第1話

文字数 6,731文字

 戦争は終った。
 今、俺は故郷にいる。自分の命を確かめるように、長く静かに息を吐き出す。身体に溜まっていた邪気みたいなものが、重ったるい夜の空気にトロリと溶けて行く。両手を広げて、思いきり息を吸う。硬直した肋骨周辺の筋肉が、緊張から解き放たれてバリバリと骨からはがれ、久々に身体が自由を取り戻す。
(いいぞ。俺は、生きてる)
 湧き立つような喜びが、腹の底から身体の外に溢れ出す。もう一度、息を吸う。湿った土と、むせ返るような緑の匂いが肺の中に流れ込んでくる。
(あぁ、帰って来た。俺の森に)
 町は燃え尽き、黒と灰色の瓦礫以外なにも残らなかった。それなのに、この一画だけは、瑞々しく豊かな樹々が何事もなかったかのように生い茂っている。
(生き残ったんだな。お前も)
平らな町の真ん中に突如現れる鬱蒼とした森。昔は、豪商の屋敷があったらしいが、商売が傾き家屋は朽ち果て、手入れの行き届いていた庭は狸やイタチやヘビが棲み付く暗い森になった。いつしか人はこの広大な土地を「屋敷森」と呼ぶようになり、バケモノが棲むと忌み嫌って近づかなくなった。
(くだらねぇ。バケモノなんているもんか)
 栄華の残骸を見て見ぬ振りをし、他人事を決め込むためには「バケモノ」扱いが妥当だったのだろう。まぁ、ガキの頃の俺にとっては、それが返って好都合。町でかっぱらってきた物を抱えて逃げ込めば、まず誰も追って来ない。特に夜は、「バケモノ」話も嘘じゃねぇかもなと思えるほど、森全体が巨大な黒い生き物のようにうごめき、うねり、不用意に近づくと取って喰われそうなほどのおぞましさを発していた。ガキの俺は、そんな森に抱かれて眠った。ここは、俺のゆりかご。
(五年振り…… いや、もっと長く離れていたか……)
 戦禍に見舞われたにも関わらず、屋敷森の力は少しも衰えていない。葉鳴りが頭上からザンザンと降ってくる。人間の手に似た巨木の葉が、あちこちで手招きするように激しく揺れている。人が近づかない森と、人の道を外れた俺。ざまぁみろ、町のバカ共め。俺たちは、生き残った。
俺は、傾いた門扉を蹴倒し屋敷森に踏み込んだ。

 伸び切った雑草を踏み分け進む。草や木の根にゲートルを巻いた足が取られ、軍靴がぬかるみを滑る。もう少し先だ。デカい洞のある木が目印。その近くに、強奪した大金を埋めてある。使えねぇ仲間は、皆、消した。ふと呻くような微かな声が聞えた。耳を澄ます。生き物の気配。枯葉が積み重なり腐って盛り上がった土くれが、呼吸をしているかのように動いている。誰だ。誰かいるのか。
ふいに、鉄砲を担いでジャングルを彷徨っていた日々がよみがえった。鳴り響く銃声。爆音。叫び。血の匂い。
(やめろ、もう終わったんだ!)
 耳をふさぐ。息苦しい。くそっ! 頭が割れるように痛ぇ。
立ち止まって夜空を見上げた。揺れ動く木立の隙間から、作り物のようなバカでかい満月が空いっぱいに広がって俺を見下ろしている。
(おい。俺は、生きてるか? 生きてるよな……)
 月は何も答えない。俺は胸に手を当てて鼓動を確かめ、静かに息を整える。

