第5話

文字数 6,180文字

 梅雨も過ぎた頃である。コンクールの課題曲「南風のマーチ」、自由曲「カヴァレリア・ルスティカーナ」は共に順調に仕上がり始めていた。
 今日は課題曲の合奏があった。朝比奈先輩のアンサンブル力を知ってから、僕も少しはそれに近づこうと思って、とにかく先輩の吹き方に揃えるように心がけていた。トップの隣の席だ。こんなに朝比奈先輩を学べる席はない。
 合わせて吹くということを強く意識するようになってから、今まで朧げにしか感じ取れていなかったものが、はっきりとわかるようになっていた。たとえば、クラリネットやトロンボーンのトップも朝比奈先輩をよく聴いて吹いているということ、トップ同士が互いの形を揃えることで指揮者が指示を出す前にこのバンドの方向性を形作っているということ、などなど。
 また、どんなにトップだけが上手くても、それは意味がないことも知った。
 豊田先輩はやっぱり凄い。豊田先輩は徹底的に朝比奈先輩に合わせている。それが実に上手い。音程、音形、音量、全てがトップの音と最高のバランスになるよう調整している。最も豊田先輩の言い分によると、そのテクニックを教えてくれたのは朝比奈先輩だと言う。
 ずっとトップの席で吹いてきた豊田先輩は2nd吹きの朝比奈先輩にアンサンブルの面白さを教えてもらったと言っていた。
 また、豊田先輩が朝比奈先輩に合わせるそれに、3rdの軸である伊豫田も負けじと食らいついていた。1st、2nd、3rd、それぞれがそれぞれの役割を確実に果たすことで、美しいハーモニーができあがる。こうしたトップを軸とした纏まりあるサウンドが、このバンドの魅力なんだと今更ながら痛感した。
 3rdの伊豫田は僕と同期の二年生だ。僕は伊豫田の音が結構好きだ。豊田先輩や一年生で1stに選ばれた立花のように、ずば抜けたテクニックがあるわけではないが、音色がクリアで聴いていて清々しい。高音域も安定しているので、コンクールで1stを任されたとしても、トップでなければ十分立派に務めることができるだろう。
 だからこそ、3rdの軸として選ばれた。
 今もあの先輩衆に遅れをとることなく、3rd吹きとしての役割を果たしている。伊豫田にこんなにもアンサンブル力があったとは、正直意外だった。思い返して見ると、伊豫田はこの前の冬に行われたアンサンブルコンテスト(3〜8人の小編成で行うコンテスト)で朝比奈先輩とタッグを組んでいた。あの時は伊豫田が1stで朝比奈先輩が2ndだったから、その時にアンサンブルの仕方を学んだのかもしれない。
 こういう層の厚いバンドにいることのありがたさを最近ひしひしと感じる。
 そんなことをぼんやりと考えていると前方で、ツノムーの指揮棒が大きく振り上がり、僕は慌てて楽器を構えた。
 爽やかな木管の旋律が奏でられ、僕らはその旋律と旋律の合間にタラランと短く華を添える。一瞬の出番だが、音楽的には大切なフレーズだ。トランペットは案外こういったメロディ以外の仕事も多い。
 ツノムーが指揮棒を左右に振って、演奏がやんだ。そして、ツノムーの声が飛ぶ。
「そこ、トランペット! もっとキラキラさせろ。今のじゃ、ぬるい。息の初速を少しだけ速めろ」
 僕は朝比奈先輩なら、これにどう応えるだろうと考えて、その通りに吹いた。
 一回目。先輩と少しずれた。なるほど。そう吹くのか。了解。
 それならと、イメージを修正しての二回目。結果、上手くはまった。そして、僕と同様に豊田先輩や、伊豫田も上手く合わせてきたことに気がついた。
 いいバランスだ。うん、楽しい。
 ツノムーも心地好さそうに、指揮を続けていた。

「なあ、イヨ。自分、腕あげたなあ」合奏が終わり、僕は雛壇上で楽器の片付けをしていた伊豫田の背を叩いた。
