水無月のエール

文字数 1,189文字

 東京は今日で八日連続の雨らしい。雲が厚くて、夏の序章を打ち止めてくれるかといったらそんなことはなく、いつもより早く目が覚める日々が続く。手には黒い傘、鞄にはハンカチ。梅雨の必需品を確認したら、一人住まいのアパートを出た。頭から上の景色は当然見えない。
 郊外の自宅から都内まで通うために、最寄り駅で電車を待つ。毎日同じような顔ぶれが並んでいるけれど、クラスメイトではない。だから話もしない。当然だ。我々は社会人なんだから。
 大きな箱が雨を割るようにやって来て、品物よろしく詰められる。最初は吊り革を持つ余裕があるからマシな方だ。しかし駅を通過する度に不快感は増していく。濡れた傘と蒸し暑さを一緒くたにした新しい乗客が、これでもかと入ってくる。先客贔屓なんてあるはずもなく、どんどんと窓際に押し退けられた。三つも駅を過ぎた頃には、子どもが遊んだ後の部屋よりも足の踏み場がなくなる。
 蒸籠みたいな中身を気にも留めず、ごおごおとステンレス車両が風を切る。誰よりも雨を浴びているのに、雨音がしないというのも不思議なものだ。もし自分が首都近郊に住んでいなければ、自慢のマイカーのワイパーで雫を弾いて、人生の背高草をかき割るように、公道をかっ飛ばしていたのだろう……なんて、暇潰しのための不毛な想像だった。
 地下に入った瞬間、電車のライトが鈍い空の下よりも一層目立った。すると、黒い鏡に映った自分の顔は、泣いていた。慌てて吊り革に掛けていた指先を頬に当ててみたけれど、水滴の一つも落ちていない。ただ、窓越しに雨が降っているだけだ。
「……はは」
 おもむろにハンカチを取り出して、汗しかない頬を強く拭った。滑稽な話だ。社会人にもなって、通勤なんて「当たり前」のことで辛いという感情を引き出されてしまった。先方に無理なお願いをしたり、上司に怒られる方がずっと心を締め付けるのに、それでもそんなことで涙を流したりなんかしない。
 見つめ合ったよく似た顔に、弱い自分を自覚した。こんなにも辛いことを頑張っているんだと思えた。
 ハンカチを持ったまま、電車を降りて傘を差す。今度は雨が聞こえる。水溜まりが跳ねる音もする。見慣れたビジネス街は、白く、淡く見えた。
 やがて目的地に着くと、ちょうど傘を畳んでいる部下に出会った。「おはよう」を交わした後、部下はいたく怪訝な顔で聞いてきた。
「先輩、目が真っ赤ですよ。何かあったんですか?」
「ううん、何もないよ。今日も頑張ろうね」
「はい」
 そうしていつも通りの仕事に打ち込む。人々は歯車となって、時計の針と一緒に忙しなく回った。梅雨バテを言い訳にして「疲れた」と弱音を吐けるなら、鬱陶しいだけの雨も悪くない。
 いつまでも、自分が自分の頑張りを認められますように。ささやかな願いを内に秘める。そう言えば、来月は七夕だ。帰り道に上を向いたら、星の降る夜空を見た気がした。
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