第2話   ブナの森から 1

文字数 4,658文字

その森は凛とした冷たい空気に包まれていた。昨日までのまるで真冬の様な強い風は止み、静寂と透通る様な光の中で、色付き始めた木々達の葉が付近の空気を吸うことで新たな変貌を遂げようとしていた。

深いブナの森の中に建てられたペンションで、朝のひとときに何時の様に流れて来るビートルズを聞きながら薫は少し遅めの朝食を由紀と二人で取っていた。例年の様に客は彼ら二人で、この時期に成ると毎年の様にやってくる二人連れを、同じ様に迎えてくれるオーナー夫婦は、何時も絶妙な距離を取りながら世話をしてくれた。恐らく、最初に訪れたカップルと、今、朝食を取っている二人連れが、同一人物だったかどうかも知ってか知らずか、オーナー夫婦は立ち入らず、それで居て細やかな心配りを見せてくれていた。由香と初めてこのペンションを訪れた時、薫はまだ車の免許を取り立てで、相当怖い思いをしながらこの森の奧にやって来ていた。予約も無しに突然現れた二人連れを嫌な顔もせずに迎え入れてくれて、由香の幾つかのわがままも素直に受け入れてくれた。その一つが、この曲だった。たまたま、他の客が居なかった為も有るだろうが、主人が古いCDから見つけ出してくれたアルバムの中に、由香の望みの曲は在った。
「だって、私には昨日しか無いんだもの。」その時の由香の言葉が、今目の前にいる由紀の姿を通して、幾つかの映像レイヤを重ね合わせたかの様に薫の脳裏に映し出されていた。そして二人は数百年の時を刻み生きて来たブナの巨木達の間を歩いた。あの時、出発する前に言っていた由香の言葉が今でも薫の頭から離れないでいた。そして、本当にその時の旅が薫と由香の最後の旅となり、その後に由香の姿を見ることが出来たのは、北の地でベッドに横たわったままの彼女だった。彼女と旅した三年余りの時の流れは、今は静止したまま薫の中に止まって、その記憶に少しずつ新しい結末を書き加えるのが、今の薫と由紀の役目と成っていた。
「姉は、薫の記憶の中で生き続けたかったんだと思う。」ブナの森を歩きながら由紀は薫に囁く様に言った。
「そうかもしれないね。」それは言葉には成らないまま、森の中に溶け込んで行った。二人は暫く森の中を歩きながら、共用する由香の思い出に浸ったまま只歩き続けていた。木漏れ日の中を暫く歩いた後、急に開けた丘に出た二人は歩みを緩めた。その丘の上で、眼下に広がったラベンダの花畑を眺めながら薫は呟いた。
「今考えると、由香って本当は、天使だったんじゃないかって思う時がある。」
「確かにそうかもしれないわ。」
「でも、由香の温もりも、アッシュになった姿も現実だったよね。」
「そう、現実です。」由紀はその後の言葉を続けるかどうか迷ったが、声にしないまま薫に向けて放っていた。二人にとって、数年来続けてきた此所での山歩きは、言わば由香に対する鎮魂の儀式でもあったし、それと同時に、薫にとっては由香と共に過ごした三年間の中で唯一、知る事が出来なかった三日間の空白を埋める手がかりでもあった。
「薫、私、今年の秋から日本に戻る事にしたから。」夕食を済ました由紀が薫の部屋を訪れて最初に言った言葉だった。薫は、何時もする様に、由香のノートを読み返していた。
「ええ、じゃロンドンは引き払うの?」
「うん、薫とこの大学で研究助手の口が決まったから。薫はどうするの。」
「僕も似たようなものかな。僕は四月からだけど。」薫はノートを閉じながら
「下の暖炉の部屋にでも行く?」
「うんん、今は此所で良い。」そう言いながら、薫に近づき唇を重ねて来た。少し面食らった薫の表情を見ながら
「ねえ薫は、姉、由香とは寝たの?」由紀は、薫の目を覗き込む様にして訊いた。
「寝た?・・・・つまりセックスの事?」
「うん、そう。」
「うーん、本当に寝たのは、一度だけか、それが最初で最後だったけど。」
