さんは、死返玉≪まかるがえしのたま≫のことを調べて、太陽暦の七月七日が新月になる晩に、死返玉≪まかるがえしのたま≫を枕元に置いて寝ると、亡くなった人に会えると本気で信じています。
 一年前から体調を崩してしまったタケル伯父さんは、この日が来るのを何よりも楽しみにしていました。

 月夜見尊≪つくよみのみこと≫が息を潜める新月の晩に、生暖かい夜風が吹きます。山の魂が息衝≪いきづく≫くように、無数の蛍火が妖しく点滅します。やがて、古≪いにしえ≫の霊≪ひ≫が数万個のランタンになって夜空へ旅立ってゆきます。
 満天の星が輝く夜に、タケル伯父さんは亡くなりました。
 その満足そうな笑顔から、きっと伯父さんはシズカさんに会えたのだと、アタシは信じています。
 タケル伯父さんが亡くなった翌朝。東の空がオレンジ色に輝き、青紫色の天空に浮かぶ明星が、静かに消えてゆきました。
朝日が立ち昇り、太陽の光が山の新緑に煌めきます。

 人を愛することができた人生は、それだけで価値あることだとアタシは思います。

 二十二歳になったアタシは、二之宮ケンジさんと結婚しました。主婦業の傍ら、念願だったデザイナーの仕事をしています。注文を受けると、発注者にインタビューすることで共感し、想像力を働かせて、アタシは目の前の御客様だけの為に、心を込めた一着を作ります。
 それは人間を人間として扱う仕事だと、アタシは誇りに思っています。  (了)



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