その日、彼女は運命と再会した。

文字数 4,631文字

満月が欠けている。三日月という意味ではない。円錐形は知っているだろうか。今の月はちょうどあの形だ。そしてもう、この星の月は、これ以上満ちることはない。
私は望月満。満月に因んで名づけられた女だ。私が働いている間に、満月が円形でなくなったと、三年前に死んだ両親が知ったらどう思うか。そうぼんやり思った。
一人暮らしのワンルームのベランダに椅子を置いて座ってから、ゆっくりと回転している月を見る。今日の月は、とんがった頂点がくるくると、青空のあちこちを指さしてまわっている。
今日は日曜日、休日だ。私はいつものように暇を持て余している。
眼下に見える通りでは、近所の住民による井戸端会議が盛んに行われている。もしくは、通行人が空を眺めてはスマホを覗き込んでいる。月が欠け始めてからよく見られるようになった光景だ。
月が大きく、昼も夜も見られるようになった代わりに、どんどん欠け始めている。最初は見間違いかと思うほどの削れが、今でははっきりと、形を変えるまでになりつつある。
このままでは、月はなくなってしまうと人々は噂している。沈黙する国やマスコミがその裏付けとなってしまっている。
月がなくなりつつある今、様々な影響が出始めている。風が強く吹くようになったのも、海鮮物が食べられなくなったのも、月がいなくなりつつあることに遠因がある、はずだ。
私は缶ビールを開けて、一口飲んだ。もともと魚は苦手だ。風も気にならない。私の今の生活に問題はない。ああ、一つ、問題があった。隣人の騒音問題だ。
がたがたと隣の部屋から音がする。隣人が起床したらしい。自分と同じくらいの大きさのワンルームに住んでいるのに、なぜ何周も、どたどティーン回る必要があるのだろう。
ひとしきり、暴れているとしか思えない音の後、ガラガラッと乱暴にベランダに通ずる窓を開け放つ音がする。
そして、いつもこう嘆く。
「ああっ、また欠けてる。もう時間がない、クソッ」
毎朝だ。月が欠け始めてから毎日毎日、もううんざりだった。
「毎朝うるさい。嘆く暇あったら休め、クソ科学者め」
アルコールで滑った口を押える。
隣室をおそるおそる様子を伺う。ぴしゃりと窓を閉じる音と、再びどたどたと走る音を聞くに、私の暴言は彼女に聞こえず、モーニングルーティーンに戻ったらしい。
いらない諍いは起こしたくない。ほっと息を吐いた瞬間だった。

玄関のチャイムがけたたましく、何度も連打される。出ないと判断したのか、ドアを何度もノックする音まで聞こえる。

思わず飛び上がった。ベランダにまで響く音量のノックだった。隣人の顔は見たことがない。中性的な聞き取りやすい声をしていることしか知らないのだ。つまり、筋骨隆々で短気な性格な可能性もある。
「今出ます!」
首元にこぼしたビールを拭く暇もなく、来訪者は応対を急かしてくる。私はくたびれた格好そのままに、ベランダから玄関まで駆け抜け、ドアを開け放つ。
アルコールに緩んだ頭にも、不機嫌な表情はよく見えた。
「……聞こえました?」
隣人は筋骨隆々ではなかった。ただ、白いTシャツに黒いデニム、革靴のラフな格好をの、涼やかな顔をした女だった。街を歩けば五人はいそうな、しかしモテそうな華やかな雰囲気を持っていた。
知っている女だった。へらりと笑う私を、今、彼女は睨んでいる。
「先輩、本当にあの、切れ者の先輩?」
「どの先輩かは知らないけど、お前は私の仲の良い後輩だよ」
「ああ、私は貴女に、敬語は使わなくて良いと言われた、男口調の、仲の良かった後輩だ」
ともかく、と彼女は咳ばらいをする。
「お前の言葉は聞こえた。あの、クソ科学者という言葉は、私だとわかっての言葉か」
「いいや、違うよ」
数年間、ほぼ毎日、大学のゼミで顔を合わせていた仲だったが、私が就職してからあっていない。
もう一度、後輩は咳ばらいをした。
「なるほど、誰だかわからずにあの言動。ならば、機密事項をどれだけ知っているか聞かせろ」
「機密とは、どれことやら」
「どうやら、腹を据えて話す必要があるな。この忙しい時期に手間をかけさせやがって」
「わかった。よし、少し待って」
威圧的な彼女の前に、大学時代のように手を広げる。そうして時間稼ぎをした私は、手早く彼女の部屋を訪問する支度を整えて、
その間、後輩はなんとも言えない顔をしていた、と思う。

