バスの中・1

文字数 4,127文字

 カーテンを吊るす。十センチほど長すぎるそれは春の風に揺れ、ずず、と床を掃く。
「わかってはいたけど、やっぱり長かったなあ」
「そうだねえ。でもとりあえず当分はこのままかな。部屋が片づいてきたらミシンでガーッとまつっちゃうから、悪いけどそれまでは我慢してね」
「急がなくていいよ。踏まないように気をつければいいんだし」
「うん、ありがとう」
 日中は会社の彼、PCとインターネット環境さえあればどこでも行える仕事の私。
 過ごす時間の長い瑞樹さんが好きな家具を買い揃えればいい、と言ってくれた彼に甘え、テーブルも椅子もチェストも、冷蔵庫も洗濯機もストーブも、何もかもかわいらしく女らしい色で揃えたが、カーテンだけは地味な薄灰色のものにした。彼には「防犯になるから」と伝えてあるが、本当の理由はそうじゃない。
 揺れる、カーテンの裾を見ている。
 頭の中で音楽が鳴る。


 *


 真冬のバスは暑い。異常なほど暖気された車内は雨に濡れた人々の熱気と混ざり合い、鉛のような質感になっていた。このバスは町はずれの住宅街にあるバスターミナルから、海沿いにある観光地を過ぎた駅前までを繋ぐ路線で、その途中には県立高校がある。普段どおりの朝ならば人の少ないこのバスも、雨や雪が降ると自転車通学の生徒でごった返してしまう。
 幼いころからどうしても自転車に乗れない私は、毎日ターミナルから数えて二本目のバス停からこのバスに乗っていた。学校からは「他の利用者の皆さんのご迷惑にならないよう、できるだけ席には座らないようにすること」と言われてあるが、従順に守っている生徒なんて誰一人もいない。朝から疲れたくないのは、他の利用者さんも私たち生徒も同じだ。大抵の生徒はお年寄りや親子連れ、妊婦、具合の悪そうな人を見たら立ち上がって席を譲っているし、私もそのくらいで充分だろうと常々思っている。
 ドアが開く。皆が一度携帯電話の画面から目を離しスペースを作る。できた空白に新たな生徒が乗り込む。運転手がぼそぼそと発進を告げ、それと同時にドアが閉まる。再びバスが動き出す。
 入り口付近に目をやると同級生の女子がこちらを見て笑っていた。口の形で、おはよう、と伝えてくるのでそっくりそのまま返してやる。彼女は普段自転車通学で、天候の悪い日だけこのバスを利用するが、彼女の家の近くのバス停は路線の中頃にあって、そういう彼女が座席に座ることはなかなか難しい。
 さらにしばらく進んで高校前。車内から一斉に生徒が吐瀉され、私もその中に混じる。運転手に惰性そのままの礼を伝え、もちろん運転手も何も言わない。校門まで傘を差すか迷っていると、
「おはよう」
 歩道の隅で立ち止まっていた同級生がそっと私をその傘の内に誘導する。
「おはよう。寒いねえ」
 ダッフルコートのポケットに両手を突っ込みながら素直に彼女の傘に入る。
「寒いねー。スカート穿くのがしんどいよ。わたし、きょうタイツ百二十デニール。しかも裏起毛だからね」
「いいなあ、私八十だ」
 華奢な身体つきの彼女が細い脚にまとわせる肉厚なタイツは何となくアンバランスに思えたが、どのような状況であれ寒さには勝てない。自分も近々厚手のタイツを買おうか、しかしバスの中は蒸すように暑いし、などと考えながら私は彼女と共に校門をくぐった。
 私たちはクラスが違う。C組の前で彼女と別れ、私はD組に入る。幾人かの友人たちと挨拶を交わし、机の上に鞄とコートを放って、スマートフォンだけを手に自らを招き入れてくれる輪に参加する。昨日観たテレビ、キュレーションサイトの情報、SNSのハッシュタグ、別クラスの噂話に街中の新店。自分でも、なぜこうも毎日話題に尽きないのか不思議に思う。
 あるいは、「大人」という生き物から見たら私たちがこうして話している内容なんて「話題」とカウントするまでもない、取るに足らないものなのかもしれない。いや、事実そうなのだろう。だからといって私はこの時間を自ら切り捨てようとは思わない。良くも悪くも、今が楽しければそれでいい、それが子どもの特権で、子どもはそう在って然るべきなのだ。当時の私は、子どもとは得てしてそういう生き物であるのだと思い込もうと必死だった。
 鐘が鳴り、各々席に着き始める。私も放り投げてあった上着と鞄を片し、携帯電話をサイレントモードに切り替えて机の中にしまう。しばらくすると教師がやってきて、代り映えしない話を普段通りの口調で話し始めた。


