バスの中・2

文字数 3,788文字

 翌日は快晴だった。いつも通りの時間にバスへ乗り込み、一人掛けの席に座り、イヤホンから適当な音楽を流している。通り過ぎる保育園ではすでに何人かの子どもたちが校庭を駆け回っていた。とりどりのコートを着た彼らはゼンマイ仕掛けかと思うほどぎこちなく走る。数年もすればあの不安定さもなくなってしまうのだろう。モップのような長い毛を持つ薄灰色の大きな犬が、飼い主と共に信号が青に変わるのを待っていた。その隣にはスーツ姿の男性、ジョギング中の老人は足踏みを繰り返している。
 信号が変わり、バスが進み、しばらくして停車する。バス停から数人の人が乗り込んでくる。うち一人は新藤くんだった。彼は私の姿を捉えるとそのまま近づいてきて、私の座席の真ん前のつり革を掴む。私はイヤホンを外す。
「おはよう。今日もさみーね」
「あ、うん、おはよう」
 車内は空席だらけだった。新藤くんは私の後ろの席に座るでもなく、他の席に座るでもなく、私の横に立ちつらつらと淀みなく話しかけてくる。
「三上さんってどこから乗ってるの?」
「×××××っていうところ。バスターミナルから数えて二本目」
「へえ、かなり遠いんだね。だからバス通だったんだ」
「ああ、それもあるけど、私自転車に乗れないの」
「え、マジ? バランス感覚的な?」
「うーん、どうだろう。でも確かに、あんまり運動は得意じゃないな」
 新藤くんがしみじみと「大変だねえ」と言う。内心、そこまで困ったこともないのだけれど、と思いつつ適当に頷いてみせると、新藤くんは、
「三上さん、いま何聴いてたの?」
 私の膝の上のイヤホンを指さしそう言った。
 思わず固まってしまう。中学時代の記憶が一気に甦る。
 自分でいうのもなんだけれど、中学時代、私はクラスで浮いていた。当時両親の教育方針の影響で自宅にテレビはなく、やはり彼らの影響で海外バンドの陰鬱な音楽ばかりを聴いていて、流行りのポップソングなんて何一つも知らなかった。クラスメイトがアイドルだ、Jpopだ、邦ロックだ、ロキノンだと騒いでいるあいだ、私は教室でただ一人教科書を読んでいた。当時の私は彼らの聴く音楽のよさを理解しようとしていなかったし、理解したいとも思っていなかった。
 テレビ番組なんてものは、低能な親が子どもへの躾を手抜きするためだけに流すものだと母は言った。父は「あれを見ていると頭が悪くなる」とばかり表現した。二人は今も昔も私以上にインターネットにのめり込んでいる。
 今の私は邦楽も万遍なく聴くし、自室にはテレビだってある。クラスメイトの話題にも問題なくついていけている。スクールカースト上部の女の子から教えられたキュレーションサイトはくまなくチェックしているし、SNSだって皆が登録しているものにはちゃんと私も参加している。大丈夫、今の私は浮いていない。自分に強く言い聞かせる。
「えーっと、×××の新譜」
 クラスメイトの大半が聴いているバンドが先月出したアルバムを挙げる。どうやら新藤くんも彼らの音楽は好きだったらしく、
「あー、すげえよかったもんね。俺、あのアルバムだと××が好き。何曲目だったかな」
 彼はわかりやすく破願してみせた。
 それほど好きでもないバンドの名前を挙げることにも慣れた。私は高校生として、問題なくクラスに馴染んでいる。環境に溶け込んでいる。何も問題はない、不安がることなんてない。新藤くんと話し続ける。他の乗客が眉をひそめて賑やかすぎる私たちを見ている。彼はそのことに気づいていないようだった。