「粗茶だけど」
そっと部屋から持ってきた飲み物をちゃぶ台に置くと、彼女は困惑した表情を見せた。
「大人が缶ビールを手土産に出すなよ」
「そう言っても、今の私の家にはこれしかなくて」
「航海時代の船かよ」
「レモンもないよ。脚気不可避」
黙って後輩は、冷蔵庫の扉を開けて、何も出さずにそのまま閉じた。
「激務だと食料品を買う時間がない。わかる」
何か言いたげな表情は、大学で最後に見たのと同じ表情だった。声は忘れていたが顔は覚えていることに充足感を覚えて、缶ビールを開ける。
「朝からビールとは、変わったな」
「大人が休日に何をしても良いでしょ」
「私の声で科学者だと看破したのは? 機密を握るスパイなら休日でなく、業務中だろう」
「違う。この月を見て本気で嘆くのは、科学者だけだと知っていただけ」

途端、後輩は憐れんだ表情を見せた。

「その顔、やめろ」
注意してもやめないのは、彼女が勘違いしているからだ。
宇宙工学博士の後輩は、就職した私を心底憐れんでいる。この人類滅亡寸前の日曜日に、何も出来ずにいる、そう思っているに違いない。
私はゆっくりと立ち上がる。
「なんですか」
後輩は、慌てると動揺になる癖がある。これも変わっていなかった。
私は、わざとらしく、にっかりと笑った。
途端に彼女は、嫌な表情を隠さなくなる。
「その顔の先輩に良い思い出ないんですけれど」
「まあ、黙って座ってな。どうせ無断出勤するつもりだったんだろう。図面仕事はどれだけ時間をかけても足りない業務だが、休むのも仕事のうちだよ」
押し黙る後輩の手を取る。
「知っているかな、手の皺の数は寝不足なほど増える。手相鑑定士はそういった情報から悩みを言い当てるそうだ」
手はまんべんなく赤く、ささくれ立っている。ペンだこもあり、もちろん皺も深い。聞き手の反対側の小指の皮膚が特に固い。
これだけで、私には彼女の今の業務がわかる。
「嘘だ」
信じない彼女を、清潔で大きな座布団の上に乗せてから、私は説明する。
「手がまんべんなく赤いのは、部屋を出入りするたびにアルコール消毒しているから。つまり、人とよく話す仕事。営業にしては、部屋の中のシャツの数が足りなさすぎる。そもそも、お前は私と同じ宇宙工学出身。しかし人前に出る仕事。研究よりも前線。プロジェクトマネジメントをやっている。
人は足りておらず、自分で図面仕事もしていることは手の様子で明らか。
図面仕事、つまり設計。それも、他人の図面に手を加えることが多いことから、開発設計ではない。ペンだこがあることから図面ソフト主体ではなく、どこかの工程にアナログ派がいるんだろう。
月の様子から国家の危機なのに、アナログ派が生き残っている悠長さ。きっと国家が絡んでいる。今のお前の仕事は国家公務員。出自的にも文科省あたりか。宇宙開発関連も管轄している省庁だ」
後輩が私の説明を理解したのは、私が部屋の掃除を終え、持参した大型の麻袋と送風機を部屋の四隅に設置し終えたからだった。
「そこまでわかっているならば、それだけの頭脳を持っているなら、どうして助けに来てくれないんですか!」
「今の私は一介のインテリアコーディネータ。今の仕事に誇りを持っている」
それに、私は就職をしようと決めたあの日、一本のふざけた論文を書き上げた。もう戻れるはずがないのだ。
内心の寂寥をごまかすように、私は後輩に声を張り上げる。
「ほら、咳、今は出ないだろう」
後輩ははっと自分の部屋を見渡す。
「咳の原因は埃とかび。ハウスダスト全般だ。掃除と除湿で改善できる。職場に行きたいのも自宅の居心地が悪いからかも」
「この麻袋は?」
「業務用シリカゲル。食パンの袋に入っているものの巨大なものと思っていい。もちろん無害」
「送風機は?」
「気流を窓から部屋全体に行き渡らせる。ワンルーム程度なら暗算と送風機二つで十分だ」
きょろきょろと見渡す後輩を、座布団を枕に寝かせる。
「私は今の私に誇りを持ってやっている。だから宇宙工学から離れて、これだけの知識がついた。お前はどう?」
押し黙る後輩の額を、私はデコピンした。
「即答して良いんだよ。十分立派にやっているんだから」
本当に、よくやっていると思う。

