第4話

文字数 14,953文字

5・『 もうどうにでもなれ 』

 低く月が出ていた。
 日没直前の空は幻想のような色彩だった。朱と藍と金が混ざり合い、絡み合い、そして地平線の近くには低い月が出ていた。
 ……
 ルムの王都ファウロでも、夕刻の賑わいは消えていた。
 人々はすでに、それぞれの家へと戻っていった。つい先程まで人々でごった返していた王城前の広場も、そこから始まる大路も、商家の並びも、裏手に回った豪族達の邸宅も、今は薄闇の中に静まっていた。夜の訪れを待っていた。
 それは街の西の城門辺りでも同様だ。
 もうすぐ陽は、西の丘陵に落ちる。それと同時に、街を取り囲む市壁の五つの城門も閉じられる。五つの中で最も小さなこの西の門でも、老いた門番がようやく今、のろのろと番小屋から出て来たところだった。
 老人は、面倒臭そうな目で丘陵の日没を見据える。だれた息を一つ吐き出した後、堅固な鋲が打たれた木製の門扉を閉じていこうとする。
 その時だった。
「待ってくれ」
 城門の外から、一頭の馬が走り近づいて来た。
「今入るから、門を――待ってくれ」
 馬上の男は夕光を背にしながら、急いで門に走り寄った。すでに門扉に手をかけていた門番の脇を、素早く駆け抜けてゆく。そのまま逃げるように市内の建物が作り出す影の路地を目指してゆくが、それでも一瞬だけ横を向いて礼をした男の顔は、低く差し込む夕光を受けてしまった。その輪郭線を鮮やかに浮き上がらせてしまった。
「あれは……」
 あっという間に、男の後ろ背が路地の陰へと消えていってしまった直後だ。
「今のあれは……、ちょっと、見た? 間違いないわ」
 ちょうど城門の向かいにある邸宅の上階だ。窓枠から半身を出していた女性は、いかにも胡散臭そうに言った。
「マキスよ。あれは。今のは。あの時から初めて見たわ。本当にまだいたのね。
ほら、お前も覚えているでしょう? 今のは、ナロドニア家の家令のマキスよ」
「ナロドニア家の……」
と呟いた夫人付きの侍女の顔が、不快を表して歪んだ。

 一年という時間が経っていた。
 イルシオが勝利と共に凱旋し、その僅か一日後にナロドニア家が崩壊してから、既に一年の時が流れていた。
 この一年間をもって、ルムにおいて王家に次ぐ一大権門の存在は文字通りに、人々から忘れさ られていた。残されたのは残酷な嘲笑と下卑たいい加減な噂話だけであった。
 曰く、
『父と娘が揃って片手を失った 父と娘が揃って正気を失った』
 確かに、家長のティタンも令嬢のヴィアもこの一年間、一度として人目に映る事は無かった。姿を隠してしまった。
 そしてルムの人々の誰もが例外なく、この家との関わりを避けた。それは商売上においても同様だった。よって、当家が手広く扱っていた交易業は、ほぼ全てにおいて壊滅となってしまった。
 邸内にいた郎党達も使用人達も、早々に離れていってしまった。今ではほんの数人の忠義者と外地より集めた余所者だけが目立たずに働いているらしい。もっともこれもいい加減な噂だけで、どこまでが真相かは判らないが。
 本当にナロドニア家は、人々から忘れ去られようとしていた。
「マキス。やっぱりまだ残っていたんだわ。並外れた忠誠心で知られた男だとは思っていたけれど。でも。――やっぱり馬鹿な男よね。お前も見た、今の? 痩せてみすぼらしくなってしまって」
 僅か一年前。この男を自家で雇えるのならば、北の丘陵地のブドウ畑全てを手放したって惜しくないものだ、その上でこの男を自分の寝台に招き入れられるのなら、と真剣に悩んでいたアブサ夫人が、平然と言いのける。
「嫌ねえ。あんな男の姿を見るなんて、何だか気味も悪いし、縁起も悪いし……。
 全く――まあ。確かにあの男自身も、まさか、自分が一人でナロドニア家を支える羽目になるだなんて夢にも思わなかったでしょうけれどね」
 その通りだった。今となってはマキスだけが、ナロドニア家を支えていた。
 そして、もう一人のナロドニア家の人間については――。
「嫌だわ。聖者の名にかけて嫌。ナロドニア家の事なんて何一つ思い出したくも無い。もう時代は変わったのに」
 その通り。
 時代は変わったのだ。噂するべき事ならば、他に幾らでもあったのだ。それは例えば、
 ……相変わらずファウロ王城に留まり、サナタイに殺生与奪を握られているターラ
 ……だというのに、相変わらずターラの魅力に骨抜きにされているサナタイ