「おかえり」

 背後の小さな声に殴られ、俺は「わぁ!」と叫んで前のめりに倒れた。
「おそかったね」
 い、いる。俺のすぐ後ろに、いる。子ども? 四つん這いのまま、恐る恐る振り向く。首がギシギシと鳴る。思った以上に近い場所に、黄ばんだシャツをズルリと着た、貧しい身なりの子どもがひとり、立っている。
「な、なんなんだ、てめぇ!」
 俺は怒鳴ったつもりだったが、全身の筋肉がビリビリと震え、息だけの声が口からこぼれて子どもの足元に転がった。裸足だ。
「立てる?」
 ぺちゃぺちゃと音を立てて、子どもが近づいてくる。俺は反射的に身体をひるがえし、すぐさま立ち上がろうとしたが、足腰が情けないくらいに震えて何度かよろめいた。心臓の激しい連打が耳にまで届く。
「おどろいた?」
 子どもの顔を見た。月明かりに照らされて、皮膚が透けるように白い。七、八歳くらいだろうか。
「お、おま、お前、何してる。こんな夜中に」
 舌がもつれて声が震える。くそっ! みっともねぇ。しっかりしろ。
「僕、ずっと、ここにいるの」
子どもが指差した方向を見た。目を凝らす。廃墟になった屋敷が薄ぼんやりとした明かりを放ち浮かび上がって見えた。そうだ、この廃墟が俺のガキの頃の寝床だった。窓が壊れてむき出しになった板張りの廊下に…… 誰かいる。さっきの子どもがちんまりと腰掛けて俺を見ている。
(いつの間に!)
 移動する音がまったく聞こえなかった。ザッと全身が総毛立つ。
(バケモノ……)
子どもは両足を交互に振りながら、朽ちた床を手のひらで軽く叩いている。
「ねぇ、ここ、座って」
 動けない。全身が硬直したように固まり、一歩も動けない。
(いるはずがない。この森に人がいるはずがない。しかも、こんなガキが)
「ずっと待ってたんだよ」
膝に継当てがある大きめのズボン。バサバサな髪。やせっぽちの身体。ただの貧相なガキじゃないか。忌々しい。
「待ってたって、ど、どういう、ことだ?」
「忘れたの?」
「……何を?」
 ガキは何も答えない。身体が小刻みに震えてくる。これは恐怖なのか、怒りなのか。
「ねぇ、僕を、よく見てよ」
 突然、氷砂糖みたいな声が俺の腹の方から聞こえてきた。顔を下に向けると、俺を見上げているガキと目が合った。真っ暗な底なしの空洞みたいな目。悲鳴が口から飛び出しそうになるのを、息を呑み込み辛うじて抑える。
「い、いいか。俺は、お前なぞ知らん。戦地から、戻って来たばかりで、気が立ってる。失せろ!」
 のどから絞り出すように、一言一言区切りながら、ガキに向かって投げつけた。
「戦地って?」
「……は?」
「戦争? してたの?」
「……」
「いつの? どこの戦争?」
「て、てめぇ、なめてんじゃねーぞ。ぶっ殺されてぇのか!」
 ガキだって知らんはずがない。燃えたじゃないか。町も人も、全部! 誰だ? お前、誰なんだ。
「人、殺したの? ねぇ、たくさん殺した?」
 機銃掃射の音がする。走れ! 逃げろ! 死ぬな! 
あぁ、くっそっ、頭が痛ぇ。割れるようだ。
(わかりますか? 目を開けて)
 誰だ、誰の声だ? あぁ、目が回る。俺は、何で、こんな所にいる?

 ふいに、風がおこった。周囲の樹々が騒ぎ出し、草むらが渦を巻いて立ち上がる。逃げようとしたが根が生えたように動けない。土の底に沈みそうだ。膝から崩れ落ちながら、夜空を見上げた。うねうねと動く樹々の向こう側から、月が、凍えるような目で俺を見下ろしている。俺は倒れ込み、金魚のように口をパフパフと動かした。息ができない。もう声すらも出せない。
唐突に、犬の鳴き声が聞こえた。うごめく草むらの中から小型の犬が飛び出し、俺の周りを高速で走り回っている。なんだこれは。なんなんだ。首輪替わりにぼろ布を首に巻き付けた薄汚ねぇ犬。もうやめろ。やめてくれ! 
(あれ?)
 このぼろ布、見覚えがある。俺がガキの頃に、近所の野良犬に結んでやったものに似ている。
「お前…… まさか、ボン? ボンか?」
 犬は、ちぎれるかと思うほど尻尾を振って飛び上がる。
「ボン! ボンなんだな!」
 俺は慌てて上半身を起こし、ボンを強く抱きしめる。
「そうか、ボン! あぁ、いい子だなぁ。よしよし。会いたかったよ」
 ボンが俺の顔を舐める。ボンの温もり、ボンの匂い、ボンの息遣いが俺の身体から重さを減らして行く。
「ボンだ。これは、俺の犬だ!」
 俺が顔を上げると、すぐ目の前に若い女が立っていた。
「犬は飼えないって言ったじゃないか。もう、困った子だねぇ。こんなに懐いちゃって。仕方ないねぇ。いいかい。お父ちゃんには、私から言ってあげるから。その代り、約束だよ。責任持って、ちゃんと面倒みること。いいね」

(か、母ちゃん…… なんで?)

