第2話 水面の月

文字数 1,787文字

地に在る月が ぴしゃんと言う音と共に壊れて 白く耀く光の輪を広げてゆく。

広大な池に広がった波紋の中程に 銀鱗の美しい鯉が顔を出していたが またゆっくりと沈んでいった。
風も無く 穏やかな夜だった。
天に在る青白い月と 水面に映った青白い月の灯りが 電灯の消えた部屋の中に、冴え冴えと差し込んでいる。
薄暗がりに 四角く切り取られた小さな灯りがあった。
幻想的な景色には目もくれず ベッドにもたれて 弐弧は気も無さそうにスマホを弄っている。目に入る情報は頭の中まで入って来ない。特に何を見ている、と言う訳でも無かった。其の証拠に 上下の瞼は今にもくっつきそうだ。
ふ と灯りが目の前から消えた。力の失せた手からスマホが落ちたのかと、床に視線を巡らせたが見付からず 顔を上げると、ベッドの上に居る紅い目の同居人に奪われたのだと分かった。
「は?! 何してるんだよ 返せ」
直ぐ様手を伸ばしたが 同居人は動きが敏捷で また 異常に力が強く、悪意のない悪事に長けていた。サーファー男のスマホを片手で握り潰した事は、まだしっかりと記憶に残っている。文明の利器の恩恵を受けた事のない同居人にとって スマホ等唯のガラクタに過ぎない。
「こら!返せって!」
サッカーボールの奪い合いでもしている気分だ。だが
「いった!」
うっかり同居人の口の前に手が行ってしまい がぶりとやられた。
「一縷!!」
一瞬にして喰い千切る程の鋭い牙と、並外れた咬合力の持ち主だが 幸いにも手の甲に穴が開いた位で済んだ。
とは言え 紅い血がぽつぽつと噴き出し、痛みもそこそこあるとなれば 渋面になった上に怒らずにはいられない。
「返せよ!」
鉤爪の餌食になる前にスマホを奪還したが 同居人はふん、とばかりに顔を背けた。特に表情筋は動いていないが 心の動きなら分かる。
初めて此の少年と出会った時の事が もう 遠い昔の事の様だ。
あの時の自分は 此の少年には心が無いと思っていた。狂った紅い目の化け物だと そう思っていた。感情があるとすれば 口から吐き出す程の烈しい怒りだけだった。
「ほら、テレビでも観てろよ」
リモコンを取ると 卓袱台の前にある黒檀の台に乗った32V型のテレビの電源を入れた。是れ以上 一縷と仁義なきスマホの奪い合いをしたくないので、スマホを床に置いて弐弧も画面を眺める。
何も面白い事は無い。心の中の空虚が 全身に行き渡っていく。
ベッドを見上げると 一縷は伏せ目がちにテレビのある方を見ていた。あの狐男は 一縷が弐弧にリンクしている、と言っていたが 其れは違う。
二人は 同じ様な感性の持ち主なのだ。境遇は違えど 二人の心は何処か似ている。
だから分かる。

「… 外行く?」

心中の声に従っただけの何気ない言葉なのに 変に気恥ずかしくなって、視線はあらぬ方に向けられる。
「…
沈黙に息苦しさを覚え始め ちら とベッドの上を盗み見ると 紅い目は直と弐弧を見返していた。
一縷には声がなかったが 目に浮かんだ心は口にせずとも分かる。
弐弧の微笑に一縷が同じ様に返す。真似たのではない。

同じ心が 同じ表情を作ったのだ。



腕時計を見ると深夜の一時だった。
静寂の中に濁音を響かせて走り去ってゆく、バイクの赤いテールランプをサングラスに映し 欣は溜息を吐いた。
此れでこそ十代らしいと言えばそうかも知れないが 何て元気な子供達なんだろう。
自分も持って生まれた性質上、深く眠る時間は少ない。夜行性と言うならそうだ。
引き籠もりの鬼子と、寝てばかりの堕鬼 最初の頃は、此の二人に世話など必要だろうかと訝しんだものだが 付き人の苦労がそろそろ分かり始めて来た。
二人の行き先は決まって廃墟だ。
何をするでも無く 暢気に夜を楽しんでいるだけだが 異変は何時起こるか分からない。 
感覚の鋭い二人にバレない様に 遠くから護衛すると言うのも決して楽な仕事では無い。

不思議な思考をする鬼姫と 行動の読めない二人の少年 ― どっちの面倒をみたいかって言われりゃあ 三日は悩んでられそうっスけどねぇ

何度選択を迫られても きっと自分は此の少年達を取るだろう。何故と言って
月日が流れ 季節が巡るように 変化してゆく二人の心を 傍で見ているのが俄然楽しくなって来たのだ。
欣は ばたばたと頭から尾の先まで身を振るってから 金色の双眸で闇を見据え、鼻を上げると 後を追って、風に乗るように駆け出した。


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