 ……サナタイから多くの政務をも任され丸きり宰相座にでも就いたかの如くのエアリア
 ……ほとんどの昼夜を娼婦宿で過ごしているとかいう双子の王子
 ……かつての敵国アルグートは、なぜだかまた軍備を始めているとか否とか
 だから。あんな過去の事はもう、誰も噂にしなかった。
 一年の昔に追放令を下され、姿を消してしまったナロドニア家の嫡子・イルシオの事など、もう誰一人も口にしなかった。
「嫌ね。辛気臭いし、縁起が悪いわ。悪運にでも見舞われそう。厄払いに為に赤葡萄酒と塩を持ってきて。今すぐよ」
 アプサ夫人は早々に窓辺から身を引いた。ちょうど赤く歪んた陽が、丘陵の下へと没した時刻だった。

 その全く同じ時刻。
 ファウロの北の城門の辺りでもまた、陽がゆっくりと丘陵に没していく様が良く見えた。
 最後の荷馬車が今、北の城門から抜け出して行った。その背後では鋲打たれた門扉が、軋んだ音を立てて閉じられていった。
 ……
 世界は、金色から朱色へと変じていく。なだらかな丘陵の連なりの上に刻まれた一本の街道も、その上を遠ざかってゆく荷馬車も、朱色の残光に染まっている。
 朱色の世界は、少しずつ薄藍色に変わり出した。夕刻の風が強く吹き始めた。
 去ってゆく荷馬車の進みは遅い。風音の中に、轍の軋みとはためく幌布の音が混ざって聞こえて来る。辺りは徐々に薄暗がりに変じ出している。荷馬車は丘陵の風景の中に吸い込まれてゆく。
 それを見つめる眼があった。
 一つ。いや。二つ。
「近郊の農夫の荷馬車だな。おそらくカル村辺りの奴だろう」
「……」
「さあ門も閉まった。今日もまた何も無しだ。帰るぞ」
「……」
「早くしろよ。まだ何か起こるとでもいうのかよ。おい、帰るぞっ」
「……」
 それでも相手は動かない。丘陵の高い位置、小さな窪みと灌木の陰に身をうつ伏せたまま、取り付かれた様に遠方を見据えている。
「いい加減にしろっ」
 突然怒鳴るや、素早く相手の襟首を掴み頬を殴った。
「自分の立場を解っているのか、俺の命令に従えっ」
「――。解っている」
 赤くうっ血した頬。やっと相手は顔を上げた。
 ナロドニア家のイルシオだった。
 確かに、ナロドニア家のイルシオだった。顔付きも体格も印象も別人と化していたが、しかしイルシオだった。
 外貌は、劇的に変化していた。身体は、激しく痩せていた。顔の肉も削げ、ほお骨の高さばかりが浮き上がっていた。
 そして眼こそが、最も違った。
 ほんの一年前まで備えていた肯定や正義や信念や理想や、その様な純粋の光の全てを今、彼の眼は失ってしまっていた。ゆえに印象を大きく変えてしまっていた。一年の間に、彼は完全に変わってしまっていた。
 もっとも、それも当然だろう。一年前のあの日から大きく変わってしまったとしても。

 あの日。
 ずっと霧が流れていた気がする。
 霧の中を歩き続けていたような。
 マキスの忠義の果ての策略で、街を外れた館に押し込められかけた。何も考え無かった。ただ狂った様にそこから抜け出した。とにかく何もせずにいる事に耐えられなかった。何かをせずにはいられなかった。
 何を?
(キジを獲って来て、イルシオ!)
 声は何度となく意識の低い所で響き続ける。その都度にぞくりとした感触が背筋を走り、堪えきれずに震えを覚える。それが痛烈な復讐への欲求だと確認するまで数日間、霧の中を歩き続けた。
 歩いた。どこへ?
 ファウロに帰りたかった。痛烈に。
 ヴィアの側にいて、護ってやりたかった。何度も足がファウロへと向きかけ、それを猛烈な苦しみをもって堪えた。自分がファウロに戻ればより一層にヴィアが、父が、ナロドニア家が追い詰められるとだけは解っていたから。それに、
(私も、ナロドニア家の血族です。私の手首を落として下さい)
 ぞくりとした冷たい苛立ちが走る。肉体を捧げ、生涯を捧げてまでナロドニア家に忠節を見せるマキスに感謝と同量以上の嫌悪を覚える。
 なぜ? 
 なぜ嫌悪する? “叔父”のマキスには絶対の感謝こそ覚えるべきであるとは判る。その全霊をかけた忠誠心は理解出来るのに。なのにか? だからか?
 だから、今。どこに行けば良い?
 月が再び極限まで痩せるまでの間、イルシオは彷徨い続けた。そして次の満月を迎えた夕刻、彼は意を決した。足を北へと向けた。
 それからの一月余りをどう過ごしたか?
