第1話

文字数 19,169文字

1・『 帰ってくるわ! 』

 晴れた!
 空は見事に晴れ渡った。

「来たわっ、ほら、もう声が聞こえてきている……、もうすぐに来るから早く! もう角を曲がってくる頃よ、ほら! 帰って来るわ!」
 彼女は晴れ上がった空を映した様な、青色のドレスだった。
「早く! あと背中のリボンだけ、ねぇ早くして……もうそこまで行列が来てるのにっ」
 いかにも少女らしく目まぐるしく生き生きと動く眼だ。
「リボンを早くして、ねぇ早く結んで――ねぇ、出来た? 結べたの? ねえ、お願い急いで、ねえ――、出来た!」
 その途端ヴィアは走り出した。目指すのは大路に面した館の正門だ。そこには多数の使用人達が集まっている。ヴィアに気付くや彼らが必死で手招きをする。
「ヴィア様、急いで急いでっ。ほら、もう角を曲がって来てますよっ」
「来たの? もう来たの?」
「もう行列の先頭が見えてきましたよ、さあ急いでっ」
 かき分ける様に彼女は前に出て大路を見る。すでに大路には多数の群衆が出ていた。明るい陽光が射し込む中、人垣の一番前まで駆けつけたヴィアは、大きく息を弾ませた。
 誰もが大声の歓声と拍手を上げている。その興奮の空気に、彼女の顔もまた高揚する。頬を赤くさせながら、大路の右側を見据える。すでに見え始めている軍勢の凱旋行列が近づいてくるのを待ち構える。
 その行列の中だ。
 たった今だ。一人の騎乗の若者が現れた。
「イルシオ!」
 はっと相手は気づいた。馬上から振り向いた。
「ヴィア?」
「イルシオっ、ここ、イルシオっ」
「ヴィア!」
 陽射しと歓声の中、青年は心から清々しい笑顔を見せた。
 素早く馬から降りると、兵士達の間を急いで走り出す。瞬く間に少女の許まで来るや、再び大きく笑った。笑いながら少女を抱きしめた。輝くような笑顔をもって少女を抱きしめたのだ。
「ただいま! ヴィア」
「お帰りなさい! ずっと待っていたわ、イルシオ!」
 恋人同士――
 では無い。兄妹だ。
 そう言われれば確かに、良く似た雰囲気のある兄妹だ。育ちの良さを感じる顔立ちや、相手を真っ直ぐに見るトビ色の眼や、素直に感情を示す豊かな表情や。確かに品性を感じさせる兄妹だ。
 彼らは、王国ルムの最上位を誇る豪族ナロドニア家の次男・イルシオと、妹のヴィアだった。たった今、数か月にわたった戦役に勝利して帰還した弱冠十八才の総大将と、それを出迎える愛らしい妹だった。
「ヴィア、久し振りだ。髪が伸びた?」
「だって久し振りよ。久し振りだもの、だって……、こんなに長く家を空けたなんて……こんなに戦役が長引いただなんて」
「うん。確かに長くなった」
「だって、心配したから、本当に……。だって、ムリオ兄様が――、あんな事になった後だから。だって……」
 弾んでいたはずのヴィアの声がくぐもり出した。
「――。そうだな」
 二度と会えなくなった。まさかこんな事になったなんて。
 まさかナドロニア家の誇りであった自分達の兄が、こんな単純な戦役で落命してしまったなんて……。
 賑やかな歓声が辺りに響いている。立ち止まっている二人の横を、勝利したルム王軍が王城を目指して華やかに凱旋してゆく。陽射しを浴びて、兵士達の武衣の金具も、馬具の飾りも、軍旗の尖端も、全てがきらめいている。馬の蹄音も賑やかな喋り声も、どれもが熱気に高まっている。勿論、通りの両側を埋めて迎える群衆の歓声こそが、一番大きく高まっている。
 イルシオは妹の手を握りながら、もう一度訊ねた。
「父上はもう王城での祝宴に向かったんだろう? 館の方は? 城の祝宴が終わったら今夜は我が家でも宴席を設けてくれると聞いているけれど」
「ええ、勿論。待って。マキスを呼ぶから」
 ヴィアが振り返り、騒々しい歓声に負けない大声を上げようとした時だ。
 兄妹は同時に気づいた。
 彼らのほんのわずかに後ろ側だ。人垣の狭間にいつの間にか、見映えの良い男が笑顔で立っていた。
「お帰りなさい。イルシオ。本当にご苦労様でした。――少し痩せました?」
「――。うん。マキス。久し振りだ。やっと帰れた」
「本当に大変な日々でしたね」
「お前にもそうだったはずだろう? ナロドニア家にも本当に色々な事があったから。この数か月……」
「ムリオ様の戦場での死は、名誉の極みとはいえこの上ない悲劇でした。
 御葬列は貴方の御父上の手で、出来うる限りにおいて丁重壮麗に執りはからいました。新王のサナタイ陛下も、ムリオ様とナロドニア家の為にと王城の一角に廟を賜って下さいました。しかしながらそれでも殿の――御父上のお嘆きとお怒りが癒される事が無かった御様子でしたが」
「そうか……」
「ええ。本当にナロドニア家を揺さぶり続けた数か月間でした」
 男はいかにも落ち着いた顔で、しかし心よりの実感を込めた口調で述べた。
 彼らの兄――では無い。
 ナロドニア家の若い、しかし有能な家令であった。たった今も親しみの笑顔をもって、暗い沈黙に陥りかけていた兄妹を救ったのであった。
「さあイルシオ。凱旋を続けて下さい。王城の方では殿もサナタイ王陛下も貴方の帰還を待っていらっしゃいます。
 貴方は勝利者です。ムリオ様の戦死というあの苦境からよくぞ勝利に導いてくれたものだと、さすがナロドニア家の新嫡子だと、ルム中が貴方を讃えています。
 ほら、このままでは凱旋行列が通り過ぎてしまう。どうか早く戻って下さい」
「王城へはお前も来てくれるんだろう?」
「貴方の晴着を持ってすぐに追いかけますよ」
「訊きたいことが山ほどあるんだ。私がいなかった間の事について。特にサナタイ新王の即位までの経緯についてが気になる」
「ねえ、私も行っていいんでしょう? 本当に素敵。こんな華やかな行列は、聖マリク様の聖年のお祭り以来だもの。
 ――見て。軍勢の後ろの綺麗な馬車。あれは何? 誰が乗ってるの?」
