第6話
文字数 1,312文字
夜は、凪にとっての避難場所だった。
静まり返った暗い歩行者通路を、当てもなくふらふら歩いた日。生まれて初めて、自由だと思った。親から、家から、解放された。社会が眠りについている。けれど時々、自分と同じように、電気の点いている部屋がある。起きているのは赤の他人だ。縁もゆかりもないどこかの誰かの存在が、凪にとっての共同体だった。
「病院は?」
「行かない。治らない」
「何で決めつけるの?」
「生まれつきだから。俺は赤ん坊の頃から寝れない子だった。それで母親は産後うつになった。後はどうやって育ったのか記憶にない。金がかかるから病院には何度も行かせられないって、父親は言った。俺は受け入れた。だからこれからも受診することはない」
まゆはひどく悲しそうな顔をした。
「お前が落ち込むことないのに」
余計愛しくなってしまう。
二言目は言わないでおいた。
まゆが再び顔を上げた。
熱っぽい瞳で、凪を見つめる。火だと思った。自分が付き合う女は誰もが何かに燃えていた。
「好き」
告げられた。胸の中に、こらえ切れない感情が潮騒のごとく響き渡る。
「凪が好き。好きだよ」
唇を噛みしめた。
手を伸ばしてもいいのだろうか。
定職にも就けない、一日の生活を生き抜くことがやっとの、低賃金労働者の。
「この先どうなるかわからない。でも今、凪の過去の一部を知れてよかった。凪のことが見えた気がして、嬉しくなった。もっと教えてほしい。私にいろいろな面を見せて」
どんな言葉を伝えればいいのか、今まで凪は熟知しているはずだった。こう返せば相手は気持ちよくなるだろう、納得するだろうと、人の感情を受け取るのが得意だと思っていた。
口ごもる自分は、正直かっこ悪い。取り繕う術も忘れた。
「まゆ」
「ん?」
目の前の女は柔らかく微笑む。どんなタレントよりも美しく。
「キスしたい」
まゆは笑った。心から幸福そうに。
「恥ずかしい台詞だね」
「うん、俺もそう感じる」
互いに笑い合った後、甘くこそばゆい雰囲気が流れた。
彼女が目を閉じる。
凪は一歩ずつ近づいていった。
相手の身体にふれた。
自分とは違う柔らかな肌触り。手を握った。細くて長い指だった。俺のよりずっと小さいんだなと、心に疼く密かな色欲を感じた。この上ない愛情も。
まゆの手を握りしめたまま、唇にそっと、自分のものをあてがう。
反応を探るように、機嫌をうかがうように、慎重に。
まゆは凪のキスに応えた。
受け入れられた。
言いようのない寂しさが埋まったような、包まれるような安心感が、染み渡った。
(ありがとう)
恋人を抱きしめた。今度は強く。
足りない、与えられない、持っていないと嘆いていた今までの己を、存在ごと肯定してもらえたかのような、満ち足りた感情が胸の内に迫った。枯渇していた心が、深い川底へ沈んでいく。
まゆの腕が背中に回った。
細い力だった。懸命にこちらを求める温もり。
与え返したいと、生まれて初めて凪は思った。
その瞬間、自分の中に棲むどうしようもない小さな男の子が死んだと、悟った。
終わったのだ。
冷たい夜風が吹いた。
なんてことのない寒気。
凪とまゆは、支え合うように互いの熱を抱きよせていた。
静まり返った暗い歩行者通路を、当てもなくふらふら歩いた日。生まれて初めて、自由だと思った。親から、家から、解放された。社会が眠りについている。けれど時々、自分と同じように、電気の点いている部屋がある。起きているのは赤の他人だ。縁もゆかりもないどこかの誰かの存在が、凪にとっての共同体だった。
「病院は?」
「行かない。治らない」
「何で決めつけるの?」
「生まれつきだから。俺は赤ん坊の頃から寝れない子だった。それで母親は産後うつになった。後はどうやって育ったのか記憶にない。金がかかるから病院には何度も行かせられないって、父親は言った。俺は受け入れた。だからこれからも受診することはない」
まゆはひどく悲しそうな顔をした。
「お前が落ち込むことないのに」
余計愛しくなってしまう。
二言目は言わないでおいた。
まゆが再び顔を上げた。
熱っぽい瞳で、凪を見つめる。火だと思った。自分が付き合う女は誰もが何かに燃えていた。
「好き」
告げられた。胸の中に、こらえ切れない感情が潮騒のごとく響き渡る。
「凪が好き。好きだよ」
唇を噛みしめた。
手を伸ばしてもいいのだろうか。
定職にも就けない、一日の生活を生き抜くことがやっとの、低賃金労働者の。
「この先どうなるかわからない。でも今、凪の過去の一部を知れてよかった。凪のことが見えた気がして、嬉しくなった。もっと教えてほしい。私にいろいろな面を見せて」
どんな言葉を伝えればいいのか、今まで凪は熟知しているはずだった。こう返せば相手は気持ちよくなるだろう、納得するだろうと、人の感情を受け取るのが得意だと思っていた。
口ごもる自分は、正直かっこ悪い。取り繕う術も忘れた。
「まゆ」
「ん?」
目の前の女は柔らかく微笑む。どんなタレントよりも美しく。
「キスしたい」
まゆは笑った。心から幸福そうに。
「恥ずかしい台詞だね」
「うん、俺もそう感じる」
互いに笑い合った後、甘くこそばゆい雰囲気が流れた。
彼女が目を閉じる。
凪は一歩ずつ近づいていった。
相手の身体にふれた。
自分とは違う柔らかな肌触り。手を握った。細くて長い指だった。俺のよりずっと小さいんだなと、心に疼く密かな色欲を感じた。この上ない愛情も。
まゆの手を握りしめたまま、唇にそっと、自分のものをあてがう。
反応を探るように、機嫌をうかがうように、慎重に。
まゆは凪のキスに応えた。
受け入れられた。
言いようのない寂しさが埋まったような、包まれるような安心感が、染み渡った。
(ありがとう)
恋人を抱きしめた。今度は強く。
足りない、与えられない、持っていないと嘆いていた今までの己を、存在ごと肯定してもらえたかのような、満ち足りた感情が胸の内に迫った。枯渇していた心が、深い川底へ沈んでいく。
まゆの腕が背中に回った。
細い力だった。懸命にこちらを求める温もり。
与え返したいと、生まれて初めて凪は思った。
その瞬間、自分の中に棲むどうしようもない小さな男の子が死んだと、悟った。
終わったのだ。
冷たい夜風が吹いた。
なんてことのない寒気。
凪とまゆは、支え合うように互いの熱を抱きよせていた。