三十六

エピソード文字数 6,123文字


 翌朝、里中は、土肥に電話をかけた。仕事をリタイアして悠々自適の独身生活を送っているという土肥は、すぐに電話に出た。
「もしもし。土肥さんのお宅ですか」
「そうですが……」
「黎文堂出版の里中です。先日は、遠いところまでご足労いただきましてありがとうございました」
「あ、いやいや。その節は、どうも。こちらこそ、ご迷惑をおかけしましたな……」
「それで、吉田さんの玉稿の件なんですが――」
「はい」
「お預かりした玉稿は、部下ともども最後までしっかりと読ませていただきました……」
「ありがとうございます。ご苦労さまでございました」
「それで、編集サイドで検討した結果をお知らせしようと思いまして、かような電話をさせていただいたわけなんですが……」
「ええ、ええ」
「それで、ですね」
 里中は、無理やり自分の口を抉じ開けて続けた。どうにもつぎのことばが出にくかった。
「われわれとしては、そのう、この件に関してはですね。なんといいますか、見送らせていただこうかという結論になりましてですね」
「そうですか。駄目だったですか……」
「いえ、駄目というよりはですね。そのう、中身がノンフィクションだけに、色々と差し障りがありましてですね。もう少し様子を見てから、再度、検討させていただくということで……」
 口から出まかせの言い訳だった――。こういうよりほかに、相手の気持ちを和らげる方法を見つけられなかった。
「ということは、三田さんという方がおっしゃっていた保険金の行方などが確定してから、というお考えなので――」
「え。ええ、それもありますが……。そのう、その点については、ですね。われわれのほうで、しっかり調査させていただいて、その上で再検討するという形で進めようと……」
「なるほど。では、完全にあの原稿が没になったというわけでもないんですな」
「ええ。まあ、そういうことですね」
「わかりました。では、なるべく早いお返事を期待しております」
「それで、よろしいですか……」
「はい」
「では、そういうことで――。ごめんください」
 受話器を置いて、里中は深い溜め息を吐いた。
 冷や汗ものだった。原稿を送り返すといわなかったのが、せめてもの慰みだった。
 あれで、そんなことを言い出せば、あの老人は生きる張りさえ失ってしまうのではないかと思えた。
 そういえば、三田にあの話をしてやるのを忘れていた――。里中は、内線で自分のデスクにくるように三田に告げた。
「はい。なんでしょう」
 五分もしないうちに三田がやってきた。
「ここでは、なんだから、応接室に行こう」
 里中は、先に立って歩いた。途中、自販機の前で缶コーヒーをふたつ出して、ひとつを三田に渡した。
「きみにいうのを忘れていたんだが――」
 ソファに腰を下ろした里中が言った。「例の男性が白骨死体で発見されたよ」
「例の男性といいますと……」
「美貴さんを殺したと思われる隣室の男性だよ」
「ああ、あれですか」
「そう。これで、完全に美貴さんの死の真相を知る者はいなくなってしまったというわけだ」
「死人に口なしとは、このことですよね」
 三田が肩を落として言った。「これでは、パーペキに完全犯罪成立じゃないですか。事実はどうあれ、もう調べようがないのですから……」
「うむ。しかし、問題はまだ残る。きみのいう保険金がどこへ雲隠れしてしまったかだ」
「いつもそこへ戻ってしまいますね。なんとか打開する方法はないものでしょうか」
「そうだな……。京都のホームレス全員を捕まえて調べるわけにも行かないしね」
「しかし、そんな大金を手にしたのですから、いまごろホームレスなどやってはいないでしょう。おそらく商売かなにかに手を出しているんじゃないでしょうか」
「そういえば、谷口もそれと同じことを言っていたな……」
「谷口さんが――」
「ああ。伏見署や新大手橋の現場などへも同行してもらったよ。別れ際に、そんなことを言っていたのを憶い出した。こうなったら、乗りかかった船だから、京都で手伝いをすることがあれば、いつでも言ってくれといっていた……」
「あ、そうだ――」三田は手を打って言った。
「それなら、谷口さんにはハローワークかなんかへ行ってもらったらどうでしょう」
「そんなところへ行かせて、どうすんだ」
 里中は、突拍子もなく無責任なことを言い出した三田にカチリときて言った。「相手は、きみも言ったように、自分で会社をやっているかも知れないんだぞ――」
「いや。意外とわかりませんよ。歳も歳ですし、雨露の防げる住居をしっかり確保して、年金プラス給料の安定した生活を望んでいるかも知れません……」
「ふむ。確かに三千万円くらいでは、どんなに倹しく暮らしたところで、二十年ほどしか持たない。独り者らしなら、そんなに大きな家は要らないし、一千万ほどの小さな一戸建てを現金で買って、そこに住んでいるかも知れないな……」