 以来、毎朝新藤くんは私とバスで会うたび私の座る席までやってきては、両手でつり革を掴み私に話しかけてくるようになり、私はできるだけ彼の話を聞く側として適切に相槌だけを打ち、淡々とその時間を過ごした。無暗に話を広げ、中学時代のように他者を見下す自分に戻るわけにはいかないと思っていた。知っていることも知らないと言うこと。何も知らない下等な道化で在ることで、私は怠惰な高校生活をここまで乗りこなしてきたのだから。
「ああ、そういえばさあ、これ、聴いてみてほしくて持ってきたんだよね」
 信号待ちでバスが停車したと同時、新藤くんが鞄から一枚のCDを取り出す。彼が私に見せたのはイギリスのとあるバンドで、陰鬱な歌詞と、様々な音楽の旨みを適切にピックアップし再構築したような複雑なサウンドが響く、私が何年も愛聴しているそれだった。
「え、××××?」
 思わずバンド名の愛称を口走ってしまう。途端、新藤くんはわかりやすく嬉しそうな顔をして、
「え! 三上さん××××知ってるの!」
 と大声で言う。さすがに目に余る賑やかしさだったのだろう、いくらか離れた席のサラリーマンがわざとらしく咳払いをした。新藤くんが、「あ、やべ」と呟き、サラリーマンへ小さく頭を下げる。運転手は何も言わず、バスもまだ動かない。新藤くんは、
「三上さん、こっちきて」
 と小声で私を誘いながら、私の座る席の斜向かい、二人掛けの席へと腰掛けた。歩行者用の信号が赤に変わる。もうすぐバスも動き出してしまう。私は慌てて立ち上がり、彼の隣に座る。断っていい流れだとは思えなかった。私が座ったと同時にバスは発進して、私は軽く体勢を崩す。新藤くんが私の前に自身の手を差し出し、私は思わず彼の手を掴んでしまう。
「あっぶね、大丈夫?」
「あ、うん……。ありがとう」
「座席、見てないのかな」
「まあ、信号が変わりかけてるのに動いた私も悪かったわけだし」
 運転席のほうを見ながら睨むように新藤くんは目を細めている。私はコート越しに伝わってきた、女友達のそれとは明らかに違う彼の腕の逞しさにいくらか動揺していた。悟られないよう話題を音楽に戻す。ただ、あのバンドのファンだとは気づかれたくなかった。予防策として言い訳を並べておく。
「でも、新藤くんも××××とか聴くんだね。友達がこの人たち好きなんだけど、私は名前くらいしか知らないんだよね」
「あれ、うそ? えー、友達って誰?」
「他の高校の子。中学時代の同級生で、もう連絡取ってないけどね」
「ふうん……。なるほどね」
 新藤くんは明らかに残念そうだった。私が彼らの愛称を口走ってしまったことに余程驚き、それと同時、余程嬉しかったのだろう。少し申し訳ない気持ちになる。しかしもう引っ込みはつかなかった。私が自らの嘘を暴くことはない。
「新藤くんはそのバンド大好きなんだね」
「うん、俺はきょうだいの影響で聴き始めたんだけど、もうめちゃめちゃ好きで。サブスクで聴けるからCD買う必要はないんだけどさ、なんか、中古屋とかで見かけるとつい買っちゃうんだよね」
「あはは、よっぽどなんだね」
 新藤くんが私にCDを手渡す。受け取って、自分でも何度も眺めた歌詞カードをぱらぱらとめくる。全体的にボロボロになっているのが中古だからなのか、新藤くんが何度も読み返してきたからかはわからないが私は好感を覚える。
「これ、借りてもいいの?」
「あ、勿論もちろん! そのために持ってきたんだし」
「ありがとう。今日中にPCとスマホに取り込んで、明日には返すね」
「聴いたら感想教えてよ」
「うん。大したことは言えないと思うけど、それでよければ」
 新藤くんが満足そうに笑い、私も彼に笑い返す。彼らの全アルバムがすでにPCにもスマートフォンにも入っていること、中学生時代は彼らの曲ばかり聴いて過ごしていたことを新藤くんが知ったら、はたして彼は喜ぶだろうか。それとも中学時代のクラスメイト達のように気持ち悪がるのだろうか。そもそも新藤くんはなぜこのCDを私に聴かせようと思ったのだろう。訊ねてみたい気持ちはあったが、結局切り出せないままバスは高校までたどり着き、私たちは下駄箱を過ぎたあたりで何となく別れた。


 教室に入る。仲のいいクラスメイトの女子が私を見つけるや否や、出し抜けに私の腕を掴み、
「瑞樹、新藤と仲よかったんだ?」
 と言った。彼女の顔はどこかせせら笑っているようにも見える。嫌な予感しかしなかった。
「えーっと、それってどういう?」
「いやあね? 瑞樹さんはああいうのが好みなんですねえってことです。ふふ、何回も見かけたよ、一緒に登校してきてるところ」
「はあ? なにそれ、飛躍しすぎ。毎朝バスで会うから話してるだけだよ。音楽が好きみたいでさ、私も俄知識で相槌打つしかしてないし」
「あのさあ、新藤さあ、ホントはバス通じゃないんだよ?」
「え?」
「新藤。アイツ、チャリ通」
 思わず彼女の顔を凝視してしまう。今度こそ彼女はわかりやすくニヤニヤと笑いながら、
「瑞樹と一緒に通いたいからってことなんじゃないの?」
 まあ、うまくやんなよ。アイツ友達少ないみたいだし、ちょっとオタクっぽそうだけどさ、たぶん悪い奴ではないと思うんだよね。そういって彼女は私の肩をパンと一度強く叩くと左腕を解放した。私は自らの両手を強く握りしめながら彼女の後姿を見ている。彼女がいう通り、きっと新藤くんは悪い人ではないと思う。
 悪い人、ではない。
 もし彼女が中学時代の私を見たら何と表現しただろうか。考えたくもなかった。


 帰りのバスでは新藤くんに会わなかった。
 鞄からCDを取り出し、ぼうっとジャケットを眺める。見慣れた写真、見慣れた文字、聴きすぎた曲。頭の中で音楽が鳴っている。イヤホンはつけていない。
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