「ねえ、聞かせて。」そう言いながら、由紀はベットに薫を押し倒す様な形で、抱きついて来た。
「妹として、知っていても良い事でしょ。」
「うーん、まあ・・・」薫は、覆い被さって居る由紀を横に寝かしながら
「由香の性癖て言うか、何時もする行動パターンて知ってるよね。彼奴淋しくなると誰かに抱きつく癖が有るだろう。」
「うん、有る。夜中知らない間にベットに潜り込んできて、羽交い締めにされたの覚えてるよ。」
「初めは、僕も良い迷惑だったんだ、まるで抱き枕か、大型の縫いぐるみの代わりの様に抱きつかれて、僕も健康な男だし、普通の反応でその先の事考えるでしょ。だけど、そう言う反応で由香に接した途端に立場が逆転するんだ。」
「え、立場が逆転するって、どういう事?」
「うんーん、つまり・・・」そう言いながら、薫は優しく由紀の胸を触った。由紀は一瞬体を強ばらせてから
「脱ごうか?服の上からじゃつまんないでしょう。」
「ふん、それも有難いんだけど、要するに、普通の女の子なら、今見たいな反応をするでしょう。拒否するなり、受け入れるなり。由香は、全くの無感覚状態、まるで人形にでも成っちゃた様に沈黙しちゃうんだ。」
「それて、単純に全てを受け入れるって言う意志表示じゃないの。」
「初めは、僕もそう思ったけど。」そう言うと、薫は、由紀に少し長いキスをした後、
慎重に、彼女のスカートの中に手を滑らせた。薫の指が由紀のその部分に触れると、「あ」と言う小さな吐息を上げて、
「面倒だから、全部脱がしてよ。」そう言いながら薫にキスしてきた。
「だから、こういう状態に成っても、由香は全然濡れないんだ。」
「ふんーん、何それ、それじゃその先の事が出来ないじゃない。」
「うん、だから何時もそこで終わって、僕は由香を抱いたまま寝てる。」
「薫君、可愛そうだったね。それなら姉は処女のまま逝っちゃったの?」
「いや、だから一度だけ、本当に僕を受け入れてくれた。それが最後の夜で、別れの日だった。」
薫達は、ベットの上で向かい会いながら、互いの服を脱がせ初めていた。
「聞きたいな、それよりその時の様にしてみてよ。」
「それは、辛いな。それに由紀は由香じゃ無いし。」
「でも双子の姉妹だから、サイズは何所も一緒だよ。少し胸は私の方が大きいけど、それとオペの傷も無いけどね。」
「由紀は、由香の変わりに抱かれてると思ったら辛いでしょ。」
「うん、そうかな・・・まだ、引きずってる。」
「引きずって無いて言うと嘘になるけど、今は由紀を由紀として見ていられる様になった。だから、由紀としてなら抱いてもいい。」薫は優しく由紀の髪を撫でながら言った。
「私、最近、薫の子供が産みたいなって思ってるのよ。出来れば、双子の女の子で、二人とも元気で、子供の頃はこんな山の中で泥だらけになって遊ばせてやりたい。」
「うん、それは良いね。」
「え、じゃー子供作る。」
「ああ、そうじゃなくて、こんな山での生活は良いなって事と、それに子供がどうのと言う前にそれなりの手順があるでしょう。仕事とか結婚とか、社会的な手続きはそれなりにこなしてからじゃないと。」
「え、でも出来ちゃった結婚だって有るし。」
「まあ、それはそうだけど。」互いの服を脱がし終わると、二人の隙間を埋めるように抱き合いながら、由紀が訊いた。
「で、姉はどうだったの。」
「それは、由香にしか分からないよ。今となっては確かめ用もないけど、翌朝置き手紙を残して、先に出て行った。三日後に指定の場所に来て欲しいとの内容で、その後僕が行った時には辛うじて意識はあったけど、それから慌てて主治医に連絡して、札幌の病院に担ぎ込んだんだ。」薫は、由紀の左の乳房の下に手をやっていた。
「姉にもこんな風にしてくれた?」
「だから、今は由紀を抱いてるんだよ。」
