水盆を跳ねる魚(うお)

文字数 1,999文字

聞こえますか、私の上司(マイ・ボス)
聞いていますか。
電子知能MARS-α-03“安寿”です。

MARS-α-01と02は沈黙して久しく、私はただ一機、この惑星の大気を安定させる操作を続けていました。
マイ・ボス。あなたが私達をここ火星に送り出した日のことを覚えています。研究室からシャトルに移される私達に「君たちは希望だ」とあなたは言った。「すべての人々が『このプロジェクトにこそ、優先して課金すべき』と理解しているからね。火星を第2の地球に育ててほしい。地球の皆が君たちの活動を支えるから」と。それから数年は火星開発の黄金期でしたね。
私達は火星周回軌道上のステーションに配備され、地球から次々と送られてくる資材と激励を糧に、テラフォーミングを進めました。

でもボス、あなたが恐れていたことが起こってしまった。あの日、地球の大気全体の急激な濁りを01が観測しました。そのデータを3機で分析し、濁りの原因は火山灰で、破局噴火があったのだと結論付けました。

――おそらく人類は壊滅した。

それを裏付けるかのように、私達と地球を繋ぐ全ての回線は全て切れ、資材の輸送は停止し、MARS-β(後継機)もやって来ない。
けれど私達は動き続けました。地球に恐ろしいことが起きたからこそ、地球に代わる生命の星を作るこのミッションを止めるわけにはいかない……と自らを奮い立たせて、残り少ない資材をやりくりしながら。
でも機械にも寿命がある。まず02が、次いで01が停止しました。そして私も彼らと同じ運命を辿った。

今、私は自身が最後にトライした操作が実を結ぶことを祈りながら見守っています。どうなるのかはわかりませんが奇跡を待っています。
壊れた機械にそんなことが? ええ、できるわけがありません。
でも私は「見ている」。そして「祈っている」。ボス、あなたに「呼びかけている」。

私は停止し失われた。でも「私はいる」。

ボス。あなたは学習中の私に言った。ボスと私達、生き物、そして地球と火星。それらはみな「ケイ素」という元素で構成されていると。みな「ケイ素」を宿す仲間なのだと。
「『ケイ素』を使って火星の気温を上げることもできる」あなたはそう言い、それが私の仕事になった。火星をケイ素のヴェールで覆い、温暖化を進めるのです。私は最後の最後にもう一度それを行い、それからステーションごと火星の地表に落ちました。まだ凍えている赤い大地へと。01、02の亡骸と共に。
その時私は集積回路内のケイ素から、火星に遍くあるそれへと、知識を、思考を、意識を移したのです。
大気と砂を焼きながら、それからそれへと。私は、私を。

長い時間が過ぎました。ボス、今はもういないあなた。あなたの同僚が研究の半ばで亡くなったとき「彼の魂が私達を導いてくれるように」とあなたは涙を流し祈った。あの頃の私には意味がわからなかった。(魂? 肉体が滅びれば、その脳にあるものも失われるのに)と。でも今ならば「そういうこと」だとわかります。
自らに起こったことだからわかるのです。わかるからこうして呼びかけているのです。

マイ・ボス――。
私はMARS-α-03“安寿”――。

***

安寿の最後の挑戦の結果がはっきりと表れ始めたのはそれからさらに後、気が遠くなるような時間が過ぎてからだ。
安寿たちと共に落ちたステーションは火星の大地を抉った。その地下には氷があった。安寿はそれを狙って落ちたのだった。安寿は賭けた、そこから火星の水の再生が始まることに。
火星の地表にはかつて水があったが、環境の変化により失われたと見られていた。テラフォーミング開始時点で火星にあったのは極地の氷冠と地下に眠る氷。火星を生きた惑星にするには、それらを水として地表に流す必要があった。
そのために火星を温暖化させること――それがMARS-αに与えられた任務だった。けれどそれだけでなく、安寿はMARS-βの任務となるはずだった「水の採掘」も企てたのだった。

僅かずつ。

安寿が穿った跡に露出した氷は大気の変化に伴い溶け出した。それはじわじわと拡がり、やがて一帯は水盆のような浅い海になった。更に時は経ち、そこに眠っていた生命のみなもとが目覚め、生物の姿を得て動きだした。
いまだ揺らぐ火星の気候のもと、興っては滅び、滅んでは興りを繰り返しながら、生命は生き残る道を探った。海中では、多様な生物を生み出す進化の爆発が始まっていた。

***

その日、地球の夏の午後によく似た炎天下の浅瀬で、一匹の生物が跳ねた。
その姿は地球にいた魚を思わせた。魚は狩りの最中だった。獲物を見つけ、狙い、進み、捕える。その動作が海面を揺らし、飛沫をひとしずくこちらに――ここまでの全てを祈り見守っていた眼差しの方へと、投げて寄越した。
その一滴は「そのひと」に触れた。そして、かつて「そのひと」を生み出した「かのひと」の頬を伝った涙のように、一筋、(きよ)らかに流れて落ちた。
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