ノンレム睡眠の雨の街

文字数 3,376文字

 非常事態宣言が発令されて以降、外に出る事が無くなった。
 厳密に言えば、小さな仕事や買い物などで外出する事は有るのだが、意味もなく文庫本やノートを鞄に入れて電車に乗り、知らない街に降り立ち本を読んで、何か記録するという事が無くなった。だから家にいて、世の中の事を記録したり思った事を記録しようとは考えたりはするのだが、それを実行する事はなかった。アンネ・フランクや高見順が、第二次大戦下の事を日記に記録しているが、僕はそう言った偉人達になれる気がしなかった。あれは意識して行ったものではなく、普段の事を自分の目線で書いている自分の為の作品だからだ。他人に見せることが意識の内の大半を占めている僕には、世界の理不尽がどうしても自分の求める物より下に見えてしまう。

 窓の外は灰色の空から雨が降っていた。四月に入ったというのに雨は冷たく、容赦なく街に住む人々から熱を奪ってゆく。これでは気晴らしにバイクも乗れなかった。例年なら春の雨は季節の変化を教える物だったが、今年は物語性や抒情的な物を感じない、人々に一か所に留まる事を強いて、己と向き合う事を促しているようだ。
 僕は何も出来ずにベッドの上で寝転がり、中古で買ったモーリス・ラヴェルのピアノ曲集をパソコンで聞いていた。今日みたいな日は水滴のように滴るピアノの音色が、冷たさを伴って妙に心地よく感じられる。僕はその雨粒のような音色を体で感じ、雨水が染み込む土の気分を味わっていると、枕元に置いていたスマートフォンの画面が光った。手に取ってロックを解除すると、綾美がインスタグラムを更新したらしい。綾美とは三月二十日 に六本木のイベントに参加して、ビールを飲み交わして以来会っていなかった。
 僕はスマートフォンのロックを解除し、画面を開く。綾美のインスタグラムを見ると、そこには彼女の住む東秩父村が、今日の雨に打たれて水煙に霞んでいる画像が三枚程上げられていた。
「東秩父村は雨です。いつもより冷え込みが激しくて川も濁っています」
 画像には簡潔な文章が添えられていた。絵文字も何もない辺り、虚飾を嫌う彼女の性格が表れていた。画像には雨に濡れいつもより視覚的な重さと艶を増した東秩父の草木、黄土色に濁った槻川の様子などがあった。これから春先の野山として観光客が来る時期になるが、非常事態宣言のせいで今年は、観光客が無駄に押し寄せる事はなさそうだった。
「そちらの様子はどうですか?東京の私鉄沿いは何時もより静かです」
 僕はそうコメントを寄せた後、投稿にいいねを付けた。
 僕はそれをきっかけにして起き上がり、ポットのお湯でインスタントコーヒーを淹れると、パソコンのワードを立ち上げて、書きかけの小説の執筆を少し進めて、利用している短歌投稿サイトに歌を二首ほど乗せた。内容は今日の雨についてと、非常事態が起きていつもと違った様子を見せる私鉄沿線の事。東京都内と郊外を結ぶ私鉄沿いの景色は、JR線とは異なり何かの物語、着飾らない普段の生活を内包している気がする。その事はネットで知り合った作家仲間の先輩と意見が一致した事がある。
「都会と言うのは、いわば頭脳であり装置ですよね。そこの伝達手段として使われているJR線や地下鉄などは、そこに住む細胞や栄養素を運ぶための伝達手段でしかないと思います」
 飲み会の席で先輩作家の言葉に僕は相槌を打った。書籍化を成し遂げた人の言葉には説得力があるのだ。
「都会は生活ではなく、社会を動かす場所ですからね。私鉄沿線で行ける埼玉や神奈川、多摩方面は生活の場所と言う気がします。内包している要素が違えば、作られる物語が違いますよね」
 僕は自分の意見を返した。先輩作家に響いたかどうかは分からなかったが。
「ですね。別の場所のように思えていても両者が存在しないと、お互いの存在意義を失うし互いに成立しえない。しかも別世界ではなく人間が出たり入ったりできて人間にとって必要不可欠であるところも興味深いです」
 先輩作家の彼は僕の言葉に続けた。人間が居なければ社会も生活も存在しないというのは非常に納得できる。人間が主体であるから、人間は自分の事しか考えられないのだろう。
「そこで疑問に思う事があるんですよ。昔見た古い白黒映画の台詞で〝人間が腐るから街が腐るのか?街が腐るから人間が腐るのか?〟というセリフがあるんですよ。どう思います?」
 先輩作家は僕にそんな事を訊いてきた。
「今までの議論を踏まえると、前者の〝人間が腐るから街も腐る〟だと思います。人間がいてこそ街が成立して、社会や生活が成り立つのですから。極端な話、街という空間や機能が無くても人間は生存可能ですし、街に行けば腐った人間が正常になるという保証もない気がします」
「街は〝街〟という実体を持った存在ではなく、一つの観念的な位置付けの物、何らかの機能を持った人間活動の総体なのかもしれませんね。環境や状況、機能を内包した観念的な位置付けで考えた方がいいですね」
 先輩作家は僕の言葉にその言葉を添えて終わらせた。僕の意見がどこまで説得力を持って、先輩作家の耳に届いたかは不明だったが、それらしい言葉は言えた気がする。今僕が住んでいる街は非常事態宣言が発令されて、様々な物がいま止まっている。だが常に何か動き出そうとする意志は捨てておらず、目覚めてすぐさま行動しようとする意志が感じられた。


