第4章 スペインかぜと手洗い

文字数 3,946文字

第4章 スペインかぜと手洗い
 新型コロナウイルスの感染予防策として、マスク着用の他に、社会的距離保持と並んで手洗いの重要性が説かれている。坂本龍一によるものを始め正しい手洗いの動画もYouTubeで数多く閲覧することができる。

 手洗いが感染予防に効果的であることは次のニュースからも明らかである。NHKは、2020年5月8日 16時04分更新「クルーズ船の接触感染 実験で検証 新型コロナウイルス」において、手を通じた接触感染の広がりに関する次のような実証実験の結果を伝えている。

クルーズ船で感染拡大を招いたとされる接触感染がどのようにして起きるのか、NHKが専門家と共同で実験を行ったところ、ウイルスに見立てた塗料は多数の人が触るものを介して広がることが確認されました。クルーズ船では接触感染によって感染拡大を招いたとされていて、多くの人が集まるビュッフェ会場などで起きたと考えられています。
NHKは専門家と共同で、10人が参加する検証実験を行いました。実験では1人を感染者に設定し、せきを手でおさえた想定で、ウイルスに見立てた蛍光塗料を手のひらに塗り、30分間、自由にビュッフェを楽しみました。
その後、特殊なライトを当てて、青白く光る塗料を確認したところ、食器や手などの広い範囲に広がったことがわかりました。
塗料は参加者全員の手に広がり、3人は顔にもついていることが確認されました。
料理を入れた容器のふたや料理を取り分けるトング、それに、飲み物の容器の取っ手などを介して広がっていました。
一方で、感染対策として店員が料理を取り分けてトングも頻繁に交換し、客に、こまめに手を清潔にするよう促すと、塗料が付着した手の面積は30分の1に減り、顔に付着した人はいなかったということです。
聖マリアンナ医科大学の國島広之教授は「不特定多数が触れやすい場所はハイタッチサーフェスと呼ばれ危険が潜んでいる。リスクを意識して対策をとってほしい」と話しています。

 この実験は手を通じた接触感染の広がりが想像以上であることを明らかにしている。手洗いを積極的に行えば、感染経路を絶てるので、その危険性を下げられる。感染抑制における手洗いの重要性が説かれてきた通り、その効果はやはり大きい。

 しかし、日本政府によるスペインかぜの感染予防啓もう活動には手洗いが含まれていない。もちろん、手洗いが当時の日本で知られていなかったわけではない。手洗いの効用は、欧米に強く影響された医学界ではすでに浸透している。

 日常生活の習慣や宗教的儀式はともかく、西洋において医療行為の際に手洗いするようになった歴史は決して古いことではない。それは19世紀半ばのオーストリア=ハンガリー帝国の医師センメルヴェイス・イグナーツ・フュレプ ( Semmelweis Ignác Fülöp)がその効用を訴えてからである。彼はドイツ系ハンガリー人であるため、イグナーツ・フィーリプ・ゼメルヴァイス (Ignaz Philipp Semmelweis)とドイツ語による名前で記されることもある。この手洗いのドクターは消毒法の先駆者として知られ、「母親たちの救い主」とも呼ばれる。

 ガレノスの呪縛から解き放たれたものの、19世紀半ばに至っても、産褥熱の発生数が多く、それによる妊産婦の死亡率も高い。ウィーン総合病院第一産科は、助産師による出産に比べて死亡率が3倍にも及んでいる。ここに勤務する医師センメルヴェイスは、両者の産褥熱の発生数を調査、その差の原因を探求する。彼は、医師と違い、助産師が出産に先立ち手洗いを行っていることに気がつく。死亡率の差はこの行為にあるのではないかと推測し、産科の医療現場にもそれを取り入れる。産科医が次亜塩素酸カルシウムで手を消毒することで産婦の死亡率が1%未満にまで下げられることを確証、1858年、その成果を『産褥熱の病理─概要と予防法(Die Aetiologie, der Begriff und die Prophylaxis des Kindbettfiebers)』として出版する。

 ところが、手洗い法は当時の医学界に受け入れられず、センメルヴェイスは激しい非難にさらされる。1865年、彼は精神に変調を来たし、精神科病棟に入院する。陥った疾病はおそらく適応障害と思われる。だが、彼は凶暴な患者と見なされ、拘束衣を強いられたり暴力を振るわれたりしている。センメルヴェイスはそうして受けた外傷が原因で膿血症により47歳の時に亡くなっている。「膿血症(Pyaemia)」は転移性の広範な膿瘍を引き起こす敗血症の一種である。怪我をした際、ブドウ球菌などの化膿菌が病巣から血液中に入り、それを通じて他の部位に化膿巣を多発する。消毒法や抗生剤が普及する以前には致命的な疾患である。センメルヴェイスの死は彼の理論への否認が招いた悲劇だ。しかし、その痛ましい最期から数年後、ルイ・パスツールが細菌論、ジョセフ・リスターが消毒法を確立し、センメルヴェイスの理論は広く認められるようになる。