「なあにが、腕あげたよ。こちとら、あんたら化け物についていくのに必死よ」伊豫田はトランペットの管に溜まった水滴を、雑巾に捨てながら言った。
「化け物って僕も入ってんの?」
「入ってるに決まってんでしょ。いつも涼しい面で吹いてる人に褒められたって、腹立つだけだよ」伊豫田は片付けの手を止めて、きりりとこちらを睨んだ。
 伊豫田の後ろで、楽器ケースを担いだ本物の化け物豊田先輩がにやけた顔でこちらに近づいてくる。
「まぁ、でも本当に伊豫田は上手くなってるよ」先輩は伊豫田の肩を叩いた。
「あざーす」伊豫田は照れを隠すように大きく敬礼して見せた。どうやら、僕に言われるのと違って、先輩に褒められるのは嬉しいらしい。
 伊豫田は一通りの手入れを終わらせ黒いケースをパチンと閉じると、そっと僕を小突いた。
「今日この後いける?」
「今日はいけるよ」
「じゃあ、軽く食べに行こ」
「了解」

 伊豫田と僕が向かったのは近所のファーストフード店だった。僕たちはMサイズのポテトフライとバーガー、ジュースをそれぞれ買って席に着いた。
 席に着くなり伊豫田は言った。
「で、どうなのよ。1st勢の感じは」
「音の通りだよ」
 伊豫田に誘われた時から、話題は大体分かっていた。今年のコンクールについて、伊豫田が何らかの意見を持っているのは、前々から感じていたことだ。こういう時の伊豫田のアドバイスは、ためになることが多い。そして結構面白い。
 次年度のパートリーダーは僕だが、結局伊豫田の掌の上で踊ることになる気がしてならない。前にぐいぐい進み出る性格ではないが、何事も起こさず平然と彼女の考える方向にみんなを導いてゆく、そういうことができる人間なんだと思う。
 さすが、未来の副部長。
 伊豫田はポテトフライを勢いよく紙の上にばら撒いた。そして嬉しそうに舌舐めずりをした。真っ紅な唇がてらてら光った。合奏で痛めつけたその唇に塩気は少々辛そうだった。きっと僕も同じようなものだろう。
 伊豫田はそんなことには頓着せず、ポテトフライを何本も掴み、勢いよく頬張った。
 僕もポテトに手を伸ばし、大きめに口を開けて中に放り込んだ。時々ポテトが唇に当たって、その度にやはり、ぴりりと沁みた。
「音の通りね。確かに。……ね、あんたは朝比奈先輩のことはどう思う」伊豫田が僕に問うた。
「上手いよ。学ぶところが多い」僕は答えた。
 伊豫田は、暫く何も答えずに摘み上げたポテトのその先端を面白くなさそうに眺めていた。そして「上手い。そうだね。上手いのは間違えないけど」と呟いて、黙りこくってしまった。
 僕は伊豫田の言葉を待った。伊豫田は何か言いにくそうに、俯いて考えあぐねていた。けれども、そのうち伝える覚悟をしたと見えて、ちょっと顔を上げて、僕を見つめて言った。
「やっぱりさ、私は、タカチは朝比奈先輩に合わせて吹くの、止めた方がいいと思う」
「へ?」僕は飲み込んだレタスを思わず喉に詰まらせそうになり、ジュースで無理矢理奥に押し込んだ。
 僕の焦り苦しむ様子を、伊豫田は腹を抱えて笑って見守った。やがて互いに落ち着いた頃に言った。
「えっと、だからね。あんた最近、吹き方を、かなり先輩に寄せてるでしょ。あそこまで寄せなくていいよ。もっとあんたの地で吹きなよ」
「え。何言ってんだよ。もっと合わせないとダメだろ」
 徹底したアンサンブル。それがうちのバンドの魅力だ。それなのに、トップを無視しろだなんて、意味がわからない。
 伊豫田は首を振った。
「あんたは普通に吹いてもそれなりのアンサンブルができるよ。たぶん。ねぇ、どうして今年が朝比奈先輩が1stになったのか考えたことある?」
「それは、勿論、朝比奈先輩のアンサンブル力が買われたから……」
 伊豫田はまた首を振った。
「勿論それは第一だけど。でも、それだけじゃない。豊田先輩は、あんたを将来2nd吹きに育てるつもりだよ」