 よく覚えていない。覚えているのは身を縛る恐怖と、あとは湿った土の臭いだ。

「それとも何か御大層な用件でも隠しているってことか?」
「……。いや」
 無機質な声でイルシオは答える。眼はまだファウロの城門を見ている。
「糞が。陽が落ちるとたちどころに風が強くなって寒くなる。ぐずぐずするな、さっさと馬に乗れ。城門が閉じた以上もう用は無い。
 毎日毎日こんなところに這いつくばっているばかりだ。何が起きる訳でもないのに退屈でしょうがない」
「だったら私に構わず、好きな所に行けばいい」
 そう言った直後、全く慣れ切った態でその男は――ナシードは二度目、イルシオの顔を打った。
「解っているとさっき言ったな、貴様。ならば解ってるはずだ。命令を出すのは俺だ。貴様は完全に従え」
「……」
「俺は貴様など全く信用していない。今はただ、少しは何かしらの役に立ちそうだから生かしておいているだけだ。
 なにが“敵方の監視と情報収集”だ。王城の連中を上手く言いくるめやがって。こんな吹きさらしの丘で寝転がっているだけで何を監視しようとしているんだよ」
 ナシードという名前だった。
 イルシオより幾らか年上の、鋭利な目付きと機敏な反応を持つこの男は、捕囚の全てを服従させなければ満足しないようだった。殺気だった強圧感が、全身から目に見えるように表れていた。
「何を狙ってる? 何を考えているんだよ、貴様」
 鋭い威圧の顔は、あの時も同じことを言った。
 あの時もこの男は、アルグートのナシードは同じことを言った。

「何を考えているんだよ、ルムのイルシオ」
 切り付けてくる刃物のような目付きだ、と思ったのを覚えている。その目で見据えながらナシードは言った。
 満月より三日目。ルム王国の領を北に出てアルグートの領地に入った途端、アルグートの守備兵達が走り寄ってきた。あっという間に取り囲まれ、針のように先鋭な剣を喉元に突きつけられた。
「何が狙いだ? 何をしにここにやって来た? 勝軍の指揮官殿が御自ら」
 剣の手入れが見事だなと、こんな時なのにぼんやりと感じたことを不思議と覚えていた。
「なんだか薄汚くなったな。つい先日の勝ち誇っていた時から随分変わったじゃないか。何だ貴様、怯えているのか?」
 胸を圧迫する剣先。これが自分を貫けば、この現実から自分を葬ってくれるのか?
 そうなれ。そうなってしまえ。いや。
 駄目だ。死ねない。ヴィアに会いたい。
「――。今、アルグートの王城は、女王に代わって誰が統治をしているんだ?」
「黙れ、訊いているのは俺だ! 言え、こんな所を独りでうろついている目的は何だっ」
 死にたくない、嫌だ。ヴィアに会いたい。ヴィアの為に復讐をとげたい。
「ルム国王のサナタイを滅ぼしたい」
「……何だって?」
「サナタイに復讐したい。それだけだ」
 駄目なら葬れ。今、葬ってくれ。
「サナタイを、殺したい」
 乾いた、乾き切った声で言った。
 その続きは、――土の臭い。
 イルシオは湿った土の臭いのする牢に閉じ込められた。毎日男達がやってきては質問責めをし、ひたすらに喋らさせられた。拷問の恐怖もちらつかされたが、その必要すら無かった。イルシオは全ての質問に答えた。知り得る限りのルムの実情について全てを喋り尽くした。しかしイルシオの方は、何一つ教えてもらえなかった。
 土臭い薄暗い場所で、日々ばかりが過ぎた。イルシオの顔に疲労と焦燥と恐怖が刻まれていった。
「明日には処刑になるかもな。夜が明けてすぐだろうよ」
 悪趣味な脅しだと分かっている。イルシオは無言で、ただ耐える。自分が生きたいのか死にたいのか判らないというのに、それでも恐怖だけは感じ、恐怖に締め付けられる。ナシードや他の兵士達・獄吏達は、何度も何度も繰り返して苛む。
「貴様はアルグートがもっとも憎む仇だぜ。ルム王への復讐どころか、貴様はこの牢で終わりさ。さあ、くたばれ」
 ただの脅しだ。ただ脅して喜んでいるだけだ。
 そう自分の言い聞かせ、言い聞かせて、足許から這い上がって来る恐怖を押し殺して、言い聞かせて、信じて、思わず叫び出しそうになって、泣きだしそうになって、自棄となって、やはり生きたい、生きてヴィアに会いたいと願って、耐えて、泣いて、信じて……。そうして。
 イルシオは生き長らえた。