 病原体説の定着と共に、医療行為における手洗いは常識になる。ただ、これは手洗いと言うよりも、消毒である。一般の人々の間で石鹸を使った手洗いが感染症予防のために普及するのはまだまだ先のことである。少なくとも、日本では高度経済成長を待たねばならない。

 石鹸の工業生産は日本でも近代に入ってから始まる。1873年(明治6年)、堤磯右衛門が1本10銭で棒状の洗濯石鹸を販売する。その後、1890年、長瀬富郎が「花王石鹸」を製造、桐箱に3個入って35銭で販売している。当時は米1升が6~9銭である。石鹸は非常に高価で、誰もが買えるものではない。ただ、明治後半には都市部であれば庶民にも手が届くようになっている。

 しかし、人口の大半が住む農村部において石鹸で手を洗うことはそうたやすくない。地方ではサイカチを食器洗いや洗濯に使っている。サイカチは落葉高木で、国内の山野や河原に広く分布し、莢が石鹸として古くから利用されている。

 また、水道の全国的普及が進んでいない。1887年(明治20年)、横浜で初の近代水道が布設される。これは、港湾都市において海外から持ちこまれるコレラなどの水を介した感染症が広がることを防ぐ目的で始められたものである。横浜に続き、89年に函館、91年に長崎と港湾都市を中心に次々と水道が整備されていく。しかし、その後の普及は必ずしも進まない。水道事業が始まって70年以上経った1958年においてでさえ、給水人口約3700万人で、普及率約41%にとどまっている。水道が飛躍的に整備されるのは高度経済成長以降のことである。

 水道が普及する以前、人々は井戸を利用している。それには釣瓶や手漕ぎポンプで水をくみ上げる必要がある。水質もさることながら、そう頻繁に手洗いすることに水を使用することが難しい。

 今日でも、安全な水の確保ができないために、感染予防の手洗いが困難である地域が世界には少なくない。ユニセフは、2020年3月13日、30億人が家で手洗いができないせいで、新型コロナウイルスの感染に見舞われる危険性があると警告している。この30億人は世界人口の4割に相当する。

 石鹸と水をめぐる環境がこのようであれば、手洗いの効用を認識して政府が啓発活動をしたとしても、効果は限定的だっただろう。ただ、こうした事情だけが手洗いへの無関心な理由ではないことを伝える当時の記録がある、

 宮沢賢治は、1918年12月26日から翌年3月3日まで、東京でスペインかぜに罹患した妹トシを看病している。日本女子大で学ぶ彼女は12月20日から東京帝国大学医科大学付属医院小石川分院に入院する。賢治は母イチと雑司ヶ谷の雲台館に宿をとり、トシの看病に当たり、病状を父政次郎に何度か書き送っている。

 賢治は、1919年1月4日付父宛書簡において、「先は腸チブスに非る事は明に相成り候。 依って熱の来る所は割合に頑固なる(医師は悪性なると申し候へども単に治療に長時を要する意味に御座候)インフルエンザ」とし、「今後心配なる事は肺炎を併発せざるやに御座候由」と伝えている。さらに、「尚私共は病院より帰る際は予防着をぬぎ、スプレーにて消毒を受け帰宿後塩剝(えんぼつ)にて咽喉を洗ひ候」とも記している。塩剝は塩素酸カリウムのことで、主な用途は爆薬やマッチ、染色、酸化剤、殺虫剤、除草剤、消毒などである。現在では消毒としての使用はあまり一般的ではない。ただ、当時すでに消毒や薬品によるうがいが感染予防に積極的に利用されていることがこの書簡からわかる。

 しかし、手洗いの記述はない。地方の農村ならいざ知らず、石鹸や水の事情がよい都心で大学病院の医師が手洗いを進めていなかったと考えざるを得ない。当時、病原体は不明とされ、それがインフルエンザウイルスと明らかになったのは1933年である。けれども、インフルエンザが呼吸器系の疾患で、うがいの他に「予防着をぬぎ、スプレーにて消毒を受け」の言及から呼吸を通じて感染すると思われていたことが推測できる。手を通じた接触感染の可能性がこの頃には考慮されていなかったと考えざるを得ない。そのため、政府が手洗いを感染症予防策として啓蒙していなかったのだろう。

 手洗いはこうした事情により感染予防策として国内で認知されていなかったと思われる。一方、政府はマスク着用を積極的に呼びかけている。にもかかわらず、それが期待以上に効果を出せず、マスクのある風景を形成していない。その理由を明らかにしているのが菊池寛の『マスク』である。
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