「へ? どういうこと? 豊田先輩がなんか言ってたの?」
「こら。そんな間抜けな顔するな。先輩は何も言ってない。でも、豊田先輩は恐らく来年のことまで考えて、朝比奈先輩を1stに押している。勿論、ツノムーも」
「どういうこと」
「来年のコンクールはあんたじゃなくて、立花がトップになりそうだってこと」
「立花? まあ、実際腕はあるからなあ」
「でも、立花の音は粗い」
「確かにうちのバンドっぽい音ではないよな。まだ。みんなと合わせるってキャラじゃないし」
 伊豫田は頷いた。
「だから、逆にトップじゃないと立花は使いにくい」伊豫田は落ち着いた声で言った。
 僕にも漸く理解できた。
「だから、朝比奈先輩の横に僕をつけ、僕のアンサンブル力を強化して2nd吹きに育てようとしている、って言いたいわけだ」僕は言った。
「そう。豊田先輩は自分たちの代さえ強ければいいとは思っていない。いくら朝比奈先輩が上手いと言っても、やっぱりよりトップ向きなのは豊田先輩の方だよ。もし、本当に今年の勝ちだけを考えているなら、このセクション配置はありえない」
 その通りだろう。ツノムーは豊田先輩のそういう意図もわかって、案を受け入れた。
「そうか。それに、もし今年全国にいって、来年も行けて、そしたら……」
 伊豫田が深く頷いた。
「そう。三出。三年連続で普門館にいったら、その次の年は、その学校はコンクールには出られない。順調にいけば立花が三年生の時に、私たちの学校はコンクールに出られない。だからこそ、来年のコンクールは下級生の育成が重要課題になる」
「立花の下の代が、一年空いてもその後のコンクールで結果を残せるよう、立花の代にそれだけの力をつけさせたいってことか」
 何を言っても、コンクールに出ないと部の力は弱まる。だからこそコンクールに出られない一年間が勝負になる。どれだけその力を維持できるかが、その部の真の実力といってもいい。
 ツノムーや豊田先輩は立花に普門館を経験させたいのだ。その場所を、トップの席から見える景色を、後輩たちに伝える者として。
「立花トップか。立花はまだまだ中坊だけど、来年には間に合うかもしれないね」一年生ながらに、堂々とトランペットを吹きこなす彼の姿を思い浮かべながら僕は言った。
 不意に伊豫田は動きを止めた。そして静かに僕を睨み、凄んだ。
「それでも、私はあんたがトップがいい」ドキッとしてしまうような、鋭い眼差しだった。
「だってさ、どうせさ、合わせるならさ、タカチの音に合わせたいもん。私、あんたの音、結構好きだし」
 今度は思わずジュースを噴き出しそうになって、慌てて紙ナプキンで口元をおさえる。
「何照れてんの。少なくとも、独りよがりの演奏しかできない立花よりかは、一緒に吹いてて楽しいよ」
 顔が赤らむのを感じた。立花よりかはという前置きは付いているものの、一緒に吹いて楽しいと言われたことが、素直に嬉しかった。
 それにね、と伊豫田が続ける。
「私は、やっぱり来年は私たちの代に活躍して欲しい。そういうの良くないとは思うけど、それでも自分の代が可愛いよ。一緒にここまで過ごしてきたメンバーだもん」
 ああ、そういうことか、と僕は思った。
「つまりは、今ここにいない三人も、ってことだね」僕が言った。
 伊豫田が苦々しく笑った。
「勿論。甘い考えだとわかっているけど。今年の三年は三人だったから、三年全員がコンクールに乗れたんだと思う。でも、私たちの代は五人。そのうち今年のコンクールに乗っているのは私たち二人。それに対して一年生は三人」
「コンクールに全員では乗れないかもしれないってことか」
「同情で乗せるのに五人は多すぎるってこと。あるいは同情で乗せたなら、普門館にいけなくなるかもしれないってこと」
