第3話 強がり男の言えなかった心(後編)

文字数 2,461文字

 月風庵の夜は、とても静かだった。

どうしてこんなに静かなんだろうと言うくらいで

虫の音も鳥の声も聞こえず、ただ昏い闇がぼぉと広がり続けている。

 とても寝付けることが出来ず、体を起こす。

 枕元だけ照らす明かりをつけて、布団脇に置かれた小瓶の水を飲み干した。



 ぼんやりとした頭で今何時だろうと思った。

思考はこの宿に来る前に戻っている。

 彼女に恋人が出来て、挨拶までされて……

 彼女にとっては自分はきっと保護者のような感じだったのだろう。

 そうじゃない、そうじゃないのに……。

自分にとってこの状況はあまりにもあんまりで、受け入れるにも心が拒否する勢いだった。



「くそ……」



 乱暴な言葉が出た、しかしその言葉の勢いはあまりに弱く、負け犬の嗚咽そのものだった。

どうして彼女のことを好きになってしまったのだろう。深く考えると頭痛がする。

 健司の中にあるのは、醜く蠢く執着心だけだった。

 けれどその感情をどうしたらいいのか分からない。

自分の気持ちをオブラートにつつみ、上手に悟らせないようにすることに長けていたから




 健司は、自分の気持ちを現すことが、下手くそになっていた。




「もし……」



 声が聞こえた。

なんだと思ったら、雨音がそっとこちらを見ていた。

こんな……恐らく真夜中にとぎょっとしたが、彼女の顔を見ると何故かホッとする自分がいた。 

 世界中に人はあふれかえってるはずなのに、独りぼっちなのではと錯覚しそうな夜だった。



「なんだ、雨音さんか」



「はい、様子伺いにこっそりと来てたんですけど……どうやら起きていたようなので」



 雨音は口の端を柔くあげた。



「つい、声をかけましたよ」



「そうなのか……」



 健司は頷き、再び水をぐっと喉の奥へ流した。

少し頭がさえてきた。だるさが残る体が、元気になった気がする。



「気分、大丈夫ですか?」



 雨音は健司の額に触れようとする。その自然の動きにドキッとしてしまったが

そのまま、額に彼女の手が当てられる。

 冷たいわけではないけど、体温が低めなのだろうか……心地よい温度だった。

 ただ、されるがままに。健司はじっとした。



「熱はないみたいですね」



「風邪とか、ひいてないから」



「そうですね、そうみたい」



 クスッと雨音は微笑む。

しかし何かがひっかかるという様子で、目を細める。



「でも気分は悪かったみたいですね……顔色あまりよくないですよ」



「まあ、そうかもしれない」



「何でそんなに辛そうなのですか……?」



 なんの裏もなさそうな、ただ優しいだけの声。

それを聞いてると何だか、言葉が出そうになった。

でも口を開いて、健司は……口を閉じそうになる。

 人に自分の気持ちをありのまま伝えることなんて……そんなことをして大丈夫なのだろうか。     



「……大丈夫ですよ、何が大丈夫かと思うかもしれませんけど」



 雨音は健司の肩を叩く。



「私はあくまでここだけの関係、あなたの人生から見ればただの端役ですよ」



 彼女は優しく語り続ける。



「だから、何も怖くない」



 なんだろうか、自分の中で箍(たが)が外れた気がした。ガキンッという音が頭の中で響いた。

健司は雨音の肩を掴んだ、自分でも驚くほど強い力だった。普通だったら悲鳴をあげられそうなくらいだ。

 さすがの雨音も痛みをこらえるような顔をしたが、それでも弱々しくも笑んだ。



「大丈夫……どうしてそんなに辛そうなの」



 かみつきたくなる衝動だ。ああ……感情を表に出すと言うことはこんなに苦しいものなのか。

こんなにひどいものなのか。本当に出したことがないから、どう制御すればいいのか。

 嵐に翻弄される小舟のような気分だった。

 それでも声を、前に踏み出すように出す。



「なんで、俺じゃ駄目だったんだよ……」



「なんで他の男にへらへらしてんだよ……!」



「俺、好きだったんだよ」



「本当に好きだったんだよっ!!!」 



 雨音の胸に頭を強く押しつけ、呪うように言葉を吐く。

雨音は俺の背中に手を回し、ただ撫でていた。



「いいの、辛かったんだね、言えなかったんだね」



 その言葉を聞いた瞬間、ハッとした。

 今まで気づいてないことに気がついた……という衝撃。

 そのインパクトの強さにどうすることも出来ず、唇を噛んだ。




 健司の人生は自制が常につきまとっていた。

自己を守るため、かっこ悪く生きないようにするため、人とうまくいくために

 ただ自制を何度も繰り返してきた。



 

 けれども本当にそれは必要なことだったとしても

自分は「やりすぎ」てはいなかっただろうか。

 自分の心の声を出せなかったことが、失恋よりもずっと胸に堪えた。




「うぅ……くっ……ああぁ」

 

 最終的には言葉にならなかった、うめき声と嗚咽だけが口からこぼれていた。

自分の本当の痛みを知ってしまったからだろうか。

 痛みは赤子のように泣き叫んでいる。

 雨音はそっと囁いた。



「ここ、月風庵は悩みや痛みを抱えたことを縁にして、お客を招く宿」



 

「あなたは今、本当に苦しんでいるでしょう」




「なら、私はあなたの痛みのそばにいます」




「明日、あなたがちゃんと朝をむかえられるように」




 その言葉が何よりも俺の心にすっと入り込んだ。

俺は雨音から体を離し、その細い手のひらに顔を押しつけた。



 

「ごめん……俺の話、聞いてくれ……」



 

 健司の言葉に呼応するように、雨音はゆっくりと頷いた。

 夜は永い、時計の針は淡々と、時を刻んでいく。
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登場人物紹介

雨音……お宿月風庵の女中。明るく優しい茶目っ気もある、女性。仕事は少し要領が悪い

花芽……月風庵の女中、雨音より先輩になる。体型は少女と言ってもおかしくないほどに幼さが残るが、雰囲気はとても落ち着いている。声フェチである。

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