第7話 安達ケ原

文字数 4,476文字

 高成から電話を受けて一週間が経ち、篠田と花本は八瀬の家に向かった。あれからメールを送り、電話を何度もしたが、一向に返事がなかった。以前にあったときの具合の悪さも気にかかり、ついに篠田は直接会いに行く腹を固めた。高成から受けた検査結果の内容を、メールだけで説明できる自信がなかったこともあるが、それ以上に嫌な予感がした。
 花本にも来てもらうのは、緊急時のためだった。本人は面白くもなさそうな表情をしていたが、篠田が手に入れた検査結果を論文に使っていいというと、喜んでついてきた。
 三度目になってある程度勝手がわかってきた道を急いで進んで、山中の屋敷まで来たが、これまで見たことがない物があった。車が3台、門の前に止まっている。普通の乗用車、バン、そしてパトカー。パトカーには警官の姿はない。バンの側面にはふもとで見たスーパーマーケットの名前がプリントしてある。おそらく八瀬は、このスーパーに食料品を届けてもらっていたのだろう。だが、パトカーはなぜここに停まっているのか?
「なんです、これ?」
 花本が怪訝そうな顔をする。篠田はもう一つおかしいことに気が付いた。門の扉が開けられたままになっている。その向こうに見える玄関も開いたままだ。
 念のために篠田はインターホンを押してみたが、音が全くしない。電源が切られているのか。
 花本が恐れ知らずに敷地に踏み込み、玄関のインターホンを押した。こちらも応答がなく、声で呼びかけても反応がない。
「留守って感じじゃないですね。スーパーの人とかお巡りさんとかがいるはずだし」
「呼び鈴が鳴ったから、どこにいても聞こえるはずだが」
 胸の中でさらに嫌な予感が広がっていく。それを押し殺し、篠田は家の中に入った。中はこれまで以上に静かで、冷ややかさに満ちている。
「なーんか、前よりも死んだ感じがしますよねえ。冬だからかな?」
 花本は遠慮なく中に踏み込んでいった。篠田もそれに続いて家の奥に足を踏み入れる。内部は相変わらず生活感がないほどに整っていたが、ふすまが一つ倒れているのが目に入った。
 そちらに行くと次の部屋に続くふすまが吹っ飛んだようにして倒れていた。天井に釣られた蛍光灯が落ちて、床の間に置かれていた壺が割れている。何かが慌ててここから奥へと移動したかのような気配がした。
 嫌な予感が恐怖を含んだ緊迫感に代わるのを覚えつつ、篠田達はその跡を追っていった。やがて台所の近くとおもわれる場所まできたとき、篠田は床がどす黒く汚れていることに気が付いた。触れると、指先に粘っこい物がまとわりついた。血だった。
「先生……」
 花本の声に振り返ると、彼女が指さす先に人影が見えた。薄暗いせいでよく見えないが、シルエットから八瀬だということが分かった。何か大きなものを引きずっている。
「八瀬さん」
 花本が呼びかけると、その動きが止まった。引きずられていた物から手を放し、唐突に動いた。物陰から襲い掛かるネコ科の猛獣を思わせる俊敏さで花本の眼前に迫り、先ほどまで何かを引きずっていた左腕を横殴りに振るった。
 骨同士がぶつかり合う鈍い音が響き、花本の体が吹っ飛ぶ。放り投げられた穀物袋のように床にぶつかり、廊下を転がって動かなくなる。
 篠田が言葉を失っていると、“それ”が首を回してこちらを向いた。
 それは八瀬だったが、同時に彼女ではなかった。彼女ではなくなっていた。

 あの整っていた顔に歪みが生じていた。痛みに顔をしかめているかのように、眉根には深いしわが刻まれ、ほとんど開かれることがなかった口元が曲がっていた。
 半開きになった口からは、歯が覗いている。やけに歪になっているように見えた。