 ちょうど三人の前を今、小振りの馬車が近づいてくるところだった。
 馬車の内側は、幌に隠されていて見えない。僅かな隙間から除き見えるのは、薄暗がりの中に静かに座しているただ独りの人影だけだった。細い線を持つ横顔の輪郭だった。
 突然ヴィアの茶色の目が輝いた。
「女の人! 解った、あれがその人ね。捕虜になったアルグート国のターラ女王!」
「そうだよ。良く名前を知っていたね」
「だってこっちでは大変な噂になったのよ。アルグートの女王は息を飲むほどに美しい人だって。本当なの? 幌で見えないわ。ねえイルシオ、馬車の幌は外せないの?」
「敵方の捕虜とはいえ女王の地位にある人だぞ。そんな失礼な扱いは出来ないよ」
「でもこれから王城へ行けば見られるわよね、イルシオ。ねえ、どんな感じの美女なの? 気性も女性らしいの? でも蛮族アルグートの女王だから、やっぱり冷酷で高慢なのかしら? 貴方はもう会って喋ったんでしょ? ねぇイルシ――」
 はっと、ヴィアの声が途切れた。
 その時。少しだけ幌に隙間が出来た。――そこから蛮族の女王が見えたのだ。
 ヴィアを見ていた。
 確かに彼女は見ていた。確かに圧巻の美女が、しかし酷薄な眼が自分を見ていたのだ。
「ヴィア? どうしたの?」
 馬車は目の前を通り過ぎていった。
 明るい真昼の光と、勝利を祝う人々の歓声の中だった。呼吸二つ分の間だけヴィアは不安に飲まれた。なぜだろう? こんなに晴れ上がった空の下なのに。
「ヴィア?」
 彼女は振り向く。兄の顔を見て微笑んだ。
「何でもない」
 二人の目の前を、凱旋行列は続いて流れていく。
 今度は、手枷を付けられた男達が近づいて来た。周囲をルムの兵士に囲まれ、歓声から一転した群衆の罵声と嘲笑の中を歩き進んで来た。
「アルグート軍勢の捕虜だよ。皆」
「人数が多いのね。この人達はどうなるの? まさか殺されたりはしないんでしょう?」
「それは王が決めるよ。でも多分、身代金を払わせた後に解放だろうな。いつもの通り」
「そうよね。その方がいいわ。もう人が死ぬのは嫌」
「ああ。そうだな。――ほら、ヴィア。あの歩いてくる捕囚の男が見える? ほら、あの肌の色。不思議だろう?」
 ヴィアの目が今度こそ、驚きで見開かれた。
 それはまるで、冬の夜の闇だ。
「ターラ女王の相談役の異邦人だ。エアリアという名前の」
「エアリア……」
 不思議なほど柔らかい響きの名だった。にも増して、不思議な外貌の男であった。それは当地では如何にも珍しい、暗色の肌の色だけではない。見上げるような背丈の、精悍に引き締まった体躯の、そして誰が見ても美しいと思わせる容姿の男であった。
 いや。単に容姿だけの問題では無い。エアリアは、敗者の屈辱感を丸出しにしている周囲の捕囚達とは、全く一線を画していた。自分の側が敗北した事や、ましてや鎖に繋がれているという事実など全く存在していないかのように涼し気な様子だった。正にその証拠に、
 ――びっくりしてヴィアは息を飲んだ。
 それどころかイルシオも、横に立つマキスも目を丸くした。彼らの脇を通り過ぎる際だった。エアリアは、ナロドニア家の三人に向かい、優雅に会釈をしたのであった。引き込むように魅力的な微笑みを添えて。
……勝利の軍勢が凱旋する大通りで、陽射しは天頂から降り注いでいる。
 帰還したルムの勝利の軍に対して、住民たちが惜しみない歓声を投げている。その中、ナロドニアの兄妹の気取られてしまった沈黙の空気を破ったのは、やはりマキスの穏やかな声になった。
「イルシオ、早く凱旋に戻って下さい。王と殿がお待ちです」
 振り向き、凱旋の主役は笑顔を取り戻した。
「そうだな」
「それからヴィアを――ほら、もう絶対に一緒に王城へ行くつもりの様です。このまま凱旋に同行をさせて上げては?」
「行くわ! 私も一緒に行くっ」
「分ったよ。じゃあ一緒に行こう。――そうだ、ヴィア。確かにアルグートの女王も美しいけれど、でもお前の方がもっと愛らしいよ」
 途端、嬉しそうにヴィアは頬を染めた。
 その妹の手を取る。自分の馬へと戻ると、まるで婚礼式を終えて聖堂から出て来た新郎新婦の如く、二人は並んで馬へと乗ったのであった。
 勝利の主役が凱旋に戻った。人垣の歓声が一層に高まった。
 真昼。
 雲一つ無い真っ青の空。
 瑞々しい勝利者の帰還に相応しい、清々しい空の下だった。



2・ 『 血の供儀を望むのか? 』
 
 世界はまだ若くて、瑞々しかった。
 ルムという簡素な名を持つその国もまた、幼い世界の小さな若芽の一つだった。

 ルム。
 明るい陽射し。
 温暖な気候。
 麦畑と果樹園と、どこまでも連なる丘陵地。
 ……無数に並ぶ国々の中でも、ルムが神の恩寵を受けたとは、ほぼ間違いが無かった。それは決して、肥沃な地味や豊富な水脈ばかりを指している訳ではない。ルムはそれ以上に、誰もが納得し得る大きな恵みを誇っていた。――
 ルムは、王権が安定していた。
 ルムには、豪族達の支持を得た、強い王がいた。強い王と、王都ファウロに住まう忠実な豪族達が、国を安定させていた。
 そう。王権の安定こそが、ルムに恩恵を導いていた。他国の王城ではありがちな愚かな政争やら謀反やら陰謀やらとは無縁で、ゆえに周辺の国々との日常的な争いにも、いつでも優位を誇れる国となっていた。
 だが、そのルムをしても、時に危機は訪れる。
 例えば、この半年。
 信頼に満ちていたルム王が、病で急逝してしまった。珍しくも新王の選出について、豪族達の意見が大きく割れて、紛糾してしまった。
 そしてこの隙を突いてきた。長年にわたり国境線を巡って衝突してきた北の“蛮族”アルグートの軍勢が、国境を踏み越えて侵攻して来たのだ。
 勿論ルムの側もすかさずに応戦に出たものの、その展開はいつもの戦役と異なってしまった。珍しくも、戦闘は混み入ってしまった。戦いは長引き、両軍に多くの犠牲者を出してしまった。