 四度にわたって月が満ち、欠けた後、遂にイルシオは牢から出された。そして初めて、ようやくアルグート側から教えられたのは、
――今、アルグートの王座は空位で、豪族達が合議で執政している事
――先の敗戦を屈辱とする豪族達が、ルムとの再度の交戦を訴え出している事
――豪族達は長らくずっとターラ女王(あの売女!)の在位に並ならぬ不満があった事 王国を混乱させ続けている女王には今も、憎悪がある事
等々……。
 悪魔よ。ならば。
「そうであるなら、私は貴方達と協力をする。貴方達のルム攻撃に、私は協力する」
 そう言った。表情なしに。
 売国者になった。
「私を好きにしろ。殺したければ殺せ。サナタイに思い知らせ、ヴィアの足元に土下座させた後であれば、いつ殺されても構わない」
 そう言った。泣きだしたく、同時に笑い出したかった。その後の感情については、全て失った気がした。もうどうにでもなれと。どうにでも、
 もうどうにでも。

 ふわりと、上体が上に持ち上げられる。
 はっとイルシオは現実に引き戻された。目の前では、それでなくてもきつい顔付きのナシードの顔が苛立ち、眉が引き上がっている。自分の襟元を締め上げられる腕には今、一層に力が込められた。
「望むなら一晩中その辺の泥だまりに沈めといてやるぜ」
「……。手を放せ。自分で立ち上がる」
「それとも、俺の言う事にはことごとく従いたく無いって訳か?」
 真顔で睨んでいる。これはまた殴られるなとイルシオはどこかで思う。
「陽は沈んだ。すぐに暗くなる。だから監視は出来ない。意味がない。風も出て来たし、このまま残っていても体を冷やすだけだ。糞が」
「――」
「殴ってやろうか。糞垂れが。無駄なことばかりしやがって」
「――」
 好きにしろ。殴りたければ、殴れ。
「糞程度の下らない意地のくせに。無駄に殴られるだけの馬鹿が。貴様。
 ……まあそれでも、貴様の糞垂れな気持ちも分からないではないがな」
「――」
「何もしないではいられないんだろう?」
 ナシードは苛立った口調のまま真顔で語りかけてきたのであった。
 イルシオはゆっくりと顔を上げた。相手を見た。
 変わった男だ。と、思う。強まってきた風の中で、相手の黒い長い髪が流れているのを、見てしまう。褪せた妙な感覚と僅かばかりの興味を、どこかに覚えてしまう。
 奇妙な男だ。アルグートのナシード。
 アルグート領内に踏み入った瞬間から、ずっと関わる事になってしまった。見た目の通りの強面の、気の荒い男。手の早い、自分を殴る役の男。その癖に、時に妙にこちらの心を見抜いた言葉を吐く。意表を突いて。
 イルシオは立ち上がった。たっぷりと湿気を吸ってしまった服から泥をはらう。後ろの樹に繋いである馬まで戻ると、鞍にかけておいた灰色の上衣を纏う。音を立てずに鞍に跨る。また無為な一日が終わると、心の隅が淡々と思う。
 日没後の世界は淡い紫から薄闇へ変じていた。風は一層強まっていった。
「おい。イルシオ。待てよ」
 イルシオは喋らない。急速に光を失っていく丘陵の、どこにも眼を置かない。冷えた風に上衣の端を吹き上げられながら、北に幾ばくか離れた所に設えた簡素な天幕へと、無言で馬を進めてゆく。
「こっちを見ろよ。イルシオ。聞け。それとも無理やり馬を止めてやろうか」
「……。何を」
「聞け。もう半月が過ぎた。ここに這いつくばってから。だが、何も起こらない。
 一体貴様は何を待っているんだ?」
「――。何の事だ」
「もういい加減に真実を言ってもいい頃だろう? 糞が。言えよ。
 ファウロの城門の監視をすべきだと言いだしたのは貴様だ。しかも自分がやると散々に強引に願い出てだ。俺は当然、貴様がファウロの誰かと連絡を取る機を狙っているんだと思った。だが、何も起こさない。貴様は全く逃げ出そうともしない」
「逃げるはず無いだろう?」
「なら貴様、家族と会いたいのか?」
 ぴたりと、イルシオの身が強張った。振り向いた。
 吹き抜ける風に大きく外套を吹き上げられながら、ナシードは真剣な顔で自分を見ていた。
 本当に、奇妙な男だ。本当に突然、真っ向から真意を突いてくる。粗野で、がさつで、乱暴な男なのに、なのに思いもかけない時に思いもかけずに繊細な感情を突いてくる。真っ向から見据えながら、真っ直ぐに自分に迫って来る。
