(二)

文字数 3,485文字

 入学式も終わり、新入生オリエンテーションと科目登録を終えて、いよいよ大学生活が始まった。サークル勧誘や大学の講義など、慣れないことばかりだった。
 しかし、慣れないことは大学生活だけではなかった。
 ある日、大学から部屋に戻って、家で授業のレポートを書いていると、どこからともなく声が聞こえてきた。それは女性の声だった。それはしゃべっているとか怒鳴り声とかではなかったし、悲鳴でもなかった。
 僕はどこからだろうかと耳を澄ませてみた。気のせいかもと思ったものの、断続的なその声は確かに聞こえてきた。部屋の中で床の上に座布団を敷いて座り、部屋の中を左右に見回してみた。
 その声はどうやら窓の外から聞こえた。僕は読んでいた本に栞を挟んでテーブルに置き、立ち上がってベランダの窓を開けてみた。するとさっきよりもはっきりとした声が聞こえた。
 どこから声が聞こえるのだろうとベランダの左右をみてみた。声は右隣の部屋からだった。それは、僕が今まで聞いたことのない、会話ではなく息づかいの際に声帯が震えるといった類いの声だった。そしてその声が聞こえるたびに、僕の心臓の鼓動が早くなった。
 隣の人が何をしているのか気になって、ベランダの遮蔽板を避けて中をのぞき込んでいた。
 隣の部屋の窓の中は暗かった。灯りを消しているのだろう。窓は開けられているようで、レースのカーテンがわずかに風になびいていた。しかしそれ以上のことは確認できなかった。
 そうしている間にも断続的に聞こえる隣の女性の声が僕を刺激した。その声を聞くたびに僕のドキドキが促進された。そして気づくと、僕の股間が膨らんでいた。それは漫画雑誌のグラビア写真をまじまじと見たとき以来のことだった。いや、今回はそれ以上かもしれない。
 僕はベランダから部屋の中に入った。とりあえず、原因がどこにあるのかは突き止めた。だから掃き出しのガラス窓を閉めて、レースのカーテンを引いてこれ以上気にしないようにすることにした。
 ローテーブルの前に座ってさっき読んでいた本を再び開いた。しかし、再び栞を挟んでテーブルに置いた。
 そして僕はズボンのチャックを開けた。社会の窓からは中から突き上げられて生地が引っ張られているボクサーブリーフが見えた。そのブリーフの中央にある左右互い違いに重ねられた二つ目の社会の窓を、右手の人差し指と中指で左右に押し広げた。
 するとその二枚の布の隙間から勢いよく、僕のが出てきてまっすぐ天井を向いた。
 二つ目の社会の窓の縁の部分で長くなった僕のそれの側部が刺激され、天井を向いている僕の先端から、真っ白い青春が発射された。そしてそれは空中で弧を描き、テーブルの上落ちた。その半分は置いておいた読みかけの本にかかった。
 その本は図書館で借りたものだったので、慌てて床の上に転がっているティッシュの箱からティッシュを数枚引き抜き、本を拭きとった。
 慌てて本からそれを拭き取ったが、出しっ放しの僕の先端からはぬめりのある透明の液体が床に向けて糸を引くように伸びていて、僕はそれも慌てて拭き取った。
 こうして、僕は隣から聞こえるあの声が、いわゆる「あの声」であるということ、初めて知ることになった。

 今まで勉強ばかりしてきた僕に性欲はあまりなかった。クラスメートと回し読みしていた漫画雑誌のグラビアでドキドキしたことはあったけど、特に異性に興味があるとか、そういうことはなかった。
 そもそも高校は男子校だったし、異性に興味をもつ機会はなかった。だからその声が聞こえたときは一体何が起きているのか、皆目見当がつかなかったのだ。



 ともかくその後、大学から部屋に戻り夜になると、隣に住む女性のその声がときどき聞こえた。
 ただ、それは毎日ではなかった。聞こえない日もあった。
 ときどき聞こえる声も、一晩中聞こえることもあるが、何回か聞こえるだけで短時間で終わることもあった。大抵は夜ではあったが、決まった曜日や時間はなく、それはランダムだった。

