健康

文字数 2,000文字

 朝起きると右の胸が痛い。しくしく痛い。呼吸のたびに痛いとかじゃなくて、じっと立っているだけでも座ってるだけでも痛い。椅子に座るとマシになるが床にぺったり尻をつけると痛みが増す。なんだこれは。おれは「右の胸が痛い」を検索した。胆嚢炎、肋間神経痛、気胸、心筋梗塞、エコノミークラス症候群、ストレスなどによる神経痛。
 おれには妙な確信があった。「肝硬変」。おれは煙草は吸わないが酒が好きで、毎晩少なくとも缶ビール三本は飲んでから寝るのだ。気楽な独り身である。酒だけ飲んで何も食わない日もある。おれは洗面台へすっ飛んで鏡を見た。心なしか、白目が黄色に濁っている気がする。それから自分の手足を見た。やはり黄色く変色している気がする。
 心を落ち着け、おれはいつもの癖でテレビの前の床にぺたんと座った。とたんに痛みがズキッと全身を貫いた。いけない。おれは立ち上がり、ワンルームの真ん中に立ち尽くした。そのまま十分が経過した。どうしよう。死。死。死死死死死死死死死死死死死死。足の裏から死がのぼってくる。
 五十三歳。いつ死んでもおかしくないのだ。ここ数年おれと同年代の友人知人がくも膜下出血、心筋梗塞ほかの「突然死」で死んでいる。おれは深呼吸し、郵便受けから新聞を抜き取り、テーブルに広げた。テレビ欄から順にめくっていく。すると「突然死」の文字が大ゴシック体で目に飛び込んできた。突然死って最近やたら多くないだろうか?
 そのうち新聞をめくる右腕がかすかに痺れていることに気づいた。半身不随。それは死よりもはるかに怖ろしい。流暢に文字が打てないから毎日続けているブログを自由に書けないし(ささやかなそれはおれの生きるよすがとなっている)、紙を右手でめくることすらできないのだから。
 おれをかわいがってくれた祖母は若い時から病気がちで、おれが物心ついた頃には糖尿病を患っていた。食べるのも飲むのも好きなグルメな人であった。病気は当然それが災いしたのだろう。同時にサプリメントおたくで、新聞テレビでよいと宣伝されるサプリをせっせと購入しては飲んでいた。今でもカロリミットを飲みながら飲み食いしている女子がたまにいるが、同じ感覚だろう。これさえ飲んでおけば大丈夫と思っているのだ。
 長年病院で治療していたものの、結局祖母は糖尿病から進行する癌で手足を真っ黒にして死んだ。 おれは祖母に似たのだろう。やたら新聞で広告を見るしじみ習慣を定期購入し、酒と一緒に毎日飲んでいる。しかし効果はなかったようだ。そりゃそうか、これだけ飲んでいるのだから。しじみ習慣が悪いのではない。
 おれは自己診断で肝硬変とあたりをつけた。テレワークで座ってばかりだからエコノミークラス症候群か、横暴な上司部下からもたらされるストレスによる神経痛の方かとも考えたが、これほど痛いものだろうか。それにおれは大酒飲みなのだから、肝臓と考えるのが自然だろう。肝臓は痛みを感じない臓器であり、これが痛いということはかなり病気が進行している証拠だともネットで知った。
 おれは昨年の健康診断書を探した。肝機能数値はたしか要検査ではなかったはずだ。が、探す途中で気づいた。ここ十年、胸部エックス線など放射線を浴びる検査は全拒否している。だって、余計に細胞が癌化しそうで怖いもん。肝臓なのか肺なのか何なのか、主だった結果がわからないから診断書を見てもあまり意味がない。
 今日は土曜日。病院に行くか。いや、行きたくない。「肝硬変がだいぶ進行して癌化してます。もう手遅れです。どうしてもっと早く来なかったんですか」と医者に叱られる様が目に浮かぶ。叱られるよりも宣告が怖い。死が怖い。怖い。怖い。死にたくない。
 おれは段ボール買いしていた缶ビールのプルタブを全て開け、長い時間をかけて中身を流しにどぼどぼと捨てた。空缶を「資源物(びん・缶・ペットボトル)」の大袋に詰め、とりあえずベランダに運んだ。指定日が来たら捨てよう。それから布団に横になった。いずれの臓器にも負担をかけぬよう仰向きの姿勢をとる。お腹がすいたが、何も食べる気がしない。まずは肝臓を休ませよう。肝臓にこびりついていると思われる脂をエネルギー変換するのだ。
 夜になった。空腹が増しているが米やパンを食う気がしない。少しでも何か食うと脂に変換され肝臓に蓄積する気がする。右胸はまだ痛い。腕も痺れている。ブログを書く気も起こらない。布団に仰向けになり、天井を見詰めた。おれは死ぬのかなあ。人生で一番大切なものは金でも名誉でも愛でもない。健康です。誰かが言った陳腐なセリフが天井を回っている。
 朝になり、仰向けのままで目が覚めた。右胸の痛み、腕の痺れが消えている。おれは右胸をそっと押さえた。痛くない。生の喜びが、どっと身体じゅうを満たし、おれの目尻を涙が伝った。起きようと、おれは身を起こした。今度は左胸が痛い。
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