星の花 後編

文字数 3,061文字

 ガゼルがおとずれる二日前──

 今日はいるかな、と古びたドアを開いたが、薄暗い部屋の中はしんと静まりかえっていて、空気がぴたりと動きを止めていた。
 ガゼルの路地の家は、シノワが前に来た日から何ひとつ動かされた様子がなく、ガゼルが訪れた気配はなかった。ハシゴのかかっている穴から下をのぞいて見るが、隠し部屋には人の気配はなく、ロンの姿もまたなかった。
 シノワは少し気を落としつつ、窓を開け、戸棚から小さなグラスを取り出して水を入れると、持っていた小さな花を挿した。学院の裏手にある草むらで見つけた白星草(ラジヤーテ)である。最近では色も華やかな白星草が庭先によく植えられていたが、この白星草は原種に近いようで、白くて花びらがシンプルだった。
 ガゼルはこういう素朴な原種の植物が好きなのだった。あの旅の間、いくつ鉢植えを作らされたことか。あの鉢植えは今、法庁で順調に生長し、どんどん数を増やしているのだとガゼルが嬉しそうに話していたので、ガゼルの執務室が植物園のようになっているのではないかとシノワは危ぶんでいた。
 シノワは主のいない机に白星草を生けたグラスを置くと、窓からわずかに射し込む陽の光に目を細めた。
 このところガゼルは忙しくしており、シノワもまた学院の試験があったりしてなかなか来られず、かれこれ一月(ひとつき)あまり会えていなかった。
 それでも、そろそろ来る頃ではないかと思ったのだが、まだ仕事が落ち着かないのだろうか。
 夜まで待ってみようか、明日少しなら時間が取れるかもしれないから出直してみようか、それとも──とそこまで考えてから、これではまるで主人の帰りを待ちわびる犬のようではないか、とシノワは頭を抱えた。
 実際、ガゼルはシノワのことを犬っころぐらいに思っているのではないか、とシノワは思った。
 シノワが来ると、美味しいお菓子や──ほとんどの場合は煎り豆だったが──お茶を用意して、シノワが何だかんだといろいろな話をするのを、にこにこしながら聞いている。シノワが気落ちしていれば上手になぐさめて、たいていは「君はそれでいいんだよ」と笑うのだった。
 主人と犬、もしくは祖父と孫か。──甘やかされている。
 シノワは深々とため息をついた。
 なにも百五歳も年上のガゼルと、対等に話がしたいなどとは思っていないのだが、シノワももう二十二歳。いい大人だ。曲がりなりにも子どもたちに先生と呼ばれる立場なのだから、犬っころでは少々情けないではないか。
 ガゼルはいつも、シノワの話を聞いて相づちを打っているばかりで、自分は愚痴のひとつも言ってはくれない。頼りがいがないのだろうなと悲しく思って、先日生徒からも頼りないなと笑われたことを思い出して、気持ちがしぼんだ。
 あれからもう七年も経つのに、ガゼルはまだノービルメンテ学院の教授たちと揉めている。このところ姿を見せないのも、そのせいなのだろうとシノワは思っていた。テサのほとんどの学院の間にはつながりがある。シノワが中等学院の教師などやっているので、何か気を回しているのかもしれない。
 魔法を封じたときも、いろいろなことが落ち着いて、シノワに危険が及ばなくなるまで五年もの間、ガゼルは黙ってシノワとの関係を完全に断ったのだ。
 シノワはほとんど無意識に胸元に手をやった。手の触れたその服の下には、金色の小さな鍵が首からぶら下がっていた。この部屋の鍵である。魔法がかかっていて、この鍵を持っていれば、この部屋のドアを開くことができる。五年経って再会した日にガゼルがくれたものだが、それからシノワはずっとこうして持ち歩いているのだった。
 あの日、連絡を取っているのが知られたら、いろいろと厄介だっただろう、とガゼルは飄々と言ってのけたが、あんな状況で放っておかれたこっちの身にもなってほしかった。