 俺は混乱して、口を開けたまま母ちゃんの顔を見ていた。母ちゃんもボンも、とうの昔に死んだ。なのに、元気な頃の母ちゃんが、今の俺よりもはるかに若い母ちゃんが、確かにそこに立っている。ふいに、バラバラと音を立てて涙がこぼれた落ちた。
(母ちゃん、母ちゃん……)
苦労に苦労を重ね、やせ細り泣きながら死んでいった母ちゃんが、今、俺の側で笑っている。
「ほら、男の子がこんなことで泣かないの」 
 母ちゃんの手が俺の頬に触れる。柔らかい。温かい。あぁ、母ちゃんがここにいる。俺は泣いた。ガキみたいに、声を上げて泣いた。
「母ちゃん、ごめんね。助けてあげられなくて、本当にごめんなさい」
 泣きじゃくりながら、母ちゃんに手を伸ばす。母ちゃんが俺を優しく抱きしめ、背中を柔らかくトントンと叩いてくれる。ボンが、俺たちの間でそっと尻尾を振る。
「ごめんなさい。ごめんなさい……」
「謝らなければならないのは、母ちゃんの方だよ。寂しくさせて悪かったね。お前は、良い子。本当に良い子だよ。もう大丈夫だからね」
 母ちゃんの声が子守歌のように、懐かしくて甘い。俺は、母ちゃんの腕の中で溶けそうになる。
「ここにいるから、もう、大丈夫。ゆっくりおやすみ」
 身体の重みが消えた。母ちゃんに抱かれたまま夜空を見上げると、でっかい満月が、ますます膨らんで空一杯に拡がっている。月の光に照らされた森は、夜でも昼でもなくただ痛いくらいに眩しい。俺は今、母ちゃんと月の光と屋敷森に抱かれている。
「ねぇ、殺したの?」
ガキが俺の顔を覗き込んで尋ねる。突然、ボンも母ちゃんも消えた。俺は地面にガサリと倒れ込み、半泣きの顔で辺りをキョトキョトと見まわした。
「犬とか母ちゃんとかで泣くんだね、子どもみたい」
 横たわる俺の側で、ちょこちょこ跳ねながら嬉しそうにガキが笑っている。
「てめぇ…… いい加減にしろよ。母ちゃんとボンはどうした」
 ガキは答えない。
「お前…… 誰だ」

答えない。
「おい、クソガキッ!」
 俺は、跳ねているガキの肩を乱暴につかんだ。何かが、ぐにゃりと歪んだ気がした。
「父ちゃんは言ったよね。犬なんて飼わねえぞ、とっとと捨てて来いって」
「は?」
「父ちゃんは、ボンを蹴飛ばして追い出して。まったく酷い人だよね。あなたはこの森にボンを隠したんでしょ。自分が食べる物もまともになかったくせに、あちこちで盗んだ物をボンに与えて一生懸命に飼ってた」
「お前、なんでそれを」
 目の前の景色が歪んで見える。ガキの身体が藻のように揺れている。
「ボン、すぐに死んじゃったね。可哀想に。ここに隠さなければ、あんなに残酷な死に方はしなくてよかったのに」
ボンの残骸を、ガキの俺が呆然と見ている。狸かイタチか何かの動物に噛み殺されたのか、屋敷森のバケモノにやられたのか。俺は泣くことすらできずに、ただぼんやりと見つめている。しばらくして、あちこちに転がるボンの欠片を拾い集め、手で穴を掘って埋めた。思い出した。ここは、ボンの墓場でもあったんだ。どうして、こんなに大事なことを忘れていたんだろう。鼓動が激しくなる。頭がギリギリと痛む。この気色悪いガキは、何で俺のことを知ってるんだ。ちくしょう! 今日はダメだ。出直しだ。
「辛気臭ぇ。冗談じゃねぇぞ。おい、俺は、帰る」
「どこへ?」
「……」
 帰る場所が、思い出せない。友だちも家族も待つ人も、思い出せる人がまったくいない。俺には、誰もいない。
「人はね、戻りたい風景の中に戻って、忘れちゃいけない人に出会うんだって。あなたは、ここ。廃墟を抱えた荒れ果てた森。誰もいない。寂しいね」
「黙れ」
「罰なんだね。きっと」
「は?」
「ひとでなしは、罰をくらうんだ」
「なんだと」
「だって、父ちゃん、殺したでしょ?」  
 酔っ払って居汚く寝ていた父ちゃんを思い出した。あの日、父ちゃんの指に吸いかけの煙草が挟まっていた。火が落ちて布団を焦がしていたのを、俺は見ていた。家中に煙が充満しても、俺は、黙って見ていた。そしてそのまま、家を出た。
「あいつは、勝手に火事で死んだ。俺は何もしてねぇ」
「助けようと思えば、助けられたのに」
 腹の底の方から、怒りの塊みたいなものがギリギリと噴き上げてくる。
「悪い人だね。がっかりだよ」
「うるせぇ! 黙れ! 黙れ! 黙れ! 黙れ!」
俺は、全身が燃え上がるように熱くなり、ガキの紙のように軽い身体を持ち上げて振り回し、近くにあった木に思いっきり投げつけた。ガキの身体がパーンという乾いた音と共に粉々に割れて、周囲に飛び散った。その欠片のひとつひとつにガキの顔が映ってみえる。
「ねぇ、乱暴しないでよ」
 欠片の中の大勢のガキが、口々に叫んでいる。
「黙れ! いいか、教えてやるよ。酷い環境に生まれたらな、自分の力では、どうすることも出来ねぇ。どんなに頑張っても、何ひとつ報われねぇんだ」
呼吸が荒くなる。目がくらむ。大金はどうした? 俺は、今、何をしてるんだ?
「あいつはな、ロクな稼ぎもないくせに毎日理由もなく俺を殴り、かっぱらいの手先に子どもの俺を使ったんだ。あがりも全部かすめられた。ちくしょう! 学校にも行かせてもらえねぇ。どうしてだ? どうして俺はそんな目に合わなきゃならないんだ。仕返しして何が悪い。親が死んでくれたと思ったら、今度は戦争に駆り出されて。くそっ!」
 いつの間にかガキの身体は元に戻って、真っ直ぐに俺を見ている。                                                                    
「俺ぁな、この手でたくさん命を奪った。バラバラになったボンより、ひでぇ有り様の人間をたくさん見たぜ。殺さなきゃ、殺される。戦争ってなぁな、生きるってなぁな、そういうもんなんだ。この世界は元々狂ってるんだ。でなきゃ、どうしてこんなバカげた戦争なんてできるんだよ! 俺のせいじゃねぇ、俺は間違ってねぇ、俺は少しも悪くねぇ!」
いつの間にか絶叫していた。俺は、吐き出すだけ吐き出した後、地面にへたり込んでしまった。夜空を見た。膨らみ続けた月が、突然、無音のまま激しく破裂した。月の欠片が降って来る。チラチラと光を反射しながら、粉雪みたいに舞い降りてきて、屋敷森を白銀に染め始める。
「気がすんだ?」 
 ガキが俺に尋ねた。恐ろしく静かな声だった。
「お前…… 誰だ」
「言ったでしょ。人は戻りたい風景の中に戻って、忘れちゃいけない人に出会うって。僕をよく見て」
 忘れちゃいけない人…… 月の光の中でガキの顔をじっと見つめる。あぁ、そうか。そういうことか。ようやく気付いた。
「お前は、俺か。ガキの頃の」
「ようやく思い出したんだね」
「忘れちゃいけないのは、ガキの頃の俺自身ってことか?」
「そうだよ」
「は? ふざけんな。なんだこの茶番。くだらねぇ。俺は金を回収しないと」
「まだそんなこと言ってるの? そんなもの、どこにもないよ」
「……?」

