旅する人

文字数 1,699文字

 鍵穴に鍵を差し込む前に、ドアを開けてみる。
 ドアは開かない。
 朝、施錠して出かけたのだからそれでいい。
 閉めたはずの鍵が開いていないか確かめるのは防犯のためだけではなく。
 あの人が帰っているかもしれない、そんな思いを捨て切れないでいる。


「うにゃあ」

 玄関に鎮座したぽてが一鳴きして迎えてくれる。

「ただいま」

 顎を撫でると、ぽてはピーンとしっぽを立てて私の足に体を擦り付ける。

「お留守番ありがとう」

 ぽては安心したようにベッドに飛び乗りごろごろしている。

 窓から小さな夜景が見える。田舎でも都会でもない街。橋の(たもと)の信号が赤になり、車がゆっくり停まる。歩行者信号が青になるのを待って足踏みしていたランナーが走り出す。

 ベランダの窓に隙間を開けて煙草に火を点ける。煙を肺まで吸い込んで吐き出す。煙草なんかを美味しいと感じるようになるなんて。
 7箱あった煙草は残り4箱になった。全部なくなったら私は煙草を買うだろうか。私の体はニコチン依存を起こしているだろうか。
 吸い終えた煙草を瓶に入れて蓋を閉める。瓶の中に白い煙が充満してゆっくり消える。瓶の内側は煙草の(やに)で茶黒くなっている。私の肺もこんなふうに汚れているのだろうか。

 (たもつ)の鎖骨が好きだった。
 四角くて柔らかい手が好きだった。

 ぽてはすぐに有と仲良しになった。他の友達が来るとベッドの下に隠れてしまうのに、有とは昔からの知り合いのように懐かしそうにキスをした。

 有は春から秋までこの部屋にいた。

 旅をしてはその先に住み着く。数か月のこともあれば数年に及ぶことも、と有は話した。
 通りすがりのように旅先を立ち去れないのだと。

 ここの前は西端の島で2年暮らしたそうだ。島の人からパイナップルや泡盛やお餅のお菓子が送られて来た。
 私は訪れたことのない島の食べ物を食べ、お酒を飲んで、有の話を聞きながら海の色を思い浮かべた。

 いずれこの街からいなくなる。考えたら当然のことなのに、私は有との暮らしに結婚を夢見た。

 どうして叶うはずのない夢を見たのだろう。
 それまで誰に結婚しようと言われてもその気になれなかったのに。

 もしかしたら有はここで旅を終えるかもしれない。
 旅をしてもまたここへ帰って来るかもしれない。
 私との暮らしを手放さないかもしれない。
 そんな微かな期待を抱いた。

 ある日、有が観葉植物の鉢を抱えて帰って来た。
 ゴミ置き場に置かれていたそれは鉢が欠け、葉が枯れかけていた。
 有は新しい鉢を買って来て新しい土に肥料を混ぜて入れ、その植物を植えた。
 枯れた葉を取り除き、水をやり、葉の埃を拭いて温かい日はベランダで日に当てた。

 植物は徐々に元気を取り戻し、緑がつやつやし、新芽を出した。
 ぽてと植物と私、有はどれも同じように大切にした。

 私達は家族になった。
 きっと有は出て行かない。

 秋風が吹き始めた頃、部屋に戻ると有のバックパックがなくなっていた。

 でも数日前に有が買ったワンカートンの煙草はあと7箱置いてあった。
 有が吸い殻入れに使っていた瓶は空っぽになっていた。

 スマホでメッセージを送ってみた。

《どこかへ行くの?》

 翌日、有から返事があった。

《行き先が決まったら連絡するね》

 有は合鍵を持ったままだ。
 きっと帰って来る。
 私はぽてと植物と7箱の煙草と、有の帰りを待った。

 そのうち、ぽても植物も煙草も有を忘れた。私だけが有の帰りを待っていた。

 北風が地面を冷やす頃、私は有が置いて行った煙草を吸った。ちっとも美味しくなくて臭くて髪が傷んだ。
 それなのに、それから毎日煙草を吸った。
 肺まで吸い込むと少し寂しさが紛れるような気がした。

 植物の世話は私が続けている。ぽても植物も私も元気に暮らしている。

 年が明けてみかんと小さなシュークリームのようなお菓子と合鍵が入った包みが届いた。

 今度はみかんの街で暮らしているそうだ。

 それから5年。
 私は夫と生まれて半年の子どもとぽてと植物と暮らしている。

 最後の一箱を吸い終えた後、私は煙草を買わなかった。
 吸い殻入れに使っていた瓶は捨てた。
 私の肺は綺麗に戻っただろう。

 今もたまに海の夢を見る。



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