第1話 花屋のおばあちゃん

文字数 1,446文字


 僕の生まれた町の駅前に、小さい花屋があった。焼鳥屋、居酒屋、パチンコなどが立ち並ぶ、よくあるベッドタウンの商店街のなかに、白い花屋がぽつんとあった。
 そこには、いつも一人で花の手入れをしている老婆がいて、通りかかる人に良く声をかけていた。もちろん、まだ小さかった僕にも。
「あら、おつかい? えらいわね。じゃぁおまけしちゃう」
 などといいながら、飴やチョコレートを母に内緒でこっそりとくれた。僕は彼女を「花屋のおばあちゃん」と呼びながら、優しい笑顔を向けてくれるその人が好きだった。けれども、花屋に行くような用事はあまりなくて、それが小学生のころは残念に思うこともあった。

 高校に入って電車で通学するようになったため、駅前の花屋の前を通る機会は増えた。ただ、そのころには僕もお菓子につられるような年でもなく、ただ朝夕の挨拶をするぐらいになっていた。おばあちゃんも、毎日外に出ることもなく、一日の半分は店内にいるようだった。部活で遅くなり、店が閉まった後だとむしろ気が楽になるようにもなった。
 それでもおばあちゃんは気づくと声をかけてくれた。ある日の朝、こんなことがあった。
「おはよう。…あれ、あんた、傘は持ってるの?」
「いや、持ってないっす。でも、降らないでしょ」
「今日は夕方から降るわよ。ほら、あの木の花を見てごらん。下を向いてるでしょう。こういう日はね、雨が降るの。ちょっと待ってな、今、折り畳み傘持ってきてあげるから」
「え、あ、いや、いいですよ。学校に置き傘あるんで」
 小走りに店内に行こうとするおばあちゃんを呼び止めて、僕は早足に駅へ向かった。見上げた空は曇ってはいたが、どちらかというと薄く太陽が透けていて、むしろ晴れそうな気がした。
 その日の昼過ぎ、急に天気が崩れ瞬く間に土砂降りになった。登校口でザーザーと降る雨を見ながら、僕は「まじかよ…」と呟くしかなかった。置き傘がある、と嘘をついた自分が情けなかった。雨の向こうに、おばあちゃんが指さしたのと同じ木があるのが見えた。雨に打たれて枝から垂れ下がった白い花を、傘に入れてくれそうな同級生が来るまでの間、雨の音を聞きながら待っていた。

 時が過ぎても、おばあちゃんはおばあちゃんのままだった。店先に立つ機会は減り、代わりに娘だという女性が花の世話をするようになった。
 僕は大学に進学し、一人暮らしをすることになった。母親が何かの折に言ったのだろう、引っ越しの日、おばあちゃんは店先に花束を持って立っていてくれた。
「こないだまでおつかいで来てたちっちゃい子が、もう大学だもんね」
「いつまでも小さくはないよ。それに、先月までは高校生の格好してたでしょ」
「そうだよね。でも、寂しくなるね」
 そういって、手にした小さい花束を差し出してきた。
「うちは花屋だからね、こんなもんは男の子の家には向かないかもしれないけど」
「え、そんなことないです。いいんですか? なんて花ですか?」
「アネモネっていうの。白いアネモネの花言葉は、”期待”。旅立つあなたにピッタリ」
「ありがとうございます」
「花はね、どこにでも咲いているわ。どんな都会でも道端にはタンポポが咲いてるし、花壇もたくさんある。大事なのはね、咲くこと。そして、愛でることよ。覚えといて」
「はい。ありがとうございます。覚えときます」
 僕が駅の中に入るまで、おばあちゃんは手を振りながら見送ってくれた。向こうに着いたらまず花瓶を買いに行こう、と考えながら、スーツケースを引きずり改札を通った。
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