(わかりますか? 目を開けて)
(ダメだ、頭を撃たれてる、おい、行くぞ)
(だって、まだ息が)
(退避! 退避しろ!)
(お前まで死ぬな、放っておけ!)

(おい、行くなよ。まだ生きてるぞ)

「なんだ、今の声。戦争は、終ったんだよな」
「さぁ、知らないよ。そんなこと」
「俺は、生きてるんだよな」
 突然、地面がうねり耳をつんざく轟音と共に、森の中に大きな口が開いた。廃墟も泥も草も木々もとてつもない勢いで呑み込まれて行く。蟻地獄に落ちるように、俺の身体も引き込まれる。泥をつかむ。滑る。落ちる。手に触れた木の根に辛うじてつかまった。見上げると口の淵で、ガキの頃の俺がぼんやりと俺を見ている。
「た、助けて! おい、何でも言うことを聞く、金もやる。全部やる。助けてくれ!」
 ガキは答えない。俺は、悲鳴のような声で叫んだ。
「助かったら、きっと違った生き方をする。死んでも生まれ変わってやり直す。やり直すから、だから、頼む、助けてくれ!」
「生まれ変わることなんてないよ。天国も地獄も前世も来世もないんだ。全部人間が考えたことだから」
「どうなる、俺はどうなる」
 手がしびれる。俺は落ちてしまう。
「後は…… 闇、かな」
 俺は声を上げて泣き出した。子どものように泣き出した。
「忘れなければ良かったのに。どんなに酷い環境にいても、しなやかに強く伸びて行ける人はいるのに。あなたはそれをしなかった」
「お前、俺の姿を借りた閻魔か、悪魔か、ちくしょう! 憶えてろ! あぁ、助けて」
 ガキが薄っすらと笑った。
 しがみついている根っ子を見た。ボロボロの布がこびりついている。
「ボン……」
 俺は手を伸ばした。
そして、血を吐くような悲鳴を上げながら、屋敷森の口に沈んだ。
 
後は…… 闇。
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