第三十四話 離別
文字数 2,122文字
--グォォォォ!
覚えのない叫声が辺りに響いた。
大半の感覚を馬の目に任せ、暗闇を駆けているだけに、よりその鋭い感覚は尖る、刺さる。
「山渡りか!何故こんな場所に!」
"山渡り"。栗毛髪の青年が放ったその言葉は、この国の標高の高い山々に住み着く、猪のような獣の存在を指す。
山渡りは、一匹の首領を筆頭に、四、五匹の群れで生活する。滅多な事がない限り人前に姿を現す事はない。本来であれば。
(……騒ぎを聞いて降りてきたと言うのか!?)
「オリビアさん!先へ!」
少女はもはや白馬に信頼を寄せている。微かに見える木々の隙間から覗く黒い影への存在も、この背に乗る限り、恐れを知らない。
(私にしか出来ないこと……)
やはり伝説の白馬は速い。疲れを見せるどころか、青年の新たな馬にも優に勝る程である。背後には、かの退魔の槍先があろうと、禍々しい緑色の魔法の存在は微かながらにも認知できている。真っ先にこの"荷物"を届ける事。それが自分に課せられた役目なのであると、知り得ていた。
信頼の対象は、白馬だけでなかったようだ。いや、現実を見る事を少し覚えたのかもしれない。少女は、やや遅れ気味の並走する馬の主に対し無言で頷くと、跨る白馬の尻を叩いた。
(……やるしかない!)
青年は、弓を引いた。
--ガァァァ!
流石と言うしかない、技量である。暗闇を割いた一矢は、山渡りの数を一つ減らしたようだ。
青白く輝く雪面に映る、黒い影が大きくなる。
--ガァ!
--ドサッ。
間髪入れずに放たれた矢は、脳天を打ち抜き、雪面に赤の雨を降らす。その雨も一息の通り雨ではなかった。中指と薬指の間。一矢目とは違う場所に置かれた矢は、白馬を追おうとする影二つを地面に落とした。
再び弓の弦が音をたてる。
(……何!)
矢は、確かに鈍い音を立てた。だがそれを受けた影は、もろともせず、こちらへと向かってくる。
近づく影が雪に反射した微かな光を受け、徐々に姿を現した。次の標的へとされたそれは、青年の知る山渡りのものとは遥かに大きいものであった。思えば無理もない話である。ガルダの爪の"選定"の目を通り抜ける程の強者であるのだから。
額から生える、大きなうねりを見せる角。隆々と盛り上がる筋骨。聞かずとも、人知れずこの山の奥地で歴戦を重ねてきたのが伺える。この僻地、エルビスの大自然の中で生き残る事が、いかに至難であるのか、青年に諭そうとせんばかりである。
(向かえ打つしかない!)
青年は再び、背にある矢筒に手を伸ばした。すかさず中指と薬指にそれをかけた。
--グォォォォオ!
迎え来るその咆哮は、青年の乗る馬を震え上がらせた。思わず立ちすくみ、今にも背を向けようとせんばかりである。
(もう少しだ!耐えてくれよ!)
まさに馬が反転しかけた瞬間、青年は迫る来る山渡りに矢を放った。
--ガァァァアアアア!
一矢目は眉間を。そして二矢目が、見事に山渡りの左目に突き刺さり、致命傷を負わせた。
山渡りの叫びを聞いた馬が、まさに背を翻した瞬間。青年はその馬から飛び降りた。
(このナイフなら、やってくれるはず!)
青年は弓矢を捨て、懐からナイフを取り出した。それから数秒。これでもかと言わんばかりに、山渡りに向けて駆け出した。この隙を逃してやるものか。自身より一回りも大きい相手ながら、迷いなど微塵もない様である。
「うぉおおおお!」
--グォォオァァァアアアア!
見事な一閃であった。痛みに仰け反る山渡りの腹元に、青年のナイフが深く突き刺さった。何も、苦境とはエルビスだけにあるわけではないのだ。彼もまた、多くの”戦”を乗り越えてきたのである。
赤い大きな滝が、雪原に生まれた。
頭上でのたうつ山渡りが静かになったのを見計らい、青年は両腕に力を込めた。均衡を失った、山渡りは大きな音と共に、雪面に倒れこんだ。
ここまでの巨体とは。青年二人分の大きさはあろうものである。彼ほどの実力者でなければ、まず成し得ないことであろう。
両膝を突き、勝利に安堵する青年の背後で、自身が乗っていた馬の足音が鳴り、徐々に遠のいていく。それは、この先で起きている魔法との戦闘、そして仲間たちとの離別を伝える知らせでもあった。ただ、ここで佇んでも仕方がない。幸いにも、おそらくこの先で仲間が向かうであろう行く先は予測できた。
(……グリンデ様なら、きっと勝利へ導くはずだ)
青年は強い願いを胸に、一人、地吹雪の舞う森の中を歩きだした。
「……この先だ。この先に切り立った崖がある。向かえば良いのか?」
「……いや、待て。もう少しで我の仲間が来るはずだ。ここいらで時を稼ぐぞ」
魔女らを乗せた黒馬は、相も変わらず、象骨に追われ、雪原を駆けていた。
(……急げよ、小娘)
魔女は既に予測していた。かの”荷”は、リアムではなく、オリビアの乗るシルキーに積まれていると。決して、青年が離別することを予期していた訳ではなかったのだが、やはり効率を踏まえてその選択を選ぶであろうと読んでいたのである。
馬の体力も無限ではない。この黒馬も、いくら優れた馬とは言え、象骨のほうが勝うるかもしれない。全ての命運は白馬、そしてその白馬に跨る少女に委ねられていた。
覚えのない叫声が辺りに響いた。
大半の感覚を馬の目に任せ、暗闇を駆けているだけに、よりその鋭い感覚は尖る、刺さる。
「山渡りか!何故こんな場所に!」
"山渡り"。栗毛髪の青年が放ったその言葉は、この国の標高の高い山々に住み着く、猪のような獣の存在を指す。
山渡りは、一匹の首領を筆頭に、四、五匹の群れで生活する。滅多な事がない限り人前に姿を現す事はない。本来であれば。
(……騒ぎを聞いて降りてきたと言うのか!?)