「就職するにしても、年金をもらうにしても、あるいは谷口さんの言われるように会社を興すにしても、住所がなければ話になりませんからね。まずは、当たってみることが先決ですよ」
「当たってみるって、どこを当たるんだ」
「決まってるじゃないですか。ハローワークですよ」
「だから、ハローワークに行ってどうすんだよ」
「まず、クリーニング店を当たってみるんです。いまは、インターネットで求職先を検索できる時代です。実際に行かなくても、全国のハローワークが地元企業の求人一覧を出してくれていますよ」
「なるほど。そういう手があったか――」
 里中は、三田の着眼に驚いて言った。「そういえば、村上はクリーニング屋をやっていたと言っていたな……」
「そうです。わたしの勘では、おそらくクリーニング店に就職するか、クリーニング店のフランチャイジーになっているはずです。
 小説の中では、競馬の胴元がどうとか言っていましたが、あんなのは、あくまでも酒の席での法螺話で、本心じゃありません。きっとまた同じ職業を選ぶはずです。
 物件もおそらくは、店舗つき住宅でしょう。
 最近、クリーニング屋を始めた業者リストを当たりましょう。そして、本当に谷口さんが手伝うと言ってくれているのなら、実際に行ってもらうのも手じゃないですか」
「そうだな――」
 里中は意外な展開に心が浮き立つような気分で言った。「なかなかいいことを思いつくじゃないか。見直したよ、三田くん」
「ありがとうございます。これで、村上真治という名前にぶつかれば万々歳ですよね」
「ああ、そうだな。じゃ、早速、谷口の耳にそのことを入れておくよ。きみが、そのアイデアを思いついたってね」
「じゃ、わたしはその線で、クリーニング店とその経営者の名前を当たってみます。そのあとは、電話でのローラー作戦にはなりますが、それなりの理由を設けて、村上真治さんという人物がいないかどうかを訊けばいいんです。その前に、社長がその名前で出てくれれば、もう言うことはありませんよね」
「時間は多少要かるだろうが、それも悪くないな……」
「なにも全国のクリーニング店を虱潰しにする必要はないんですよ、部長。近畿圏だけでいいんです。せいぜい京都、大阪、滋賀ないし奈良くらいでいいでしょう。そんなに遠くへは行かないと思いますよ」
「わかった。では、手分けして、調べることにしよう。わたしは大阪と奈良を担当しよう。そして、それとは別にインターネットの電話帳で村上クリーニングとか、それらしい名前のものも併せて探ってみるよ」
「お願いします。では、わたしは京都と滋賀を――。それと、谷口さんには京都の法務局へ行ってもらって、クリーニング関連の登記簿を閲覧してもらうのも手ですよね」
「うむ。早速、それも頼んでみよう」
「では、わたしはこれで――」
 きびきびした動作で去って行く三田の後姿を眼で追いながら、里中は彼に読ませて正解だったと思った。彼でなければ、おそらくここまでの気づきと気働きはなかっただろう。
 里中は、早速、谷口に一電話した。
「ああ。里中です。昨日はどうも――」
「いやいや」
「それはそうと、早速頼みがあるんだが、聞いてくれるかな」
「ああ。もちろんや。乗りかかった船や言うたやろ」
「実は、三田がね。とんでもない発想の持ち主でね。例のホームレス、村上がクリーニング店をやっているはず、というんだよ」
「ほう。それはまた、どういう根拠で――」
「いや。吉田が書いていた小説に彼の身の上話が出てきて、前職はクリーニング屋だったというくだりがあるんだ」
「なるほど。それも、あながちあり得ないわけやないわな。人間、新しいもんは怖いさかい、どうしても慣れたほうに行くんや」
「それで、彼が言うには、会社を興している可能性もあるだろうから、クリーニング屋のリストや電話帳だけでなく、登記簿も当たってみれば、ひょっとして『村上真治』の名前が載っているかも知れないというんだ」
「わかった。『シンジ』ちゅうと、真実の『真』に明治の『治』でええんかな」
「ああ」
「ほな。早速、行って調べといたるわ。こっからほん近くやし、調べる時間も入れて、一時間も要からんやろ。ほかにも、こっちでやることあったら、言うといてや。なんでもやるさかい……」
「ありがとう。取り敢えずは、そんなとこだ――」
「了解」
 里中は、送受話器を置くと、パソコンに向かって『村上クリーニング』を検索してみた。数だけは五十三万件以上がヒットしたが、『村上クリーニング』とひと続きになっているものは最初の十件ほどだけで、以下はすべてが『村上』と『クリーニング』という別々の単語が同じ文脈の中に出てくるだけのようであった。
 念のため、その十件の『村上クリーニング』や『村上クリーニング店』を当たってみたものの、地名や地域の『村上』であったり、商店街の『村上』であったりした。そして、代表者が村上真治という名前の店はないのだった。