「うん、ご免。姉も嬉しかったと思う。薫に抱かれて。」
双子の姉妹だけあって、体つきは本当によく似ていたが、あの時の由香は、この世の者とは思えないほど美しかったと薫は思い起こしていた。明け方近く、何時もの様にベッドに潜り込んで来た由香は、薫の腕にしがみつく様にして寝ていた。只何時もと違うのは、パジャマを着ていなかった。ふと気づいた薫が、由香が全裸である事を認識するまでには暫く時間が掛かった。由香が薫の耳もとで、小さく「して」と言って、薫の手を由香の下半身に宛がった時、由香の意図している事が理解できた。薫は時間を掛けて、由香の中に入っていったが、それまでの由香と違い堅く閉ざされたつぼみ様な体ではなく、暖かい母の様な体が薫を受け入れてくれた。白い体はほんのりと赤く染まり、何時も気になっていた左乳房の下の傷が消えたかの様にさえ思えた。夜が明けて、鳥達がさえずり出したのが聞こえる中、まるで由香の体の中にスッポリと取り込まれてしまった様に、白い光の中に居る薫の意識があった。そこには由香と旅した色々な光景が流れていた。そして何故か、数歩前に由香の様な姿があった。追いつこうとするとすーと離れて行く由香の姿は、初めて出会った女子校の制服から、白い巫女の様な姿に変わり消えていった。そして薫が目覚めた時には、既に由香は出て行った後で、短い文面の置き手紙だけが残されていた。
「いいよ、引きずっていたって。」由紀は、抱き合ったままでいる薫の耳元で言った。
「どうせ、双子だもの、忘れろって言う方が無理だし、由香の存在は私の一部でもあるし。無理して区別しなくても、私は、姉から託された様な気がするのよ、薫の事。」
「うん、そうかもしれない。」二人は、シーツにくるまりながら、互いの愛撫を受け入れていた。
「今考えれば、由香は何故最初から由紀を紹介しなかったのかな?僕との旅を始める前に。」
「そうしたら、薫と由香の時間が無くなってしまうからじゃ無いの?」
「ふん、そうかな。でも何故僕と・・・」
「あら、聞かされて無いの?」
「一応は、説明されたけど。でも直ぐに信じろって言うのも無理があった話だったし。」
「でもその話、本当かもよ。」
「ああ、分かってるよ。今となっては。全てが由香の意志のまま動いていたって。」
由紀は、悪戯ぽく薫の胸に頬を乗せながら、下半身を愛撫していた。
「本当は、薫の事最初から知っていたって言ったら怒る。」
「え、どういう事、それ。」
「私達姉妹は、小さい頃から仲が良くて、一日の終わりに成ると、お互い今日は何をしたかとか、どんな楽しい事が有ったとか、逆に嫌な目にあったとか、本当に細かい事まで話しをしてたの。体の弱かった姉は、元気な私の分の出来事をそうして自分の体験の様に取り込んで言わば仮想体験していたと言っても良いかもしれない。当然、私がロンドンに行った後も、日記の様にお互いの出来事をメールでやり取りしてたのよ。だから、薫の事も、姉が最初に薫に出会った時から知ってるわ。姉は、詰め襟姿の薫の写真を盗み撮りして、それを後から送って来たわよ。それだけじゃ無くて、こんな事の状況もね。姉は、薫君を満足させて上げられないのが辛いて。」
「ええ、それじゃ、僕の事は由紀に筒抜けになっていたわけ。」
「そうとも言えるかも知れない。でもあくまで由香を通しての話や情報だけどね。だから
私早く薫に逢いたかったの。姉の計画では、最後まで私を合わせるつもりじゃなかったのよ。姉は自分が死んだ後、自分の生まれ変わりの様な形で、私を薫に会わせるつもりだったらしいわね。その計画を私が少し書き換えちゃったのよ。初め姉はかなり怒ってたけど、いよいよ自分の死期が近づいているのを感じて、私に薫を託したんじゃないかな。」
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