今の月は円錐形だ。月の裏側はクレーターまみれだった面影もない。
月は、地球に飛来する隕石を自らの引力で吸引し、受け止める役割を果たしている。
月が大きくえぐれて、形を変えるほどの隕石群が、地球にやってきているのだ。

月を見るたびに、望遠鏡で覗くたびに何人、最近夜空に増えた流れ星と、昼夜問わず増え続ける無数の飛行機雲を結び付けて発狂したか。
まだできることがあると、あがく後輩こそ、最も誇りを持つべきだ。
「お前はよくやっているよ」
後輩を久々になでてやると、ぐっとこらえる表情で、彼女は瞼をつぶった。

そして、次の瞬間に開き、跳ね起きた。
「癒されるのは、国家窮乏の危機にすることではない!」

彼女は強く吠えると、私の手をぐっと握った。
「インテリアコーディネータというか、建築設備設計の領域だな」
「資格は持っていないからコーディネータ」
「気流解析を暗算で解くほどには、流体力学を覚えているな」
後輩の言わんとするところは、手を握られた時点でわかっていた。
人手の足りない仕事。プロジェクトマネジメントを任される発言力。人事権も当然持っているだろう。ましてや経験者だ。
だんだん紅潮していく後輩の顔と反対に、自分の顔が青ざめていくのがわかる。
「あんな、大きな仕事をしたくない」
「どうして、あんなに好きだった月の仕事を」
私が好きだったのは、丸かった頃の月だ。円錐形になるかもしれないと知った頃から、私はアイツが大嫌いだ。
「思い出した。月が欠けると最初に予言したのは、あなただった!」
「あれは就職するから、半分遊びで書いた論文だ!」
訂正の言葉も聞かず、後輩は片手でスマホを取り出した。
「休日に、あの満月を見て、隣人に声をかけた。これはもう、運命だろう」
私は天を仰いだ。円錐形の月がパウダースノーのような隕石にまとって、輝いている。
私たち人類の運命は、あの月と共に尽きる。そのときから、私は運命から目を背けて生きてきた。
「それじゃダメなの?」
「貴女が言ったんだ、誇りを持てと。三年足らずで円錐形になる運命なんて、任せられるか」
理由があるはずだと、彼女は断言した。
「人類が生存している程度の短い期間に、月がなくなるほどの隕石なんて。おかしいと言ったのは貴女だ」
「だからそれは半分遊びの論文だって」
懐かしい論文を、彼女はスマホに表示した。もう、就職以外の退路を断とうとした、題名からあ馬鹿げた論文だった。
「月に対する攻撃のレポートとその対処法、大海利用宇宙エレベータ砲迎撃」
先輩の半分本気なら、私にとっては百人力だと、後輩は笑った。
外で車が止まる音がする。荒れる海のせいで貴重になった、ガソリンで動く車の音だ。
彼女の前に、大学時代のように手を広げる。
「きっと長期不在になるだろう。ガス栓とブレーカーだけ落としてきていい?」
先輩は話がわかる、変わっていなかった。そう言って、後輩はきれいに笑った。
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