 つぎに里中は、電話帳という機能を使って、全国のクリーニング関係を当たってみた。すると、一方七千軒以上のクリーニング店がヒットした。『地域を絞り込む』で『大阪』をクリックすると、千軒以上のクリーニング店がリストに並んだ。
 今度は『名称を絞り込む』で村上の頭文字である『む』をクリックすると、果たせるかな、『村上クリーニング店』は一軒だけが岸和田に存在した……。
 里中はその場で、電話をしてみた。
「お電話ありがとうございます。村上クリーニング店でございます」
 丁寧ではあるが、嗄れた年配女性の声であった。
「ああ、すみません。黎文堂出版の里中と申します。ちょっとお訊ねしたいことがあるんですが、よろしいでしょうか」
「はい。なんでしょう」
「代表者さまのお名前についてなんですが、お名前は、村上真治さん、真実の真に明治の治でよろしかったでしょうか」
「いいえ。違いますが、どのようなご用件で……」
「失礼しました。現在、弊社ではクリーニングを専門とした月刊誌の発行を企画しておりまして、広告の掲載をお願いできればとお電話させていただいているのですが……」
「ああ。うちは結構です。お力になれず、すみません。ごめんくださいませ」
 里中は、このような手順で、その他の県のクリーニング店もひととおり見てみたのだが、それらしい名前には、ただのひとつもぶち当たらないのであった。
 この調子なら、三田も苦労していることだろう。里中は思った。彼なら、どのような万法で探り当てるのだろうか……。
 内線が鳴り、モニター画面に意識を集中していた里中は、びくっとして受話器を取った。もう少しで落とすところであった。
「はい。里中です」
「部長。わかりましたよ」
 三田の声であった。
「え。もう、わかったのか――」
「ええ。ハローワークのサイトから、企業の求人情報を見ていて、村上真治の名前を発見しました」
「――というと、応募者のほうではないのだな」
「そう。アイロンをかける職人を募集していたんです」
「やっぱり、そうだったのか。三田くんの勘もここまでくると、まるで神業だよ。で、彼はどこにいたんだ」
「京都にいました。しかも前の住所に近い、太秦というところに店を構えています。やはり店舗つき住宅で、三条通に面した『クリーニングパパ太秦店』という店です。この業界のフランチャイズ事業を展開していることで有名な『クールダックス』という会社のフランチャイジーになっていました。
 フランチャイジーといっても、おばあさんが一人でやっている商品の受け渡しだけの店ではなく、本格的な手仕事のクリーニング店ですから、専門の職人も要ったのでしょう。いまだに募集しているところをみると、まだ開店準備中か、スタッフを増員するかのどちらかでしょうね」
「そうか。ますます、きみの推理は冴え渡ってくるな」
「いえいえ、とんでもない」
「それにしても、なんで太秦なんだろ。太秦だと、その前に住んでいた嵯峨と大して違わないはずだ。前の住所に近いと、店を畳んでしまった手前、まずいんじゃないのかな」
「京都生まれの彼にとって、嵯峨周辺は青春時代を過ごした原風景でもあるでしょうから、愛着があるんだと思いますよ」
「しかし、どうしてそこまでわかるんだね」
「新聞や雑誌に同窓会の開催日を告知するコーナーってのがあるでしょ。それと同じようなものが京都新聞にもあるんです。
 たまたま、その記事にぶつかって、もしやと思ったんです。バックナンバーを調べていると、彼のフルネームがヒットし、これだと思いました。出席者全員を撮った写真が出てきたんですよ。
 そこで、彼が太秦にある蜂ヶ岡中学の出身で、三年前にそのときの幹事をやっていることがわかったんです。幹事をしたほどですから、嵯峨には相当の思い入れがあるのではないでしょうか」
「なるほどなあ。よくもまあ、そこまで調べたもんだ」
 里中は、舌を巻いて言った。「ということは、あとは、その『クリーニングパパ』とやらに行って、本人かどうか見るだけだな」
「そうですね。本人確認のあと警察に連絡。事情を説明して理解を得る。われわれ民間の手続きとしては、そこでおしまい。その後の真相追及は、司直のお手並み拝見といったところです」
「わかった。早速、行ってみよう」
 そう言ったあと、気兼ねしたのか、三田を見て。「そうだな。この解決方法を提示してくれた大恩人なんだから、きみも一緒に行ってみるか、京都へ――」
「ええ。ぜひ連れて行ってください。京都は大好きなんです」
「おいおい。物見遊山で行くんじゃないんだよ」
「そんなことは、もちろん、わかってますって――」
「そうかい。じゃ、そうしよう。出発の準備をしたまえ。もうすぐ昼だが、時間がない。昼飯は車中で軽く済ませよう。駅の売店で、サンドイッチかなにか適当なものを頬張ればいいだろう」
「わかりました」
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