「貴様、知りたいか?」
「――。何を」
「隠していたが、教えてやる。ファウロの街のナロドニア城館だが、今は完全に人の出入りが途絶えたらしい。時々背の高い若い男が、たった一人で出入りしているだけらしい」
“代わりに私の手を落として下さい”
 激しい雨の中の、顔。
「その男、手首はあったか?」
「何? 風で聞こえないぞ、大声で言え」
「――」
「誰なんだ? 一族には貴様以外に若い男なんかいなかったな。郎党の一人か?」
“代わりに私の手を。私にも一族の血が……”
「おい、知りたいくせに何だよ。貴様、会いたいんじゃないのか? 少しだけなら話をさせてやってもいいぞ。ただし俺の監視付だが」
「――。いや」
「何だよ。だったら好きにしろ。せっかく教えてやったっていうのに恩知らずの糞垂れが。勝手にしろ」
 また機嫌を損ねたか。殴られるかな。
 しかしナシードは、さっさと馬を先に進め、風の吹き上げる急な坂道を下って行ってしまうだけだった。
 空の薄紫色は、真の紫色へ。夕刻は真の夜へ。
 丘陵を下り、登り、進む。また前方には丘陵が現れる。真正面から強い風を受ける。その頃になってイルシオはようやく、漠然と気付いた。頭巾をはためかせて進んで行く後ろ背に、大声で訊ねた。
「なぜだ?」
 機嫌の悪そうな顔が振り向く。
「私を家の者に会わせてくれるなんて、なぜだ? 私はかつての敵国の将で、今は捕囚で、全く信用出来ないんじゃなかったのか? そのまま逃げ出すかも知れないのに、なぜ?」
「逃げる気があるなら、とっくにやっているだろう?」
「つまり。私を信用してくれるのか?」
と訊ねた時、相手の荒っぽい顔が明らかに当惑した。図星を見抜かれて怒るように、恥ずかしがるように歪んだのをイルシオは見逃さなかった。
「余計な口を効くなっ」
「――」
 本当に、奇妙な男だ。意表を突く男だ。まさかね。
 まさか、この男が僅かとはいえ自分を気遣ってくれたとはね。僅かながらとはいえ、この男に親しみを覚えてしまうとはね。
 ほんの少しだけ、イルシオの口許が上がった。微笑んだ。あの日以来一年ぶりの笑みになった事には自分でも気が付いてはいなかった。
 二頭の馬は、ほぼ並ぶように灌木の丘陵を進んで行く。
 濃い紫の色は、ついに闇へ。夜の闇の女王の時間へ。
 イルシオは無言だ。ナシードももう余計な口を利かない。風音が強い。両者は馬に揺られ、三つ目の斜面を登ってゆく。この頂を越えれば、前方に貧相な雑木林が見えてくる。その中に古びた天幕がある。そこに戻り、簡単に何かを食べ、ぼろ布にくるまって寝る。この半月の間繰り返してきた通りに。
 低い空に月と宵の明星が並び、どちらもが金色に冴えている。強い風が一面の灌木と、そこを進む二人の髪と服を吹き流す。風の音ばかりが響き渡る。その時。
 ――二人は同時に気付いた。
 風音の向こうから、がたがたという轍の音、風にはためく幌布の音が聞こえてきた。
「荷車?」
 振り向いた薄闇の世界の中、丘陵の狭間の小道を行く一台の荷馬車の姿を、両者は捕えたのだ。
「何だよ。さっき城門を出ていった荷馬車じゃないか。馬鹿が。何を大きく迂回しているんだよ。なんで街道を使わないんだよ? 丘陵地の真ん中を荷馬車で突っ切ろうなんて、神の恵みを受けた阿呆か?」
「……」
「確かに、よほど悪魔に気に入られた奴って事か」
「……。確かに」
「――。ああ」
「変だ」
「貴様もそう思うか、イルシオ。確かにな」
 両者は黙したまま見る。荷馬車は、狭い悪路を強引に進んで行く。
 吹き付ける風は、寒く強く酷くなってゆく。周囲の灌木が金切声のように鳴っている。荷馬車もまた風を強く受ける。今にも吹き飛ばされそうに荷台を覆う暗色の幌布もまた激しくはためく。吹き抜けた強風にその布も舞い上がり――、
(あ!)
 イルシオは絶句した。
(こんな偶然、神が! いやっ)
 神なんていない、なのにこんな偶然があるなんて!
 強い風に荷馬車の幌布の結び目が一つ、突然にほどけたのだ。布は大きく舞い上がり、荷台の中が見透しとなりそこに――荷台にエアリアがいたのだ。
「奴を捕まえろっ」
 叫びと同時、ナシードは自ら馬を走らせる。
「イルシオっ、何している、エアリアだ! 何してるんだ、捕まえろ、阿呆が!」
 なぜ? なぜ今エアリアがここに?