「厳しいところだね」僕も頷いた。
「ツノムーは今まで、三年生は殆どコンクールに乗せてきたよ」
「ほとんど、でしょ。全員じゃない。それに、乗れたとしても、普門館に行けなきゃ意味がない」伊豫田は言い切った。
「普門館、ね」
「私も、一度だけ普門館で吹いたことがあるからさ。違うじゃん。普通のステージとは。感動っていうのかな。ああ、凄いってなったわけ。だから、なんとかみんなで味わいたい。私たちの代、五人で。勿論、後輩も先輩も大好きだけど、それでも同期の五人は特別なんだよ。普門館でみんなに自慢したい最高の同期なもんでさ」
 伊豫田はそこまで言ってのけると、ジュースのストローをキュッと咥え、大きく啜った。
 僕もジュースを飲もうとして、もう中身がないことに気づいた。カップを振ると、シャカシャカと氷の音がした。僕は蓋をとり、若干溶けた冷たい氷を口の中に流し込み、ついでに上唇を冷やした。
 伊豫田の言いたいことはよく分かった。同じパートの同期をそんな風に思ってくれているのかと嬉しかった。ここにいない三人の顔を思い浮かべる。三人とも決し下手ではない。けれども、さして上手いわけでもない。パッとしない。高校から吹奏楽を始めたメンバーもいる。名のある中学でばりばりと吹いてきた一年生に、セレクションでは負けてしまった。
 でも、確かにいいメンバーなのだ。みんな優しくて、あったかくて、何より楽器に誠実な、大切な同士だ。
 伊豫田が言うように、五人で普門館にいけたら、どんなに幸せだろう。
 そして、伊豫田は僕にトップを吹いて欲しいと言った。己の代が築いてきたものを、皆に見せつけるのだと。
 確かに、自分たちの代の色を引き出すのであれば、立花より僕が適任に違いない。
 けれども。
「だからって、2nd吹きにならないように、今からもっと我を張って吹けって? 僕はそんなことはしたくない。今がベストの演奏をしないと。気を抜くと今年だっていけないかもしれない。それが普門館だ。今、来年のことまで考えている余裕はないよ」
 伊豫田はやはり不服を顔に表した。そして、言った。
「じゃあ、タカチ。あんた自身は、普門館で、トップで吹いてみたいって思わないわけ」
 当たり前のことなのに、急に聞かれて驚いた。今まで考えてこなかったことだった。
「あんたはトップの席に座りたいって思わないの」伊豫田は繰り返した。
 僕はそっと眼を瞑った。
 1stの軸であるトップに選ばれるのは名誉なことだ。重圧も責任も大きければ、やりがいも大きいに違いない。僕はそれを任されたいとは思わないのだろか。
 自身に問うてみて気がついた。
ーおまえにはこれをお願いしたいー
 僕はそう言われるのが好きなのだ。他人に求めらることが嬉しい。何を求めらるかは重要ではない。
 もし、与えられたのが2ndであるなら、僕は喜んで2nd吹きになるだろう。
 僕は顔をゆっくり上げて首を振った。
「2ndでいいよ。それがこの部のためになるのならば」
 そう言ってから付け足した。
「それに来年の話はまだ早いよ。 伊豫田は普門館、普門館っていうけれど、来年までに何があるかわからない。台風や地震で潰れたり、意外と経営難とかでコンクールが中止になっているかもしれない」
「そんなありえない可能性の話……」伊豫田の声を僕は右手を上げ制止した。
「ありえない話だよ。けれども、今年のコンクールは今年だけだ。先輩達にとっては、最後の普門館のチャンスだし、僕らにとっても、このメンバーで、この曲たちを普門館で吹ける最初で最後のチャンスだ。今は今のベストを尽くそう。今の僕たちでできる最高の演奏をしよう」
 伊豫田は薄い唇の端を微かに引き揚げて、可笑しそうに笑った。
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