第6話 夏の果て

文字数 1,397文字

 翌年、3年になった菜穂はまた樹と同じクラスになり、ひそかに喜んだ。

 去年の体育祭の出来事以来、二人の間に何があったというわけでもない。
 相変わらず菜穂と樹は交わることのない世界に属していて、席が離れてからはより一層会話することもなく、樹を遠くから眺めることしかできなかった。

 時々、あの日以来自分の中に芽生えた樹への説明のつかない感情について考えてみる。
 彼女と仲良くなりたい。
 話がしたい。
 できれば…わたしに向かって笑いかけて欲しい。
 だからと言って、彼女を取り囲んでいる輪の中に入って話しかける勇気など、とうてい持てなかった。

 この気持ちの正体は何だろう?
 今まで誰かを好きになったことすらないのだ。
 この気持ちが恋と断定できるものかどうかも分からなかった。
 恋愛にしては静かな感情…。それぐらいは菜穂も気づいた。
 好きって、こういうもの…?
 なんかもっとこう、盛り上がるような感じではないの…?
 ぼうっと考え込んで、勉強の手が止まってしまう。
 そしてはっと我に返り、あわててシャーペンを動かすのだ。
 その繰り返しだった。

 樹のほうは相変わらずの陸上と進学とで、多忙を極めているようだった。
 受験といっても陸上で好成績を残せば、推薦で入れる。
 そうかといって勉強をおろそかにはできない。
 樹だけではなく、菜穂も志望大学に向かって気をひきしめて成績を上げることに励む毎日だった。

 一学期はあっという間に過ぎ、夏休みを迎えた。
 インターハイは8月に行われる。
 樹は200mに出場する予定だった。

 しかし、結局樹は大会に出なかった。

 菜穂がはじめてその事情を知ったのは、二学期が始まってからである。
 その頃にはすべてが様変わりしていた。

 樹が学校に来なくなった。
 担任も詳しくクラスの生徒たちに話さない。
 あれだけ樹の周りに群がっていた子や友人たちも、まるで最初から樹など存在しなかったかのように過ごしている。

 菜穂は思い切って樹と仲の良かった女子に、聞いてみた。
 ——なんかよくわかんないけど、膝を悪くしちゃったんだって。
 菜穂が得た情報は、それだけであった。

 帰宅後、急いでネットで調べてみた。
 陸上選手がなりやすいケガや事故についてはいくつかあり、結局菜穂にはよくわからなかった。
 きっと担任に聞いても、詳しくは教えてくれないだろう…
 だけど、今3年なのに、いったいどうするのか。
 この時期に不登校など、進路を考えると破滅的だった。
 菜穂にとって焦りや心配、不安な気持ちで落ち着かない日々が過ぎた。

 季節は駆け足で過ぎて行く。
 まだ晩夏の余韻が残っていた新学期のざわめきも落ち着き始め、涼やかな秋の気配を感じるようになった。
 そして学校にとって、秋はイベントの季節。
 校内の雰囲気は体育祭と文化祭という二大行事に向けて、あわただしく動き出していた。
 クラスでも、それらのことについて話し合いを持つことが多くなっていた。
 担任や他の生徒たちの話をぼんやりと聞きながら、菜穂は心ここにあらずだった。

 だが「リレー」という言葉をふいに聞いた時、菜穂ははっとした。
 昨年のことを思い出した。
 昨年の樹。
 わたしの後ろの席にいて、いつも彼女の声を聞いていた。
 何かを書いたり、教科書を開いたりする彼女の気配を感じていた。
 少しも興味のないふりをしながら。

 菜穂は机の上で両手を固く握りしめた。
  
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