 考える間もない。イルシオも引きずられるように馬の腹を蹴る。ナシードは早くも丘陵の斜面を駆け下り、荷馬車に追いつく。
「その荷馬車、止まれ!」
 ぎょっと御者台に座っていた爺が顔を上げた。泡を喰ったように皺だらけの口を開け、馬に鞭を入れようとした。
「逃がすかっ」
 ナシードは強引に荷馬車の前に出る。二頭立ての馬は驚いて棹立ち、御者はひゃっという間抜けた悲鳴を上げる。車輪はガタリと揺れて大きく右へ傾いた。途端、ナシードはあっという間に御者台に飛び移った。
「馬を止めろ!」
と言うより早く、右手が荷馬車の手綱を奪った。力づくで荷馬車を止めた。
「イルシオっ、奴を逃がすな、分かってるな、イルシオ!」
 返事が無い。
 瞬間、ナシードは最悪を予測し呪詛の言葉を吐いた。彼の気質に躊躇は無い。歯の根をガタガタ言わせている御者を振り向くと、たった一発の殴打で地面に落とす。素早く自らも泥土の上に飛び下りると、荷台の後ろを目指した。
「いるんだろうな、イルシオ! 貴様まさか逃げてなど――」
 イルシオはいた。彼は馬に乗ったまま、身体をぴくりとも動かさなかった。固く強張った表情で、食い入るように一点を捕えていた。
 エアリアだ。本当に。
 エアリアは、荷台の最も奥に独り座っていた。老人のように深い灰色の長衣とフードにすっぽりと身を包んだまま、無言でこちらを見ていた。
 飛んでもない形での再会にイルシオは驚き、口にすべき言葉を失ってしまう。しかし相手は平然の態で話し掛けてきたのだ。
「不思議な御縁ですね。まさかこの様な所で貴方様と再会しようとは思いませんでした」
「――」
「ここはファウロの街の至近ですよ。貴方様の追放令はまだ解かれていません。ここで何をなさっているのですか? 誰かに御姿を見られたら極めて危険では有りませんか? ナロドニア家のイルシオ殿」
 この状況だというのに、エアリアはあくまでも落ち着いた、優雅ですらある口調だった。
 だがそんなことはナシードにとっては知ったことか。
「俺だって思ったさ。まさかこんな所で貴様に会えたとはねっ」
 素早く荷台に乗りエアリアの真ん前に達すると、まずは嬉々と挨拶の一発を見舞ったのであった。
 ゆっくりと、切れた唇を指先で押さえる。その血の滴を確認してから初めて、エアリアは不思議そうに相手を見つめながら言った。
「失礼ながら、貴方はどなたです?」
「そうだな、貴様は知らないだろうよ。だがこれでも俺はアルグートの豪族の下っ端でね。何度かあそこの王城にも行っている。その時に貴様の下卑た面を見かけているぜ、情人のエアリア」
「アルグートの豪族ですか? そんな人がなぜ今ここに?」
「ほんとだな。全くなぜ今ここで会えたか、俺にも謎だぜ。天使は宙に舞い飛んでいるものなんだな。――何だよ、その恰好は? 田舎の爺にでも変装しているつもりか?
 で。さて。本題だ。護衛もつけずにたった一人で、こんな時間にこんな所で何をやっているんだ、エアリア?」
「――。困った質問ですね」
「いいところ、どこかへの密使ってところか? 夜這いには見えないしな」
「でも……待て。でもなぜ……、なぜ今、この場でエアリアを捕える必要が――」
 ようやく、初めて、イルシオは間の抜けた小声を発したのだが、
「貴様も悪魔に蹴られろ、阿呆頭が。
 こいつなんだぞ、先王が没して以来、ターラ女王をたらし込んで王城で好き勝手をやらかしてくれたのは。こいつを締め上げれば、何でも分かるんだよ。何をしやがった御陰でこんなにアルグートの宮廷を混乱に落としたのか、国政を乱したのか、一年前にルムとの無駄な戦闘に打って出て挙句に反戦を招いたのか、その他何でもだ。
 エアリア、訊きたい事が山ほどあるぜ。さあ、アルグートへ帰るぞ。あっちでは貴様を恨んでる連中が幾らでもいる。皆が貴様の首をくくろうと狙っているしな」
 だが、エアリアはその言を無視し、じっとイルシオの方を見据えた。
「貴方様はアルグートの側と手を組まれたのですか、イルシオ殿?」
「――」
「アルグート国内では今、こちらに逗留中の女王陛下の意向を無視して再び軍備中らしいとの噂は、耳にしていました。しかしながら、まさか貴方様がルムに背信なさり、アルグート側に情報を流されて豪族たちを鼓舞なさっているという事ですか?」
 途端、イルシオは声を張り上げた。
「私は裏切り者では無い! 我が家を――父と妹を――ヴィアをあんな目に合わせた奴らをそのままに出来ないだけだっ、だから私は違うっ」
「お気持ちは分かりますが。しかしながら、やはり結果として貴方様は生国であるルムに背信なさっていることになっているのでは?」
「違う! 私は違う、黙れ、エアリア!」
 言われた通りに、エアリアは口を閉じる。それ以上は語らず、語らないことで一層にイルシオを責める。
(イルシオ殿。貴方様のお怒りは充分に理解出来ます)
 そう。同情と憐憫とをたっぷりと込めた視線で責める。
(貴方様と御一族の不運には、心より同情を致します。でも、やはりそれは文字通り、逆恨みというものでは有りませんか?)
 まことに正当な主張をもって、イルシオを責める。
 それをナシードが救った。彼は生来である明快な行動力に訴え、早々にエアリアの頬に二発目を見舞った。
「とりあえず貴様の反吐の出るやり口を、俺達アルグートの者は忘れていないぜ。何でも今、ルムでも同じ様な事をやっているんだってな。この分じゃファウロの王城もさぞ居心地が良いだろうが、悪いな、そことは永久にお別れさ」
 エアリアは反発しない。こちらを見るのみで。
「ざまあ見ろ。貴様の星はもう闇だ」
 強い風音の中で、ナシードは勝利を宣したのだ。が。
“違う、ナシード”
 イルシオの直感的に疑問を覚える。
“そんなに簡単には、終わらない”
 そうだ。エアリアがそんなに簡単に手に落ちるはずがない。吸い付けられたように見返しながら、イルシオは確信する。予測する。例えば、
 ……いきなり立ち上がり、身を翻して闇の中へと逃げるエアリア
 ……唐突に、突拍子も無い交渉話を持ち出すエアリア
 ……もしくは唐突、背後から衛兵が飛び出して来て自分に襲いかかるとか?