その間にもルムの王城内では、次期の王の選出をめぐっていよいよ激しく紛糾し続けていった。……

・       ・       ・

 広い王城の中庭を、最大の豪族であるナロドニア家の新嫡子イルシオと、ナロドニア家の有能極まりない家令マキスが並んで歩いていた。
 僅か一月前に王座に就いたばかりの新ルム王主催の祝勝の典礼が始まる直前であった。これに出席するためにイルシオはたった今、豪奢な青色の晴れ着へ着替えたところであった。王と豪族達の待ち構える大広間へと向かうところであった。
「そこまで紛糾したんだ。王の息子が父王の座を継ぐという真っ当な論理を、他の豪族達がそこまで認めなかったとはね」
 イルシオは早口だ。速い歩調を決して緩ませない。何度となく走り寄って来ては“皆様が待ちかねています、お急ぎ下さい”と告げる王城の従者達には、うんざりしていた。
「あの王子がそこまで嫌われていたとは知らなかった」
「ええ。サナタイ王子の御気性は、以前より一部の豪族達から露骨な不評の的になっていました」
 質の良い濃紺の長衣姿のマキスが、左側から答える。
 午後の陽が進む中、二人は中庭を横切り、揃って城の南棟に入る。角を右に曲がり、内部にある石造りの大階段を登り始める。
「批判の言葉をそのままに用いれば、あの王子はかなり独善的で、傲慢で、しかも相当に気分屋の質の様子です。妙に貪欲だったり、逆に大仰なほどに寛容を見せつけたりと……。ご存知なかったのですか?」
「知らなかった。私はほとんど王城に出仕していなかったから」
「ですからサナタイ王子は今回の王位継承に当たって、必死にナロドニア殿に泣きつき支援を求めてきた訳です」
「で、父上はサナタイ王子を強く推し、皆を説得した訳か」
「はい。“長子がその父を継ぐのは正道”と言われて」
「父上らしいな。いつでも必ず理を通す。何より正論を尊ぶあの人らしい」
「確かにその通りです。でも理由はそれだけだと思いますか?」
「え?」
 上階にたどり着くまであと数段という所で、イルシオの足は止まった。
 マキスの知的な印象の顔がこちらを見ている。いかにも意味有り気に。
「どうやら今回の即位にあたり、殿はナロドニア家にとって素晴らしく有利な条件を新王から引き出したようですよ」
「条件って何だ?」
「それは私も知りません」
 嘘だ。知っている。ナロドニア家に関わる重要事項をマキスが知らないはずはない。まだ自分には隠していたいという事か。
「でもイルシオ、ナロドニア家がサナタイ王から何かしらの恩恵を受けるのは当然でしょう?」
「言い切るんだな」
「だってそうでは有りませんか。
 ナロドニア家は、王国の為に王軍を率いた貴方の兄上・ムリオ様を、戦場で失わさせられてしまいました。さらにその後任をいきなり、まだ年若く経験の浅い貴方に任させられました。もし貴方まで戦場で落命という事になったら、ナロドニア家はどうなってしまっていた事か。
 それでもティタン殿は、新王の要請に従いました。その上でようやく戦役に勝利し、と同時に王権も安定させられた訳ですから。新王はもはや、ナロドニア家への恩を忘れられる立場にはありませんよ」
「……。そうか」
「本当に、ナロドニア家にとっても危機と不穏に覆われた数か月間でした。しかしようやく暗雲は消えた。殿も安堵をされている事でしょう。ルムにおいて王家に次ぐ名家であるナロドニア家は、今後も一層の権威と名声――
 イルシオ。続きは後で。ほら、また督促されてしまう」
 またも現れた王城の従者をちらりと見ながら、マキスは言った。
「さあ。このまま広間に入りましょう。いいですね」
 マキスとイルシオは最後の数段を駆け上がる。突き当りにある扉を目指す。城内で最も大きな広間へと連なるその扉は、待ち構えていた従者の手によって今、勢いよく引き開けられた。

 眩しく目を貫く真昼の光の中、一斉にこちらを振り向いた無数の目。
 と同時。歓声が響き渡った。
「ナロドニア家のイルシオ!」
 高い天井を持つ大広間は今、着飾った人々によって埋め尽くされていた。その全員が、心よりの拍手と歓声をもってイルシオを迎え入れた。
「ナロドニア家の栄光、イルシオ!」
「ルムの勝利者、イルシオ!」
 華やかな賞賛の中をイルシオは、眩しそうに緊張した目で歩んでゆく。
 その姿は、見る者の目に如何にも清々しく、初々しかった。若い勝利者に相応しかった。その場の全員の賛美に浴し、どこかに自負を誇りながら、澄んだ青色の晴れ着を纏ったイルシオは部屋の奥へと歩んでいった。
 そのタイル敷きの床を、ちょうど半ばまで進んだ時だ。
「イルシオ」
 イルシオの鼓動が高まる。前方の左手から、自分が最も尊敬する顔が真っ直ぐに自分を見ていた。それこそは、ルムの豪族達の中でも最も権威を持つ者。そしていまや、新ルム王に対して最大の影響力を持つ者。
「ただいま戻りました。父上」
 ナロドニア家の家長ティタン・ナロドニアは、常の通りの峻厳な表情で息子を待ち構えていたのであった。
「よく、帰って来たな」
「はい。無事に戻りました」
「そうだな」
「父上に約束をした通り、勝利を収めました」
「そうだな。こうなる事を信じていた。お前は我家の誇りだ。賞賛を受け取るに値する。見事だ。――だが……」
 銀色の髭を蓄えた口許が、言葉を止めた。
 解っている。父親の言いたい事ならば。――失われた兄の事だ。
 戦死という悲報がもたらされた時、誇り高い父が人目も憚らずに慟哭をした。怒り、苦しみ、号泣をし続けたのだ。その鮮烈な姿はイルシオの脳裏に強く焼き付けられていた。
「急いでください。さあ、そのまま奥へ」
 飛び出してきた儀典官が、早口で耳打ちをする。その指差した先である部屋の最奥は、一段分高くなっていた。そこには今、ルム王国の支配者の場・王座が麗然と置かれ――
(王座? そんな物がこの王城にあったか?)