 昼過ぎには雨も止み、下校時間になるとむしろ雲の透き間からは金色の光の筋がちらちらと見え隠れしていた。相変わらず校庭は水浸しだったが、陸上部は室内でのトレーニングを行うらしく、廊下ですれ違った同級生の女子生徒は「めんどくさいよー」と文句を垂れながら私に手を振った。部活動に参加していない私は、誰かに誘われない限りどこにも寄らず真っ直ぐ家へ帰る。きょうも誰からも声をかけられなかった。自分から声をかけることはまずない。
 視界や道路が悪いわけでもないのに、バスはなかなかやってこなかった。土地柄なのか、遅延することは少なからずあるので十分程度は気にしないのだが、この日は十五分経ってもバスはやってこない。何度も時刻表を確認しながら首をひねっていると、
「あれ、もしかしてまだきてない?」
 駆け足で近づいてきた新藤くんが嬉しそうに私に訊ねた。
「あ、うん、まだ。すっごい遅れてるみたい」
「おおー、ラッキー。雨のせいかな? でももう晴れてしばらく経つし、道路もそんなに水浸しって感じじゃないよね」
「ね、ほんとに。何かあったのかな」
 新藤くんがポケットからスマートフォンを取り出し、何かを入力する。手際よく作業しながら、そうして、
「ああー、なんか事故っぽい」
「え? 事故?」
「うん、ツイッター。ほら」
 彼が私に画面を見せる。映っていたのはツイッターに載せられた写真で、新藤くんは路線名とバス会社で検索をかけたらしい。本来であれば私たちを乗せていたはずのバスは、観光地付近の三車線道路の中央分離帯に突っ込み、前方がひしゃげていた。
【××前で×××のバスが事故ってた。フロントガラスぐちゃぐちゃだわー】
 添えられた言葉の軽さと写真の重さが釣り合わない。新藤くんは画面を眺めながら、
「なんつーか、よくこういうの撮れるよなあとか思うわ。まあ情報としては助かっちゃってるんだけど」
 まるで写真の中のバスみたいに顔面を顰める。
「まあこういうことなら仕方ない。歩くかあ」
 新藤くんが歩き始める。少し行ったところには別路線のバス停があった。おそらく彼はそこに向かうのだろう。私も新藤くんの後をついていく。
 新藤くんはB組の生徒だったが、去年同じクラスだったこともあり別段緊張することもなく話せた。彼は他の男子たちよりも頭半分背が高く、スラックスの裾がちょっとだけ短い。入学当初は平均的な身長だった新藤くんは、この一年半ほどでうんと背が伸びたようだった。道をショートカットするためコンビニエンスストアの駐車場を斜めに過ぎる。公衆電話の囲いに一瞬だけ映る私たちは、平均身長より五センチ小さい私の影響なのか何となくバランスが悪い。
 目的のバス停に到着し、新藤くんと並んでバスの到着を待つ。新藤くんに倣い、ツイッターでこの路線で何か事故が起きていないか確認してみるが問題なさそうだった。新藤くんにそれを伝えると、
「三上さん、マメなんだねえ」
 と、少しピントのずれた答えが返ってくる。
 私たち以外にも、バスの事故を知ったのだろう生徒たちがぽつぽつと列に並ぶ。複数人で並ぶ子たちは各々お喋りに夢中で、ひとりの子は皆イヤホンを嵌め何かを聴きながらスマートフォンをいじっていた。私は新藤くんと並び、何を言うでもなく、聴くでもなく、ふたりじっと前を見つめていた。
 しばらくしてバスがやってきて、先頭の新藤くんから順に乗り込む。新藤くんは後方の二人掛けの席に座り、私は前方の一人掛けの席に座った。鞄からイヤホンを取り出し、スマートフォンに繋ぐ。適当な音楽を流し、キュレーションサイトや有名人のインスタグラムなどを暇つぶしとして眺める。都会で流行っているという、いかにも合成着色料だろう毒々しい色合いの飲料はまだこの街までたどり着いていない。見つけたら買って写真を撮ろうと思っているけれど、きっと私が手にするよりも先に他の子たちが買って、各々のSNSにアップするのだろう。そこに示される、私の交友関係では賄いきれないほどの“いいね”を私は「羨ましい」と思ったりする。皆が承認欲求を満たすためだけに行う様々を鼻で嗤えるほど私は大人じゃなかったし、孤立を受け入れられるほど強くもなかった。
 私が着席して数十秒後、耳元から流れる音楽のイントロが終わるとほとんど同時、バスは走り出した。雲行きが怪しい。今朝のような雨が降るのかもしれない。


「ありがとうございました」
 イヤホンの片耳だけを外し、最寄りのバス停で降りる。なんとか空は持ちこたえていて、坂上の自宅までならば濡れずに済みそうだ。
 新藤くんは七つほど前のバス停で降りて行った。私とすれ違った瞬間、彼は私へ向かって何かを言ったようだったが、その声は音楽に掻き鳴らされ聞き取れず、思わず発した、
「え?」
 という私の言葉に新藤くんは苦笑しながら首を横に振り、そのまま料金を支払うとバスを降りてしまった。悪いことをしたと思い新藤くんにLINEで詫びでも送ろうかと考えたが、しかし私は彼の連絡先の一切を知らない。今度廊下ですれ違ったら、そのときにでも。そんなことを思いながら私はいつもより早足で緩やかな坂を上っている。確かに傘はあるが、だからといって冬の雨をすんなりと受け入れられるわけではない。湿っぽい冬の匂いは心理的にも寒さを加速させる。パート勤めの母はもう帰宅しているだろう。自室の暖房を点けてもらえるよう、バスの中で連絡を入れておくべきだった。いつもそのように思い、しかしいつも頼むのを忘れてしまう。
 薄暗い住宅街、雨合羽を着た大型犬とすれ違う。犬は私の顔をじっと見つめながら通り過ぎ、私は無言で飼い主と会釈し合った。
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