「分かりました。一緒に参りましょう」
 え?
「今、この状況となっては、私に選択の余地は有りません。貴方がたに従います」
 荷台の最奥で、エアリアはいつも通りの落ち着き払った態で言ったのだ。
「それを神が望まれているのであれば、私には抵抗の余地は有りません」
「そいつは素晴らしい。イルシオ、奴の懐を調べろ。奴の神も御了承済だぞ」
 神が何だって? 神なんていないのに。
 状況をうまく消化出来ない。何かがおかしい。言われた通りにイルシオはエアリアへと近づいていく。何一つ抵抗しない相手の、灰色の分厚い外套のその下に腕を伸ばした。
 その瞬間、エアリアの僅かな声が囁いた。
「私はこれまで、貴方様と貴方様の一族と、そして両国の平和の為に尽力してきたつもりだったのですが……」
 何を。それは。つまり、
「私に、逃がせと? 命乞いを……?」
「いいえ。ただの事実を述べただけです。
 それにしても神は私たちの間にいつも、面白い状況をお与え下さいますね」
 そう告げて、微笑んだ。
「……」
 何かが捻じれている。何かが。
 事実は、何だ?
 事実は――、エアリアがルム王城の現状について全てを喋れば、アルグートに有利になる。アルグートの軍備も早まる。会戦の勝利にもより近づく。ヴィアを断罪したサナタイを、ヴィアを凌辱した双子を捕え、復讐できる確率も高まる。
 ――はずだ。
“キジを獲って来て”
 違うのか?
 ヴィアが、いいや――エアリアが微笑む。
「……。いや。現実は、違う」
「――」
「何を考えているんだ? エアリア」
「何の事でしょう? 私は投降すると伝えましたよ。イルシオ殿」
「さてと。訊きたい事なら幾らでもある。貴様がどれだけ強情なのかを試せるのが楽しみだな、エアリア」
 ナシードの声にエアリアは振り向いた。
「喋ります。私の身の安全を保証してくれるのであれば、何でも喋ります」
「随分素直だな」
「身の安全さえ約束してもらえれば、何でも喋ります。この様な境遇に陥った以上、私にはもうターラ女王やサナタイ王への忠義よりも、己の身の方が大切です。卑怯と呼ばれても構いません。己が一番大切とは、人として止むを得ない事なのですから。私は貴方がたの利益に協力をします。
 ――御二方。それで宜しいですね」
 そうゆっくりと言い、笑みながら締めくくった。
 違う、だって。――まただ。エアリア。
 追い詰められた立場のはずなのに、いつの間にか逆の立場にいる。捕囚でなければならないのに、いつの間にか、もう、同等の立場に立ってしまっている。
 エアリア。何なのだ? 何を考えている?
 強く切るような風音の中、エアリアは僅かに皮肉を込めたかのように言った。
「で。私はこれからどこへ行けば良いのでしょう?」
 イルシオの困惑とは対照的に、ナシードの方はすべき事を完璧に心得ていた。
「すぐにアルグートへ戻るぞ。俺が御者台に乗る。この野郎は縛って荷台に転がしておけ。イルシオ、さっき殴った御者の爺も連れていくから早く荷台に乗せろ」
 ナシードが荷台から飛び下りる。イルシオも続き、風の強い表へ出た途端、上衣の裾が舞い上がった。すでに上空はほとんど闇に染まり、西の丘陵線だけが僅かな白光に浮かび上がっている。
「イルシオ、何やってんだよ、早くやれっ」
 イルシオは振り返る。と同時、猛烈な風にぶつかる。上衣が派手にあおられ、思わず身をねじり――
 その瞬間だった。眼が、人影を捕えた。
「ナシード!」
 夕刻の終焉。その最後の薄光の中。すぐ右の丘陵の頂に、真っ黒い人影が浮かび上がっていた。
「ナシード! 誰かいるっ」
 途端、人影は動き出す。あっという間に丘陵の向こう側に走って逃げていく。
 すぐさま大きく灌木を蹴ってナシードは斜面を登り出した。
「無理だっ、もう追いつけない、ナシード!」
「うるさいっ、やって見なければ分るか!」
「無理だ、もう闇に――っ、すぐに去った方がいい、近くに仲間がいたらまずいっ」
 ナシードは猛烈な未練をみせるが、イルシオの意見を認める。凄い勢いで引き返しながら大声で叫んだ。
「誰だったんだっ、何人連れだっ」
「一人の影を見ただけだ。でも、かなり前から見られていたと思う。多分馬も見られている。私たちの天幕も。すぐにもここを離れた方がいい。一人きりだったとは限らない」
「糞……っ。この丘陵は普段ほとんど人けが無いのに、何で今に限って!」
 舌打ちと同時にナシードは踵を返す。泥の上で怯えている爺に命じて、御者台に戻らせる。荷台の方を確認すると、エアリアは一片も動かずにそのまま待っている。全く逃げ出そうとせずに、落ち着き払った穏やかな表情のままで。
「イルシオ、貴様は荷台でエアリアを見張っていろ、行くぞっ」
 全てが整い、荷馬車は再び動き出した。ガタガタした轍は瞬く間に悲鳴じみた音に変じ、動揺するイルシオの心に拍車をかけた。
(どこまでを見られた? 自分の顔を見られたのか? 自分の顔を知っているのか? ナロドニア家のイルシオと気づかれてしまったのか?)
