ラストノート

文字数 2,431文字

 お前はきっと真面目過ぎた。

 そして少々、若過ぎた。

 言ってる俺のそばから、言葉は手で握った砂のように滑り落ちる。

 お前に宛てた手紙はいつも誤配され、誰もいないところに届く。

 具体的に言やぁ、机の引き出しの中にたまっていくばかりなのさ、最後の手紙ってやつがよ。

 お前は俺の太陽でもなければ月でもなかった。

 ヴィーナス? ハッ、笑わせてくれるぜ!

 お前はいつもサキュバスの香りで俺を惹きつけた、最初にして最後の偶像だった、……なんてな。

 正直、お前の香りでヤラレない方が可笑しかったくらいさ。

 真面目に演じていたのは、みんなの前でのことだったのか?

 それとも俺の部屋の中だけでのことだったのか?

 火遊びはあんなにやめとけって言ったのにな。

 俺の方だけが火傷しちまったぜ、くそったれがっ。

 それに、火傷を負わせたのならば、看護する義務があったんじゃないか、お前にはよ。

 世間はよ、全く俺たちを馬鹿にしたもんだったよな。

 あのくそったれどもは、ケツに弾丸ぶち込まれるその瞬間までひとを嘲弄し過ぎるきらいがある。

 俺たちの関係を茶化したくて仕方がなかったんだろう。

 俺たちは決して、奴らの嘲弄に屈してはいけなかった!

 報いを受けるべきは奴らの方で、お前じゃなかったはずだ。

 なのに! 馬鹿野郎! 少し頭に血が上るのが早過ぎたんじゃないか?

 お前は頑張った。俺も頑張った。だが、ロミオとジュリエットは結ばれない。

 つまり、そういうことだ。

 火傷を負ったのは俺だけだったが、お前はもう、この地上の息を吸うことすらできない。

 つまりは、それだけだった。



 ラストノートが長すぎる。

 ラストノートが長すぎるから、俺は何度も、書いた便箋を引き出しに仕舞い込む。

 お前に宛てて説明するのも滑稽だが、ラストノートってのは香水の用語だ。

 香水をつけたあと、二時間から半日が経過した頃の香りのことを指す。

 フレグランスが香る時間が一番長く、そいつ自身のイメージを作る香り、と呼ばれている。




 お前を形作る香りは、いつまでも続く。




 結局、お前が俺の前でだけサキュバスだったのか、それとも〈そういうこと〉だったのかは、分からず仕舞いだった。

 焼きが回ってきたもんだ、と思ったもんだぜ?

 その印象付けに惑わされ、翻弄され、俺が香りに参ってる間に、お前は遠い世界に行ってしまった。

 生まれつきの小悪魔は天使に見える。まるで歌の文句のようだ。笑えるぜ。

 生まれつきで俺を惑わせたお前はクレイジーそのものだった。

 俺にだけ、閉じた脚をもっと広げ続けていてくれたなら、こんなことにはなってなかった、と言や良いのか。

 俺も碌でもない件に巻き込まれたが、それはお前も同じだった。

 引き裂くのは簡単だったのだろうよ。俺たちは引き裂かれ、重大な怪我を負う。

 命が尽きた気分はどんなだい?




 これが世間て奴なんだな、と思った途端、視界がブラックアウトしちまった。

 いつだって瞑った目の裏に映るのは、お前のことばかりだ。年甲斐もなく。くそったれめ!




 なんてこった。買っておいたウィスキーが切れそうだ。畜生がっ! 

 インクも掠れ掠れになってきやがったし。全く、ついてねぇな。

 ああ、クソがッ! 畜生! なんでお前は死んじまったんだよ!

 この俺だけを残して!

 まるで身体の半分がなくなったかのような幻肢痛を感じ続けているんだ。

 本当のことさ!

 これが最後の手紙だって言い聞かせているのに、お前は俺に何回手紙を綴らせれば気が済むんだ、永遠の小悪魔さんよ!

 今日もまた、「さようなら」の言葉の羅列が増えていく。

「さようなら」できたもんじゃねぇよな。

 なんてこった。



 この世の全てが輝きを失った。

 お前は闇色に輝いていた。

 それが突然、消えてしまったんだ。この世界から。


 世界の損失と、世界の喪失は一緒だった。

 お前のいなくった俺は、世界を見失った。

 生活圏すら、何も見えねぇんだ、これがまた。

 世界喪失のポエムを百四十文字で海に放流する毎日だ。

 いや、こんな日々は丸ごと消えてしまえ!

 くだらねぇ。

 面倒くせぇのは、野卑な場所にいるからなわけじゃない。

 今や、俺を取り巻くすべての世界は、墜落する夕方の滲み方をしている。

 途方に明け暮れるばかりだ。

 灰色がかった日常に、お前を印象付けたあの香りだけが残留している。



 小難しい化学式は分かりたくもないが、残留した香りは、きっとお前だけのオリジナルな印象を、深層に刻み付け続ける。

 心象スケッチでもしてろっていうのか。くだらねぇ。

 経験と感覚は脆く、崩れ去ったあとだ。

 マインドマップはいつもお前を思い描いて、帰結する。

 どんなにクソみたいな日常を送っていても、喪失感が俺をここに居させ続けるんだよ。

 わかるか。いや、もういないお前にわかるかどうかを尋ねても仕方がないことなんだが。

 馬鹿野郎は空を飛びたがるって聞くが、空の飛び方を俺は忘れちまったぜ、間抜けめ。

 楽しいことを考えろ、だなんて言うのは、この際、なしだ。

 もしも楽しいことがあるとしたら、「さよなら」を書き続けているこの瞬間こそが千年に匹敵する愉楽に等しい。

 それをひとは〈蕩尽〉と呼ぶだろう。

〈蕩尽〉する俺に対して、お前は些か真面目過ぎた。

 死ぬことはなかったんだ。また、いつものように俺にその脚を開いてさえいれば、それで万事は上手くいったはずだったんだ。

 畜生。お前が大嫌いだった煙草が旨い。

 次は俺もいなくなる。

 もう、さよならだ。じゃあな。





〈了〉
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