はじめ

文字数 683文字

 母のことを冬子(ふゆこ)さんと呼ぶのは道代(みちよ)おばさんだけでした。母は山﨑利直の妻だったので、大抵の人は母のことを「山﨑さんの奥さん」とか「山﨑夫人」と呼んでいました。道代おばさんは土地の人間ではありませんでした。わたしの父、山﨑(やまざき)利直(としなお)の会社の部下である新田(にった)整介(せいすけ)が地方に出張に行った際に立ち寄ったお店……要はキャバレーとかクラブですが、そういうお店の女の人を気に入って連れてきて奥さんにした、そんな事情でこの土地にやって来た人だと聞きました。誰から聞いたという話でもないです。土地の人はみんな知ってます。噂話ぐらいしか娯楽がない場所ですからね。

 うちの庭は広くて、草木がたくさん生えていて、母はその庭の一角で花を育てるのが趣味でした。それから、門のすぐ近くには井戸がありました。昔からずっとあるものだそうです。石を積み上げた囲いのところに寄り掛かって立つ道代おばさんの姿を良く覚えています。道代おばさんはいつも勝手に門を開けてうちの庭に入り込み、井戸のところから母を呼ぶのです。冬子さぁん、と。蜂蜜でコーティングされたような甘い声で。わたしは道代おばさんのことがあまり好きではありませんでした。得体が知れないのです。わたしだけではなく、みんなが言っていました。あんな女を連れてくるなんて新田はどうかしている、子どもも生まないし畑仕事もしない、いつも厚化粧に着飾って村の中をふらふらしている、変な女だ、得体が知れない。
 道代おばさんに呼び付けられると、母は家事も花いじりもすべてを放り出して井戸のところに駆け付けました。そうしてふたりで立ち話をするのです。井戸の前で。ふたりきりで。
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