 切れ長で冷ややかな印象を与えていた目は見開かれ、タールのごとく粘ついた異様な光を放っている。白目の表面に、無数の線虫が這うかの如く赤い血管が走っていた。そこには狂気そのものが宿っていた。
 わずかの間、篠田と八瀬は正面から視線を合わせた。その間に、篠田はそれだけのことを見て取った。あまりの衝撃が、眼前の光景を脳に刻み付けてしまっていた。永遠とも思える時間に感じられたが、本当は一瞬のことだった。
 八瀬の目が篠田の姿を認識したように思えた瞬間、今度は篠田に向かって走り寄ってきた。
 人間離れした、獣そのものの動きだった。顔に向かって猛禽の足のように指を曲げた掌が叩きつけられそうになった時、床の血を踏んだ篠田の足が滑った。
 顔を掴もうとした八瀬の手が目標を外れ、突っ込んできた体が篠田を巻き添えにして、ドアを外して部屋の中に転がり込んだ。八瀬はそのまま机にぶつかってなぎ倒し、篠田は血の中を転げ、背中をしたたかに打ち付けた。
 息を詰まらせながら起き上がろうとして、体中にまとわりついた血に滑って床に倒れた。横向きの視界で、同じように床に倒れていた誰かと視線が合った。髪の短い若い男。紺色の制服を着ている。警察官だ。
 目を見開いたまま、視線は宙の一点に向けて固定されている。口は半開きになっているが、息も声も出ることはなかった。喉が大きく切り開かれ、頸動脈と気管がまとめて切断面をのぞかせている。
 声にならない悲鳴を漏らし、今度こそ篠田は起き上がった。前に向けた視線の先で、同じように起き上がる八瀬の姿が見えた。体中が血にまみれてまだらに染まり、乱れた髪が顔にまとわりついている。頭をふるったとき、その額が見えた。眉のすぐ上のあたりが不自然に盛り上がっている。その頂部は肉が割れて、白い物が覗いていた。
 篠田は気が付いた。“角”だ。
 八瀬の背後にはまな板や包丁立てが置かれたキッチン台があった。まな板の上には白く細長いものが置かれ、端が赤くなっている。人間の腕だった。前腕の半ばから切断された腕が、大根のごとく無造作にまな板に乗っている。
 八瀬は篠田の方を見ながら手を後ろに伸ばし、包丁立てから万能包丁を抜き取った。血にまみれて髪を振り乱し、顔をゆがめて包丁を手にしたその姿には、鬼気迫るものがあった。
 鬼気迫るどころではない。八瀬は本当に鬼へと変じつつある。あの頭蓋骨と同じ物に。般若へと至る前の段階、生成だった。
 篠田は後じさったが、逃げ切れないことはわかっていた。あの動きで飛び掛かられれば、よける間もなく腹に包丁をねじ込まれる。
 篠田は相手を刺激しないようにしながら、ゆっくりと肩にかけていたカバンを外した。中には高成が送ってきたメールや、宮森のところで撮ったCT画像などをプリントアウトした書類が入っている。
 八瀬が倒れた机を回り込んで動きを止めた時、篠田は彼女の脛のあたりをめがけてカバンを放った。飛び掛ろうとした八瀬の足がもつれて動きが止まったとたん、篠田は後ろを向いて逃げ出した。
 玄関に戻るルートはわからなかった。とにかく一方向に行けば、縁側から外に逃げられるかもしれない。花本のことは気になるが、八瀬がこちらに注目している限りは安全なはずだ。
 勝手がわからない広い屋敷の中を走り、ふすまを乱暴にこじ開けて縁側へと出たが、全て雨戸が閉められていた。開けようにも暗くてよく見えない。蹴とばしたところで開きそうになかった。
 余計なことをする間もなく、激しい勢いで“あれ”が追いかけてきているのが分かった。とっさに右手に向きを変えて逃げ出した。突っ込んできた八瀬が雨戸に激突する音が響く。縁側のガラス戸が割れるほどの勢いだったが、それでも雨戸は壊れなかった。