 記憶違いでは無いはずだ。かつて数回訪れた時、先代のルム王はいつも臣下の豪族達と同じ卓を囲んで座っていた。ではつまり、新王がこんな物を作らせたのか?
(で、王は?)
とイルシオが侍従に尋ねようとした時だ。
 唐突に、甲高い金属音が響いた。
 大仰なラッパの音に、列席者達もまたざわめく。全ての目が大広間の奥にある扉に注目する。なにが始まるんだ? こんな事は初めてだ。
 ふと、イルシオは思い出した。
(そういえば新王とは王子の頃から、一度も言葉を交わしたことが無かったな。何かの行事の時に姿を見かけただけだ。確か、あまり人好きのしない、どちらかというと冷質で神経質な顔立ちの――)
 その顔が、目の前にあった。
 ……
 ルムの新王・サナタイ。
 現れた王を見た瞬間イルシオが真っ先に覚えたのは、『子供っぽいな』という事だった。確か自分と同い年のはずだが、相手はその年齢より遥かに若く見えた。
 なぜだろう?
 何とも派手な真紅のローブを纏っているというのに。堂々と王座に腰掛けているというのに、なぜだろう? あの視線のせいか? やけに用心深くて、我ながら言葉が悪いと思うが『地を這う物』の様に陰湿な視線のせいか?
 そのルム王の眼が、まずは室内を一瞥した。宗主の余裕を示すべく大きく微笑み、それから発した。
「諸候よ。我がルムの戦勝の祝賀の為によくぞ登城してくれた。我が軍を指揮した勇猛な総大将も現れたようだな。
 ナロドニア家のイルシオ。壇上に登ることを許可する。ここに控えるがいい」
(“控えるがいい”!)
 何て時代がかった言い回しだ。しかも大仰な礼を取らせるものだ。
 そう思いながらも彼は進み出ていく。言われた通りにその御前へと進み出て膝を落とす。
「よくやった。今回の対アルグート国戦役に、見事な勝利を収めてくれた。私と私の軍勢にとって大いなる名誉だ。讃えるぞ」
「――。いいえ。勿体無い御言葉です。私が行ったのはただ王軍の意見を一つに纏めた事のみです。
 今回の勝利は、王軍が誇る有能な諸卿に力量があった故です。私の様な若輩者が急遽総大将に任ぜられるという事態においても、彼らが纏りを欠くことなく一丸となって力量を発揮してくれたからこその勝利です」
「良い謙虚さだ。今後も私と私の王国の為に尽力をしてくれ。
 では武功に相応しい報奨を賜ろう。私のメダルを」
 サナタイは自分の胸元にかけていた緑石のメダルを外す。自ら進み出ると、たっぷりと間をもたせ、身をかがめているイルシオの首へとそれはかけたのであった。
(なんて芝居がかっているんだ。言葉も動作も!)
 礼を取りながらもイルシオがそう思った瞬間だ。
「新王よ、万歳!」
「サナタイ王よ、万歳!」
 今度こそ、イルシオは驚いた。
“イルシオ”でも“ナロドニア家”でもないのだ、賞賛の声は。
“サナタイ王”だったのだ。
 立ち上がり周囲を振り向く。列席者達もまた、いささか虚を突かれている。歓声は全て王の側近達と王城の衛兵達によるものだった。
 それらの声すら上回るようにサナタイは大きく笑んだ。
「さあ、私の勝利を祝ってくれっ。ルムの栄光だ。私の勝利だっ」
 本来の主役は完全に二の次に回されてしまった。
 斜め後方では、ティタン・ナロドニアの厳格な顔立ちもまた、驚きと不興に歪んでいた。彼は厳しく口許を引き締めると、前方の王を見据えたまま、堂々と進み出ていった。
「サナタイ王。我が息子への余りある賞賛の御言葉に感謝を致します」
 皮肉交じりの語だったことにはサナタイ王も気づいたはずだが、だが王はまだ笑っている。これを上回る悠然の笑みでナロドニアは続ける。
「王国の――、いいえ、貴方様の勝利を祝う目出度い場となりそうです。この時間に、ほんの少しだけで結構ですので御耳を傾けて頂けますでしょうか?
 ――ヴィア。ここに来なさい」
 途端、広間の窓際に立っていたヴィアがびっくりして表情を変えた。
「きちんと手袋をはめなさい」
 慌てて手袋をはめて父親の許に進み出た。ナロドニアは娘の手を取ると、穏やかに告げた。
「サナタイ王。紹介をさせて頂きます。当家の一人娘でヴィアといいます。当年十五歳になります。どうぞお見知り置きを」
(あ、分かった。そういう事か)
 素早くイルシオは理解した。
「ヴィア。何をしている。無礼だぞ。新ルム王陛下にご挨拶をしないか」
「ナロドニア。そんなに厳しい声を出すな。場馴れしてない姿もまた初々しいものだ。
 なるほど。日頃からお前が自慢するだけの事はあるな。愛らしい令嬢だ」
「その様に仰って頂けるとは恐悦です。
 ところで、王。その御寛容に甘えまして、一つお願いを申し出てもよろしいでしょうか」
「なんだ」
「この後の戦勝祝賀の宴席で、是非ヴィアに貴方様の隣の席を賜れないでしょうか」
(そういう事なんだ)
 緊張した顔で王に挨拶をする妹を見ながら、イルシオは充分に理解した。
 つまり、『ナロドニア家のサナタイ王擁立支持への報酬』だ。目の前でぎこちなく微笑む少女は、近い未来にルム王妃に擁されるという訳だ。さすがにあの父上らしい、賢明な交換条件じゃないか。
 ――と、ここまでを思ったのと同時。イルシオの体の中に冷たい、嫌な感触が走った。
(なぜだ?)
 一族にとって最大級の名誉だ。自分の将来も大きく開けるだろう。なにより、あの空色の衣装を可愛らしくまとった妹が王妃の座に就くのだ、素晴らしい栄誉じゃないか。
それでもだ。
(……なぜだ? どこか、不吉な予感?)