 そうこうしている内に、部屋の電波時計が正午を報せた。僕は書き物をしていたパソコンの前を離れて、昼食の準備にかかる事にした。
 僕は野菜保管用の木箱から玉ねぎとニンジンを各一個取り出し、冷蔵庫にあった豚のバラ肉とチューブのニンニクを取り出した。そして乾物保管用の棚からトマト缶を取り出した。
 まず玉ねぎとニンジンの皮をむいて細かくし、熱したフライパンにオリーブオイルを入れて温める。ニンニクを少し入れて香りをつけ、玉ねぎとニンジンを炒める。野菜に火が通ったら一旦取り出し、今度は細かくした豚バラ肉を炒めた。肉に火が通ると今度は野菜を入れて炒め、塩コショウで下味をつけて白ワインとトマト缶を入れる。そして水を少し入れて、カレー粉、ガラムマサラ、チリパウダー等で味をつける。最後にローリエを散らし、五分ほど煮込む。その間に昨日買ったバゲットを切って、軽くトースターで温める。バゲットが温まり表面がカリっとすると、ちょうどいい焼き具合になった証拠だ。
 それで今日の昼食は完成だった。僕は器にトマト煮込みをいれてバゲットとの昼食をとる事にした。
 作った料理を写真に撮り、食後にSNSに上げる用意をして席に着く。テレビを見ようかと思ったが面白い番組も、ニュースも僕が必要とする情報を提供してくれないので何も見ない事にした。
 食事を半分ほど終えて、僕は自分に届いた通知を調べるべくベッドに置いていたスマートフォンを手に取った。画面を観ると、さっき投稿したインスタグラムのコメントに綾美からの返信があった。スマートフォンのロックを解除して確認すると、僕のコメントに対するいいねと一緒に返信があった。
「こちらは雨が激しくなっています。観光客も非常事態のせいでほとんどいません」
 その文にいいねをつけて、先程より雨脚が強くなったのを感じた僕はこう返信する。
「こっちも雨と非常事態宣言で、街がノンレム睡眠状態です。土砂災害にお気を付けください」
 親しい異性への言葉としては堅苦しい内容だったが、僕は気にしなかった。そして僕は食事に戻り、十五分程度で食べ終えた。
 食事が終わり、ティーバッグの紅茶を淹れて書き物の続きに取り掛かる。執筆を進めて、リフレッシュにマーティン・ギャリックスの曲でも聴こうかと思うと、またスマートフォンに通知が入っていた。綾美からの通知だなと思い、僕は再びスマートフォンを開いた。
「お互い大変な時期だね。くじけず強くいようね」
 僕はその綾美の返信にいいねをした。雨に濡れ、冷え切って腐るかも知れないノンレム睡眠の街で手に入れた、機械越しの小さなやり取り。その事に僕は小さな喜びを感じた。

                                        (了)
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