 あの五年間で、まともに連絡が取れた魔法使いは、通学している学院の学院長だったアレフと、テュール家当主のレジンだけだった。
 腹立たしいことに、ガゼルがみんなにシノワと連絡を取ることを禁じていたのだが、魔法使いと全く連絡が取れなくなった時、半ばやけっぱちな気持ちでレジンに手紙を送ったところ、彼はあっさり返事をくれた。あの旅の間、ガゼルと共に訪れた際に、「いつでも稽古をつけてやる」と言った約束を、彼は本当に守ってくれたのだった。剣を介した上での約束事には誠実な、いかにもテュール家当主らしい態度だった。
 とはいえ、レジンもガゼルに会うことがほとんどなく、たいして情報は入ってこなかったのだが、当時無力感に(さいな)まれていたシノワは稽古に打ち込み、レジンはそれに応えて厳しく鍛えてくれたのだった。おかげで、シノワはあの五年のうちに階級が練習生(スタンヌム)から見習(アエス)に昇格し、おそらく次の昇格試験では、一般人としては最高位である剣士(フェルルム)に昇格できるだろうというところまで来ている。
 そんな風にして、無駄に腕っ節は上がったものの、自分がただの中等学院の先生で、ノービルメンテに何のツテもコネもない自分が、ガゼルの役に立てることなどないことはわかっていたが、それでも、何かあれば少しぐらい相談してほしいと思う。何かあるのなら、それをちゃんと知りたかった。
 シノワはどうしてか、ガゼルに対して言いしれぬ不安を抱えているのだった。死にかけたシノワの怪我を、ガゼルが引き受けてくれた時の惨状を引きずっている、といえばそうなのかもしれなかったが、もっと前から不安だったとシノワは思った。
 ガゼルがジュストに魂を抜き取られて、クマの姿になっていたときも、クマがどんなにあっけらかんとしていようと、目を閉じたまま動かないガゼルを見ているのが恐くてならなかった。
 ガゼルは力も権力も充分に持っているのに、シノワの手の届かないところで、不意に不幸になってしまいそうな、そんな気がしてならないのだった。これはシノワにもあまり理由のはっきりしない不安だった。
 しかし、ガゼルも少し自分の力を過信しているところがあると、シノワは思っていた。ガゼルは魔力が強大なので、魔法を封じたりでもしない限りは怪我も瞬時に治るし、病気になったりすることもないのだが、それでも怪我をすれば痛むし、心は疲れもする。しかしガゼルは自分のこととなると、ないがしろにしがちだった。それを指摘されると機嫌が悪くなるのだが。
 たとえ犬っころのように思われていても、ガゼルがシノワと過ごす時間を楽しんでくれているのなら、きっとそれでいいのだろう。いいのだろうが、もっとちゃんと具体的にガゼルの助けになりたいとシノワは思う。教師の仕事はとても好きだったが、それよりももっとガゼルの力になれる道を選べば良かったのではないか、と思う日すらある。何かできることがないだろうかと、シノワはずっと考えているのだが、妙案はなかなか浮かんでこなかった。
「まだまだワンコは卒業できないのかな」
 苦笑して、シノワはガゼルのペンを手に取ると、自分の鞄から小さなメモ用紙を取り出してペンを走らせる。
“原種に近い白星草(ラジヤーテ)を見つけました。ガゼルが来るまで咲いてるといいんですが”
 明日にでもひょっこりやってきて、この花に気がつけばいいのに、とシノワは願い事のように思う。
「あんまり疲れてないといいけど」
 ガゼルがもしシノワのいないときにここへ来ても、この花を見つけたら、きっと少しは笑ってくれるだろう。幸い、彼を笑顔にする方法は、わりとたくさん知っているのだ。
 情けないが、今はこれぐらいしかできることがない。今はまだ。
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