 サナタイ王は文字通り、大上段からの笑顔でヴィアを見ている。ナロドニアはそれを確認した上で、さらに厳格な口調で付け加えた。
「王。もし許されるのであればもう一つ、私には願い出たく思っている事が有ります」
 サナタイは露骨に嫌味を込めて笑った。
「願いは幾つだ、ナロドニア。二つか? 三つか? 百にもなるのか?」
「御冗談はお止め下さいませ。ただもう一つだけ、どうしてもお聞き入れ頂きたく上げます。今まで私が王へ捧げた忠功をお認め頂けるのであるのならば是非、御耳を傾け下さい」
「だから何だ。分かっているさ。お前が私にとって最高の忠勤者であるとはな。さあ言ってみろ、何が望みだ」
「有難うございます」
 珍しい。父上が強張っている、とイルシオが読み取った直後だ。
 突然ナロドニアは息子の腕を掴んだ。強い勢い王の前に突き出した。
「これは――この息子は幸運の女神に愛されていました! 補佐をする諸卿とルム兵士達の奮闘により、非力ながらも勝利に浴し、栄誉と共に帰還する事が出来ました。
ですが、これの兄は、我が長子は女神に愛されていなかった」
「だから何だ。ナロドニア」
「敵軍の卑怯な待伏せにあって落命しました。
 正当な戦闘での落命ならば、納得もしましょう。しかし我が長子は、野営へと戻る夜道において待伏せを受け、有無も無く蛮族の剣で身体を貫かれました。その非道な遣り口こそは、天上の神々の眼にかけて赦されるべきものでは無い。死者の魂も安楽に常世に昇るとは到底に思えません」
「それで?」
「王は既に、アルグート国の捕虜と接見をされましたでしょうか?
私は、願い上げます。是非、私とこの場で対面させて頂きたい。アルグートの女王と、女王の子供達に」
 サナタイの眼が露骨な興味を示す。その目の前でナロドニアは宣したのだ。
「私は、愛する嫡子を失った。故に、女王にも同じ運命を辿って欲しいと願います」
 室内が、しんと静まる。
 たった今までの華やかな空気が一変した。場は、不穏に覆われだした。列席者の誰もが予知をした。つまり、
“ナロドニアは死んだ嫡子の為に『血の供儀』を執り行う気だ”
 つまり、
“アルグートの女王の子供を、その面前で殺すつもりだ”
 真昼の陽射しの広間が、静まり返る。その中、さっそく新王サナタイが衛兵に命じ、送り出した。そのまま猫じみた笑みを浮かべて、段の下に集まっているナロドニア家の面々を見捕える。すなわち、
 困惑顔となって父親を見る今日の主役たるイルシオ。
 その視線を完全に無視し異様なまでに峻厳な態で立つ家長ティタン。
 気の毒なのはヴィアだ。可哀想に狼狽し切って「何とかして」と横に立つ家令のマキスに頼んでいるが、勿論家令には当主の言に意見する権限は無い。ただ固い顔で展開を見据えることしか出来ない。
 窓の外では、午後の穏やかな陽射しがすでに傾き出してゆく。
 空気が少しずつ冷えてゆく。
 ……カタカタという武具の鳴る金属音が、扉の外から響き、衛兵達が戻ってきた。
大広間の扉は今、大きく開けられている。その向こうに下り階段が冷え冷えと口を開いているのが見えている。そこから数人の足音が聞こえてくる。
 本当に今から、血の供儀が行われるのだ。高貴な捕虜がその為にこの場に連行されてくるのだ。
 イルシオの眼、そして室内の眼が全て注視する。扉の向こうに今、現れる。

 ……結い上げた豊かな髪が、印象的だった。
 大きく波打つ、赤みがかった黒髪。全身が漆黒の長衣。胸元を飾る複雑な装飾文様のメダルと、細い腰に巻かれた総刺繍の幅広帯。全てアルグート風の。女王・ターラは、広間に現れた。
 美女だ。
 誰もが思う。いいや。
 美女などという月並の言葉ではおよそ足りない。誰もがこれ程の美貌はかつて見たことが無いと言い切れる美女だ。先代のアルグート王が、臣下達の猛反対を押し切ってまで己の後妻に娶り、己の後継者に据えてしまったというのも納得しえる、圧倒的な美女だ。
 既に事情を聞かされたのだろう。女王は強張った蒼白の表情のまま進み出て来る。
 その後ろには、気持ち悪いほど同じ姿の少年――双子の王子が続いている。
 更にその後ろには、なぜか例の美しい黒い肌の男・エアリアがいる。なぜか丸々と太った乳飲み子を腕に抱いて。
 五人から成る捕囚達の一行は、静まり返った堂内を進んで来たのであった。
「初めまして。美しいアルグートの女王」
 まずはサナタイ王が、面白がる笑顔で声を発した。
「この場に呼ばれた理由については、すでに聞き及んでいるようですね」
 かすかに震えを帯びた声が応えた。
「……。すでに聞いています」
「声も美しい。正に女王たるに相応しい方だ。
 ターラ女王。ここにいる我が忠臣、ルムの誇りである豪族・ナロドニアは、非業の死を遂げた嫡子の魂の為に、貴女に対して血の供儀を執る権利があると主張しているのだが。
如何思われるかな? 貴女の言い分は?」
 呼吸七回分の沈黙が場を支配し、固く強張った女王の美貌が衆目に晒され続け――、
 そして突然、ターラの身が崩れた。冷たい床に両腕を突いた。
「ルム王の御慈悲におすがりします! お願い申し上げます! 私の息子達はまだ年若く、この戦にも参じていません。なぜそのような子供が責任を負わねばならないのでしょうか? どうぞお許し下さいっ」
「なるほど」
「加えて、私は貴方に降伏をしました。服従を取りました。
 ――ナロドニア家のイルシオっ、貴方が一番よく知っているでしょう? 私の軍勢にはまだ応戦する余力はあったものを、敢えて降伏をしました。互いにもっと血を流し合う道を避けて私は敗北を選んだのです。敢えて流血を止めたのです、だからお願いです、貴方が止めてっ、ナロドニアを説得して……!