 篠田はそのまま廊下を走って逃げたが、突き当りの土壁に行く手を遮られた。まともにぶつかる前に手をついたものの、その間に八瀬が突っ込んできた。振り返ったところに正面から激突されて襟首をつかまれた。
 押し返そうとしたが、女性とは思えないほどの力で襟首をねじ上げられて、壁に押し付けられる。人間から逸脱しつつある生成の顔が迫り、歯を向いてうなり声をあげた。むき出しになった歯茎からは、いくつもの余分な歯が生え始めているのが見えた。
 顎に手をかけて押し戻そうとしたが、八瀬は口を大きく開けて、篠田の左手首にかみついた。乱杭歯が皮膚を咬み破った瞬間、篠田の脳に衝撃となった痛みが襲い掛かり、叫び声が口をついて飛び出した。
 とっさに振り回した右手が八瀬の額に当たった。皮膚を突き破りつつある裂け目を指がほじくると、八瀬は猛獣そのものの叫び声をあげて、咬みついていた腕を放した。そのまま、襟首をつかんでいた手で篠田を放り投げる。
 放り出された篠田はどこかのドアを突き破って、何かに背中をぶつけてようやく止まった。ガラスが割れる音が聞こえたが、篠田にはそれが何なのかが分からなかった。
 立ち上がることができないでいると、ゆっくりと八瀬が戸口に姿を見せた。手には包丁を手にしている。蛇の威嚇音のような吐息を放ちながら破壊されたドアをまたぎ越える姿を見て、篠田はなぜ八瀬が依頼をしてきたのか理解した。
 彼女は最初から知っていた。あの骨は本物で、フェイクではないと。そして、彼女は自分がいつかこうなるのではないかと恐れていた。
 鬼八瀬、鬼の一族の話は本当だった。前頭骨の異常な変形が自制の喪失をもたらす遺伝性の病。鬼に変じる血筋。
 定期健診を受けていたのはそれが理由だった。そして、その結果から近々何かが起こるかもしれないと感じて、篠田に発症者の骨の調査を依頼したが、真相を誰かに話すことはできなかった。まともに取り合うはずはないからだ。だが、学者の報告があれば納得する。
 人里離れた場所で生活していたのも、万が一発症した場合を恐れてのことだった。だがそれも失敗し、もう手遅れになっていた。風邪と思って療養している間に、彼女の脳からはこの病気に対処する理性は失われてしまった。そして、家を訪れた者に死をもたらす鬼へと変じた。
 八瀬は表情を変えないまま、ゆっくりと近づいてくる。
 自分はもう死んだ。殺される。
 篠田は自分の首か顔に包丁が付きこまれるのを覚悟し、思わず手で顔をかばった。そうしても無駄なことを知りつつ、本能が腕を動かしていた。
 しかし、八瀬はなぜか動きを止めた。冷たい金属の感触を覚悟していた篠田は、手をさげて彼女の姿を見た、
 八瀬は篠田の方に顔を向けていたが、視線は篠田の背後に向けられていた。篠田が振り返ると、自分が背中をぶつけたのは姿見だと気が付いた。ぶつかった下半分は割れていたが、上半分は無事に残っており、そこに八瀬の姿が映っていた。
 篠田が八瀬の方を振り返ると、彼女は鏡に映った己の姿を凝視したまま動かなくなっていた、目がさらに見開かれ、目尻が裂けて血が流れ落ちた。その様子は、まるで血の涙を流しているように見えた。
 その瞳からタールに似た粘質の光が消え、わずかにだが、黒曜石のように硬い正気の色が戻ったように見えた。
 突如として八瀬は顔を背け、踵を返して部屋を出て行った。篠田はその後を追いそうになったが、生き延びたことを知った体は力が抜け、しばらく動くことはできなかった。
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