 狭い灌木の中の道を、荷馬車は大きく揺れながら走って行く。強い風音と甲高い轍音が響き渡る。
 辺りは完全な夜闇に変じていた。無為の一年の果て、時が動き出した。

・         ・         ・

 夜の闇の中、ルムの王城でも時は動き出した。

 北の丘陵地で劇的な光景を目撃してしまった者――それはファウロの町に出入りする薪業者だった。たまたま近郊のカル村を出発するのに遅れ、日没時の閉門前にファウロの街に到着することが出来ず、野宿の場所を探している時、全くの偶然にこの瞬間に遭遇してしまった。
 薪業者は殊勝極まりなくも、そのままその足でファウロに向かい、事情を話して市門を開けてもらい、そのまま王城へと駆けつけてしまった。イルシオにとって最悪な事に、薪屋はイルシオの顔もエアリアの顔もしっかりと確認していた。エアリアの誘拐と、アルグート人の密偵らしい男と、ナロドニア家の追放者と、それらの全てについてルム国王とアルグート女王に全て報告してしまった。
 そして。
 サナタイは動揺した。
 ターラは激怒した。
 ……
「どうしよう、ターラ……」
「――。大丈夫ですわ」
 大きな寝椅子の真ん中に身を置きながら、女王は艶然と微笑んだ。腹の中の煮えくり返る焦りと怒りを押し殺しながら、横に座るサナタイのひ弱な表情を見つめた。その腕を取ってゆったりと言った。
「大丈夫です。心配なさらないで」
 広い室内にただ一本のみ灯火の中、サナタイは今宵も常と変わらず未熟な、不健康な顔だ。
「でも……。いやだ……」
 享楽と驕慢に溺れ切った、青白い顔だ。
 この一年は、幸福であった。昼も夜もターラと肌を重ね合わせ続け、面倒臭い政務のほとんどはエアリアに委ね、全てが上手く行っていた。何の面倒も無かった。ただ幸福を味わい続けていれば良かった。
 だから今、エアリアを拉致されてしまい悦楽の日々を奪われるのが嫌だった。しかも不穏な事に、アルグートではいつの間にか軍備を始め出したとの噂も聞いているのに。
 アルグートは何を考えているんだ? 本当に戦役を仕掛けてくるのか?
 だからこんな強引な拉致に出たのか?
 自分は何をすればいいんだ? そんな煩わしい事を誰が考えてくれるんだ?
「いやだ……。また戦役になるんだ。そんな面倒臭い事は嫌だ……」
「大丈夫だと告げていますでしょう?」
「だってアルグートの間者がいたんだ。そいつがエアリアを拉致したんだぞ。ナロドニア家のイルシオもいたんだぞっ」
「例え何かしらの目的でアルグートが本気でルムに攻め込む気でいるとしても、今直ぐにどうなるというものでは有りませんわ。愛する貴方。
 忘れないで。アルグートの女王は私です。私ならば、本国の豪族達を諫めて戦いを阻止する事も出来ます。でもそれはまだ先の話。今はまだ大丈夫ですわ」
「じゃあ今は、何をすればいいんだ?」
(エアリアの救出よ! 今直ぐの!)
 叫びたい感情を苦心して噛み砕き、ターラは再び笑んだ。
 最愛の男を奪い取られた。まして、過去から現在に至るまで終始、自分への反感と憎悪を剥き出しにしているアルグートの者の手によって取られた。せっかくこのルムで万事が自分とエアリアの思い通りになって来ているというのに。
 誰がそれを滅茶苦茶になどさせるものか!
「愛する御方、心配なさらないで。策なら幾らでもあります」
 ターラの笑みは、輝く程に艶やかだった。白く細く長い腕が、サナタイの首にしなやかに、蛇のように巻き付いた。
「策なら、あります。幾らでも。だから大丈夫ですわ」
 奇妙な抱擁だ。一体、どちらがどちらに耽溺しているのか。
 どちらがどちらに画策しているのか。
 どちらがどちらを支配しているのか。
「私たちはずっと勝利者でいましょう」
 不穏を表すよう、灯火が大きく隙間風に揺れた。王と女王は、熱く、長い接吻を交わした。

 そして、夜の女神が動き出す。

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