 ルムの慈悲深きサナタイ王、貴方のお力でお願い申し上げます、どうぞ息子達の命を奪うのだけは――」
「なるほどね。確かに女王の言い分には理が有る。
 ナロドニア。どうだ? これを聞いて考えを変える気はあるか?」
 しかし。
「――」
 ナロドニアは全くの無言であった。女王を貫き見る峻烈な、拒絶の眼。それが回答だ。
 途端、ターラは引きつったように叫んだ。
「ルムのナロドニアっ、身代金を支払います! だから子供の命を奪わないでっ。なぜ黙っているの? 身代金なら……っ、慈悲を――、何か言って!」
「――。我が息子もおそらく最期に同じように乞うたはずだ。最期の瞬間に慈悲を。だが貴方の兵の剣で全身を貫かれた」
「そんな事を今、言わないで! 止めて――貴方の慈悲を――待って……。お願い、何か慈悲の言葉を言って……!」
「女王。これ以上私に喋る事は無い」
 妥協も慈悲も無いと、ナロドニアは断言した。
 ターラは必死でサナタイをすがり見るが、
「女王。ナロドニアの意志は硬い様子だ。彼の一族は、代々にわたり我がルム王家を支えて来た権門だ。さらに今回の戦役でも勲功を果たした。私もその要望を無碍に下げることは出来ない」
「そんな! ルム王陛下っ」
「貴女は確か、三人の子息をお持ちでしたね」
 ここで全員の注視は、二人並んだ瓜二つの十四~五歳位の少年達、そして黒い肌の男の腕の中で眠る赤子に移った。
 双子の王子たちは今、初めて自分達の命運を知ったらしい。二つの顔が全く同じ表情、愕然の恐怖に捕らえられた。真っ黒の目がぎりぎりまで剥かれていた。
「ナロドニア。貴様は息子の魂の為に、どの王子の血の供儀を望むのだ?」
「はい。私は、家門を継承すべき最も大切である嫡子を失いました。同様に、アルグートの女王の長子の命を望みます」
「俺は嫌だ!」
 双子の一人が絶叫する。犬のように歯を剥き出し、素早く右手を振り上げ片割れの兄弟を指差した。
「俺達は双子だ! 長子も次子もあるか、一緒だっ。なんで俺だけが殺されるんだよっ、ディルには何も無いのか!」
「止めろよ、見苦しいぞ、ラバスト」
 双子の弟が口を引き上げた。
「お前が嫡子なんだよ。だから今まで俺よりいい思いをして来たんだろう? こんな時だけ逃げるなよ」
「黙れっ、たまたま俺の方が先に母親の腹から出ただけじゃないかっ。お前の方が腹の奥にいたんだ、だから先に種付けられたのはお前じゃないかっ」
「馬鹿な屁理屈を言うな」
「黙れ! 違う! 俺は嫌だ、お前が殺されろ! そうだ、俺が貴様を殺してやるぞっ、俺の代わりの供儀として死ね、今すぐこの場でだ!」
信じ難い最悪の台詞と同時、双子が同時に本気で殺意を剥き出す。本気なのか? と誰もが驚いた時だ。
「――まあ、王子達。御二方とも」
 穏やかな声が広場に響いた。
 それと同時に、空気が変じたのが分かった。――不思議だ。本当に場の空気が変わったのだ。
 エアリアだった。女王の一族のみが呼ばれたはずを、どうしてこの男も同行しているのかという疑問については、気づくと誰もが忘れてしまっていた。とにかくこの男が動いただけで、室内の空気は変わってしまったのだ。
 すやすや眠る赤子を胸に抱いたまま、エアリアは数歩を歩み出す。まずは伏したままの女王の手を取り、優雅に床から立ち上がらせた。続き、あらためてルム王に、さらにナロドニアに礼を示し、それからゆっくりと、ゆっくりと喋り始めた。
「初めてお目通りが叶いますことに感謝をいたします。ルムの国王陛下。そして高名なナロドニア殿。私はアルグート国において女王の相談役を務めるエアリアと申します。
 まずは、過日の戦闘にてアルグート国の降伏を受諾して下さった事に心よりの感謝を致します。捕虜である私どもの女王陛下や王子殿下達の御身柄を、この様に丁重に扱って頂ける事も同様に。
 しかしながら、これ程に御寛容な御両名様におきまして、血の供儀による処刑をお望みになられるとは、畏れながら余りにも過酷な御要求なのではとは思われますが……」
「これを過酷と呼ぶのか?」
 ナロドニアが峻厳な眼で相手を睨んだ。エアリアは慎ましやかにもう一度敬意を表する。
「ナロドニア殿の崇高な御矜持ならば、深く納得をしております。しかしながら、ルム王陛下。これはあまりにも悲劇的な状況です。まさか母親たられる御方に、己の子のどなたか御一人を血の供儀の為にお選び頂くなどと……」
と言いながら、エアリアの視線はゆっくりと動く。そして。
 視線は、イルシオと合った。
 ふっと、その時初めてイルシオは気づいた。
 変だ。だって、この男。だって、
(どうして一人の捕囚が、この場を仕切っているんだ?)
 いつの間にかそれを皆が、自然の如く認めているなんて。いや。それに、
 この眼だ。さっきからそうだ。現状を無視し、いとも簡単に優位に立つこの眼ときたら、一体何なんだ?
「今回の戦役の功労者であるイルシオ殿。貴方様にこの場での決定を下して頂くのが、一番妥当でしょう」
 この穏やかに落ち着き払った言いぶりといい、一体この男、何者なのだ?
 いや。違う、――今、
「え?」
 今、何て言った?
「高潔であられた兄上の鎮魂の為、貴方様が選んだ王子をナロドニア殿に差し出すことにしましょう。どうぞ御決断下さい」
 何て言った!
 露骨に当惑したイルシオに、一斉の視線が集まる。皆が注目する。サナタイも。ターラも。勿論父親も。
「待ってください――、いえ」
 なんでこんな忌まわしい裁定を自分が!
「いえ……いいえ、やはりこの様な形での犠牲は、許されるべきではないと思います」
「イルシオ。黙れ」
「父上、お願いします。アルグートの王子の血を欲するのならば、公での裁きにおいて求めるべきです。この様な前例を作ってしまえば、今後も戦の度に私的な怨讐――」
「見苦しいぞ。己の小心を衆前で晒すな。それでもナロドニア家の血か。悶死した兄を忘れたのか。命ずる。選べ」
「しかし――」
「命じたと言った、選べ」
「……」
「選べ!」
 ターラ女王が歯をかたかた鳴らし、壮絶な眼で自分を見ている。横に立つ双子はどちらも興奮を剥き出して睨んでくる。エアリアだけが不思議な優美の表情で自分を見ている。
 勿論、父親こそが自分を真っ向から見ている。
 父の要求が理解出来ない訳では無い。確かに自分達は権威と尊厳を誇る豪族ナロドニア家で、一族の非業の死をそのままにしておくのは躊躇を覚える。確かに理解できないものではないと思える。
 でも、やっと平和が訪れたというのに、まだ血を流させるべきなのか? おぞましい遺恨まで残して?