 ちょうど初夏のある夜、その夜は隣の声も聞こえず、授業のレポートがはかどった日だった。ちょうど土曜日で、週明けに提出をしなくてはならないレポートが三本あったが、日付が変わる直前くらいに全て終わらずことができた。土曜日に授業を入れていなかったおかげで朝からずっと取り組めたというのもあったかもしれない。
 ちょうど終わったところでベランダの窓のカーテンを開けて見ると、向かいのビルの屋上のさらに上の方にまん丸のお月様が出ていた。なんか神秘的だった。
 僕は冷蔵庫からビールの缶を取り出して、プルタブを開けるとベランダに出た。お月様を見ながら乾杯したくなったのだ。ちょうどレポートも三本すべて終わったことだし、そのくらいのご褒美はあってもいいよね、と。
 何口か飲んで缶の中身が半分くらいになった頃、僕は「少年」と声をかけられた。それは女性の声で、最近ネットフリックスで見た海外ドラマ『アンフォゲッタブル』の主人公のそれと似ていた。もちろん、日本語吹き替え版の方だ。
「少年も月を見ているのか」
 僕は声の方を振り向いた。右隣のベランダの方だった。そこには髪の長いお姉さんがいた。
 お姉さんはキャミソール姿だった。下着は着けていないようで、キャミソールと腋の間に豊かな胸の一部が見えていた。
 僕はそこに視線を釘付けにされながら、「そうです」と応えた。
 ようやくキャミソールから目を離して目視したお姉さんは、目線だけこちらを向きながら手にしていたドライ系ビールのシルバーの色のロング缶を斜め四五度に傾けて小麦色の炭酸を口へ流し込み、何度か喉を動かした。
 そして一気に缶を垂直近くまで掲げながら中身を全て飲み干すと、お姉さんは缶をおろし、片手で缶を潰しながら僕の方に顔を向けた。
「少年、君は自由か?」
 お姉さんはそう言った。聞き違いかと思ったのだが、お姉さんは、続けてもう一度同じことを僕に聞かせてくれた。
 自由……。僕はそれについて今まであまり気にしていなかった。今までずっと勉強しかしてこなかったし、今もそうだ。授業に出て課題をこなして勉強している。
 少なくとも進学していい大学に行って、いい会社に就職することがいいことだと思っていた。それは中学時代や高校時代の先生たちがそう言っていた。だから僕はそう生きてきた。
 いい子になること、ルールには従うこと。先生たちのいうことを聞いていれば間違いがない。そうやって、先人が敷いてきてくれた人生のレールの上に乗り、突き進む。そうすることが生きることなのだと思っていた。自由に生きるとか好きに生きるとかは、いや全然関係がないと思うし、必要ないことだ。
 逆に言えば、それは言ってみれば趣味に生きるとか、遊んで暮らすことと同じだ。人生にとっては必要のないことで、子どもがやることならともかく、大人がやることではない。
 ただ、自由かと聞かれたら、どうなのだろうか。自分は自由なのだろうか。一応、両親の仕送りでこの部屋に住んで大学生をやらせてもらっている。親元から離れたので、家の手伝いをしろとか言われなくて済んでいるし、同居していた祖父母にも気を遣う必要がなかった。そういう意味では、自由なのかもしれない。でもそんなこと、意識したことはなかった。だからそれがどういうことなのか、いまいちピンとこなかったのだ。
 僕が下を向いて黙っていると、さらに「君は好きに生きているのか、と聞いているんだ。どうなんだ」と言われた。
「自由に生きるっていうのは、どういうことなんですか?」
「知りたいの?」
「ええ」
「じゃあ私の部屋に来て」
 そういうとお姉さんは自分の部屋に入っていった。
 あっけない展開にベランダに突っ立っていると、「ほら、早く。気にしないでいいから」とお姉さんの声が聞こえた。
 僕はお姉さんの催促につられてうっかり「はい」と返事してしまった。仕方なく玄関からサンダルを履いて共用部分の廊下に出た。そして右隣のお姉さんの部屋のドアの前に立った。
 ここが、お姉さんのあの声の現場なのだ。声が聞こえたときのことを想像すると、僕の心臓の鼓動が早くなった。股間にも力が入るのがわかった。
 僕がドアの前に突っ立っており、自分のフィジカルのコンディションを、冷静さを欠く中でなるべく冷静に把握しようと努めていると、突然目の前のドアが開いた。
「なにやってるのよ、さあ、早く早く!」
 僕は玄関から出てきたお姉さんに左手首を強く掴まれてぐいっと引っ張られ、そのまま部屋の中に連れ込まれてしまった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み