「オリビアさん!先へ!」
少女はもはや白馬に信頼を寄せている。微かに見える木々の隙間から覗く黒い影への存在も、この背に乗る限り、恐れを知らない。
(私にしか出来ないこと……)
やはり伝説の白馬は速い。疲れを見せるどころか、青年の新たな馬にも優に勝る程である。背後には、かの退魔の槍先があろうと、禍々しい緑色の魔法の存在は微かながらにも認知できている。真っ先にこの"荷物"を届ける事。それが自分に課せられた役目なのであると、知り得ていた。
信頼の対象は、白馬だけでなかったようだ。いや、現実を見る事を少し覚えたのかもしれない。少女は、やや遅れ気味の並走する馬の主に対し無言で頷くと、跨る白馬の尻を叩いた。
(……やるしかない!)
青年は、弓を引いた。
--ガァァァ!
流石と言うしかない、技量である。暗闇を割いた一矢は、山渡りの数を一つ減らしたようだ。
青白く輝く雪面に映る、黒い影が大きくなる。
--ガァ!
--ドサッ。
間髪入れずに放たれた矢は、脳天を打ち抜き、雪面に赤の雨を降らす。その雨も一息の通り雨ではなかった。中指と薬指の間。一矢目とは違う場所に置かれた矢は、白馬を追おうとする影二つを地面に落とした。
再び弓の弦が音をたてる。
(……何!)
矢は、確かに鈍い音を立てた。だがそれを受けた影は、もろともせず、こちらへと向かってくる。
近づく影が雪に反射した微かな光を受け、徐々に姿を現した。次の標的へとされたそれは、青年の知る山渡りのものとは遥かに大きいものであった。思えば無理もない話である。ガルダの爪の"選定"の目を通り抜ける程の強者であるのだから。
額から生える、大きなうねりを見せる角。隆々と盛り上がる筋骨。聞かずとも、人知れずこの山の奥地で歴戦を重ねてきたのが伺える。この僻地、エルビスの大自然の中で生き残る事が、いかに至難であるのか、青年に諭そうとせんばかりである。
(向かえ打つしかない!)
青年は再び、背にある矢筒に手を伸ばした。すかさず中指と薬指にそれをかけた。
--グォォォォオ!
迎え来るその咆哮は、青年の乗る馬を震え上がらせた。思わず立ちすくみ、今にも背を向けようとせんばかりである。
(もう少しだ!耐えてくれよ!)
まさに馬が反転しかけた瞬間、青年は迫る来る山渡りに矢を放った。
--ガァァァアアアア!
一矢目は眉間を。そして二矢目が、見事に山渡りの左目に突き刺さり、致命傷を負わせた。
山渡りの叫びを聞いた馬が、まさに背を翻した瞬間。青年はその馬から飛び降りた。
(このナイフなら、やってくれるはず!)
青年は弓矢を捨て、懐からナイフを取り出した。それから数秒。これでもかと言わんばかりに、山渡りに向けて駆け出した。この隙を逃してやるものか。自身より一回りも大きい相手ながら、迷いなど微塵もない様である。
「うぉおおおお!」
--グォォオァァァアアアア!
見事な一閃であった。痛みに仰け反る山渡りの腹元に、青年のナイフが深く突き刺さった。何も、苦境とはエルビスだけにあるわけではないのだ。彼もまた、多くの”戦”を乗り越えてきたのである。
赤い大きな滝が、雪原に生まれた。
頭上でのたうつ山渡りが静かになったのを見計らい、青年は両腕に力を込めた。均衡を失った、山渡りは大きな音と共に、雪面に倒れこんだ。
ここまでの巨体とは。青年二人分の大きさはあろうものである。彼ほどの実力者でなければ、まず成し得ないことであろう。
両膝を突き、勝利に安堵する青年の背後で、自身が乗っていた馬の足音が鳴り、徐々に遠のいていく。それは、この先で起きている魔法との戦闘、そして仲間たちとの離別を伝える知らせでもあった。ただ、ここで佇んでも仕方がない。幸いにも、おそらくこの先で仲間が向かうであろう行く先は予測できた。
(……グリンデ様なら、きっと勝利へ導くはずだ)
青年は強い願いを胸に、一人、地吹雪の舞う森の中を歩きだした。
「……この先だ。この先に切り立った崖がある。向かえば良いのか?」
「……いや、待て。もう少しで我の仲間が来るはずだ。ここいらで時を稼ぐぞ」
魔女らを乗せた黒馬は、相も変わらず、象骨に追われ、雪原を駆けていた。
(……急げよ、小娘)
魔女は既に予測していた。かの”荷”は、リアムではなく、オリビアの乗るシルキーに積まれていると。決して、青年が離別することを予期していた訳ではなかったのだが、やはり効率を踏まえてその選択を選ぶであろうと読んでいたのである。
馬の体力も無限ではない。この黒馬も、いくら優れた馬とは言え、象骨のほうが勝うるかもしれない。全ての命運は白馬、そしてその白馬に跨る少女に委ねられていた。