(どうすれば良い……)
 それでも強いて父上に反論すべきなのか? 父上が聞くはず無いと分かっていても?
(どうすれば……? 最良の道はどれだ……?)
 双子が生存の欲求を剥き出し、獣の様に自分を見ている。
 父も、王も、女王も、列席者達も、誰もが自分を見ている。自分に訴えてくる。自分を何も見ていないのは誰だ――?
「ならば……、ならば……そちらの、赤子の王子を」
 途端、双子の兄ラバストが叫んだ。
「よしっ、決まった! もう誰も覆すなよっ」
「そうだ、最初からそうすれば良かったんだっ、あのガキが一番合ってるぜ」
 この身勝手極まった双子!
 イルシオは思わず睨み付ける。だが、眼はすぐに右へ流れた。再び床に崩れついに号泣し出した女王の方がよほど目を離せなかった。
「駄目っ、止めて!」
 彼女と、そして未だにスヤスヤ眠り続けている赤子を交互に見ながら、イルシオは口ごもりながら告げねばならなかった。
「……幼い王子は、よくお眠りのようです。今のままならば、何の恐怖も苦痛も無く、そのまま天上の神の御許へ……。ですから……」
「駄目! 何の罪も……罪の一片もないのよっ、この子こそが一番無垢で――。この子は唯一の先代アルグート王の血を受け継ぐ子で……なのに生まれる前に父親を亡くして顔を知らないで、そんな不幸な子になぜ一層過酷な目を……」
「……。お気の毒です。女王陛下」
「お願い、お願いだから止めて……」
 高い天井に、美しい女王の嗚咽の声だけが響いていた。泣き伏し、顔を上げる力も失ってしまっている。
 その女王に対して、サナタイは王座から立ち上がり微笑みながら声をかけたのだ。
「いかに定めとはいえ、お気の毒に。ターラ女王」
 午後の明るい光が差し込む室内を、サナタイが女王に近づいてゆく。
「貴女にこれ以上の哀しみを与えることには、地獄の鬼も二の足を踏むことでしょう。貴方ほど美しく高貴な方にこれ程の涙を流させてしまうとは、私としても大いに不本意で胸が痛みます」
 王の豪奢な長衣の裾が動く。サナタイは自ら身を屈め、相手の崩れ落ちた半身に手をかけて起こして――、
 女王を抱きしめたのだ。
 何ということだ。室内の誰もが息を飲んだ。
 ターラの青ざめた、ゆえにゾクリとするほどに際立った美貌の中で微かに唇が動いた。かすれたような小声が漏れた。
「もう……私が頼れるのは、貴方様だけです……。ルム王陛下」
「そうなさりなさい。私もまた貴方を救いたい。
 貴女の辛い運命は、これで終わりとしましょう。貴女の言う通りだ。貴女が私の降伏勧告を受け入れてくれた御蔭で今、こうして皆が平和の時を得る事が出来たのだ。貴女方は皆、私の客人だ。このファウロの街でゆったりと日々を過ごされるのが良い」
「それはつまり……お優しい陛下、私どもへの処罰は無いということでしょうか?」
「勿論です」
 途端、静寂が破られた。
「どういう事でしょう!」
 ナロドニアが語調を荒げて発する。
「どういう事でしょう、サナタイ王っ。長いルムの歴史において、敗戦の捕虜が何らの論拠もなく全ての咎を許されたなど聞いたことが有りません」
「口を慎め。ナロドニア」
「いいえ、黙りません。しかも捕虜が客人待遇とはどういう事ですか? そのような独断にはルムの豪族一同、納得出来かねます。いえ、仮に他の全ての豪族面々が納得しようとも、私は到底納得しえません!
 王、血の供儀を執行して下さい。ナロドニア家はこの戦いで嫡子を失いました。下手をすれば後継のイルシオすらも失いかねない事態であったものを、我がナロドニア家はルム王家への忠勤を貫きその勝利に貢献してきたものを。さらにそれ以前の――」
「“ナロドニア家、ナロドニア家”。お前の頭の中はいつも自分の家の事だけで精一杯だ、ナロドニア」
「その様な事を今、私――」
「だから血の供儀などを持ち出すんだ、貴様は。
 つまるところ貴様は、自家の誇りの為ならば無垢の赤子に死を強要し、その高貴な母親を張り裂ける程に悲しませることなど意に介さないのだろう? 何をおいても“ナロドニア家”という事なのだろう? ならば同様に、この私や私の王国を差し置いても“ナロドニア家”か?」
「いえっ、父は――! サナタイ王陛下、父が奏上した言葉は決してその様な意図――」
「貴様は黙っていろっ、イルシオ」
「父上、しかし――」
「王。まさかお忘れではないかと思います。貴方様がルムの王位に就くにあたっては、豪族面々より多数の反対意見がありました。それでも貴方様をして玉座に登るべく豪族達に支持を訴えたのは、この私です」
「ナロドニア。うるさいぞ」
「まさかお忘れになったとは仰りますまい。そう信じております、サナタイ王。貴方様を後援したのがこの私であると、まさかお忘れではあるまい!」
「うるさいと言ったぞ。それに」
 たっぷりの軽蔑を含み持たせながら、サナタイは言い切った。
「何の事を言っているんだ? 私には何も解らない。ナロドニア」
 この瞬間、その場に集った列席者の誰もが確信するところになった。
“新王は、ナロドニア家を排斥する気だ”
 誰もがこれから起こる暗雲を、そして波乱を予感したのだ。
“ルム最大の、最高の権威のナロドニア家を徹底して排除する気なのだ、この強気の新王は”
 広間の真ん中、ティタン・ナロドニアの全身が硬直してしまっている。
 その姿すら王は見捨てる。もう見る事も無い。サナタイ王は涙を残す女王の手を取って立ち上がらせ、柔らかに告げる。
「さあ。西の中庭に祝勝の宴席を設けています。貴女には是非とも出席して欲しい。ルムとアルグートに平和の時が来たことを、共に祝いましょう」
「……王。私の話はまだ終わっていない。お聞き頂きたい」
「まだ言い足りないのか。貴様の高慢には神も不興を覚えられると自覚が無いのか?
 それを直し、私と神とに非礼を詫びるまでは貴様と話す気は無い。もちろん赤子の王子に手出しなどさせない。
 さあ、女王。貴女の愛らしい王子ならば、何も心配も要らない。血の供儀などは執行されない。安心して全てを私に任せなさい。さあ。早く宴席へいきましょう。貴女には是非、私の隣の席に掛けて欲しい」
「待って下さい、……貴方の隣の席もは私の娘を座らせるとつい先程貴方は仰ったはずだ」
「そうだったな。ならばお前の娘には、ターラ女王の隣の席をやろう。それで満足だろう?
 皆も中庭に移るがいい。アルグートの貴紳達も呼べ。さあ、平和の到来を皆で祝うぞっ」
「サナタイ王っ」
 ルム新王はもはや女王の手を取り、歩を進め出してしまった。
(おかしい!)
 真横でしっかりと見ていたイルシオもまた、この顛末に異常を感じる。
 なぜこうなるのか全く分からない。ここまで自分の一族が蔑ろにされる訳が全く理解出来ない。
(いくら何でもこれはおかしい、おかしずぎる!)
 イルシオは前に飛び出し、退出してゆこうとするサナタイ王の後ろ背を追いかけた。思わずサナタイの肩を、女王の黒の衣装と並んだ王の緋色のローブを掴もうと、真っ直ぐに腕を伸ばす。
 だが。腕は遮られた。
 黒い美しい手が、自分の肩に触れていた。思わず振り向いたイルシオの視界には、エアリアの柔らかく穏やかな笑顔があった。
「お止めなさいませ。今は」
 ……。今は?
「今は、って?」
 簡潔な、しかし意味深長な言葉であった。エアリアはそれ以上は語らず、ただ静かに微笑んでいた。

・          ・         ・ 

 一日はまだ終わらない。
 とっくに陽は没し、代わりに月が舞い上がっていたが、それでもまだ一日は終わっていない。遅々と、ゆっくりと夜が更けてゆく。
 ……
 ファウロの王城では今ようやく、ルム王主催の祝勝の宴が終わったところであった。眩い篝火と酒の香りと大騒ぎの嬌声の全てが消え、途端、打って変わった静寂が王城の全体を覆っていた。誰も眠りにつく深夜の頃合いであった。
 王城の上階。その一室では。――
 一人は、木製の卓に突っ伏し、死んだように動かなくなっていた。
 もう一人は、長椅子にだらりと身を預けたまま、まだ酒の杯を握っていた。
 そしてエアリアは、この双子を微笑みの眼で見つめていた。
 開け放した窓からは、夜風が緩く流れている。薄暗い室内にたった一つだけの蝋燭の灯がゆらゆらと揺らめき続けている。エアリアの端正な顔を光と影に彩っている。
 ふとエアリアの手が、蝋燭を僅かだけ引き寄せた。それから囁くように柔らかに告げた。
「お二人とも、そろそろ寝台に入られた方がよろしいのでは?」
 と。長椅子の上からはね起きる。双子の弟・ディルが大声で笑い出した。
「寝台! 寝台だぜ、羽根布団か? 毛織物か? 真っ当な寝台がある訳か。俺達は捕虜じゃなく王城の客人という訳かっ。運命の女神が!」
「女神もおそらくこの時間には、天上で眠っていらっしゃるでしょう」
「違うぜ! 女神はあの女さ。俺達を産んだあの腹、麗しのターラだ。あの色香には俺の有り金を全部やるぜ――いやっ、俺の命も差し出すぜ、俺を産んだあの体になっ。ターラはどこだよ、エアリア!」
「女王は今、ルム王の私室におられます」
 途端ディルは更に甲高く笑い出す。その声に死んだ様に動かなかった兄・ラバストが呻き声を上げながら半身を起こしかけて、また止まった。
「おい、エアリア、いいのかよっ。愛人を寝取られたぜ。いいのかよ。おい、すかすなよ、この薄汚い情人野郎、黒い悪魔がっ」
「ディル王子。私は女王の相談役ですよ。恋人などとは滅相も有りません」
 揺れる光の中で、エアリアの笑みもまたゆらめいている。大声で下卑た喚きを続けている双子は勿論、知らない。その夜、月が出る直前にこの男と母親との間にどんな会話が交わされたのかについては、誰も知る由が無い。
(これでいいのね、エアリア。あの馬鹿なガキの王はすぐに私のものになるわ。でも最初からこんなに簡単に事が進むなんて運命の女神ときたら!
 あの阿呆な王のせい? ナドロニアの下らない執念も幸いしたわね。血の供儀を持ち出すなんて本当に悪魔に魅入られた馬鹿だこと!
 ……愛しているわ、エアリア。なんて頭が良いの。美しいの。エアリア、愛している、夜の様に冷ややかで美しい……お願いだから私から離れて行かないで。大丈夫、あのガキの王は今夜の内に私から離れられなくなるから。全て貴方の策通りに行くわ――。
 貴方から離れない。だから貴方も私から決して離れないで、お願い。エアリア、抱いて)
 すっとエアリアは立ち上がった。
 冷えた夜風を受けながら窓脇を通り越し、木卓の横まで達した。小声で語りかけた。
「ラバスト王子。起きて下さい」
「無理だぜ! 奴はしこたま飲んでたぜ、ルムの女はどれもアルグートとは比べ物にならない美人揃いだって喚きながら! もっとも貴様には俺達の母親以外はどれもただの豚か?」
「ですから、私はただの相談役ですよ。
 ラバスト王子。さあ起きて下さい。そうすれば、貴方に御褒美を差し上げられます。貴方が大好きなものを」
 丸切り、獲物の臭いを嗅ぎ付けた犬のようだ。ぐったりと寝ていたラバストが急に、冷ややかに身を起こして相手を見る。
「褒美って何の事だよ」
 エアリアが振り向く。静かに言った。
「ご興味が有りますか?」
「だから、何だよ」
「そういえば、今宵の宴会の続きとして、明日は大々的な狩りを催すとルム王陛下が仰っていましたね。
 見て下さい。美しい月が出ています。明日も上々の天気になりますよ」
「――。何なんだよ、言えよ、エアリア」
 ディルの酔っぱらった口許が、大きく引き上がった。
 と同時、ラバストもまた敏感に何かを感じ取った。双子は揃って犬の様に笑んだ。
 冷えた月の舞う夜更けだった。
 すでに王城内に物音は無かった。
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