第1話 にこ

文字数 1,989文字




… で 期末テストの結果についてなんスけど 長から若に有り難い御言葉を頂戴しておりやして」

サングラスの奥の眼を 切っ先の様に冷たく光らせると
「真面目にやれ クソガキ」
低く凄みのある声を意識したつもりかも知れないが 明朗快活な此の付き人には再現しきれていない。
「との事でさぁ」
ぱっと明るい声に戻って締め括ったものの 突然始まり、唐突に終わった寸劇に呆気にとられ
「え?
「何 … は?」
思考も言葉も追い付かなかった。
何時もの様に門前で帰宅から出迎えてくれた赤毛の付き人は 部屋まで付き従いながら返答不要のたわいのない話を揚々としていたのだが 其の中に、例によって思わず聞き返さずには居られない言葉が紛れ込んでいた。
「あっしが言うのも何ですけど あんまりじゃねぇですかねぇ、此の点数…」
そう言って 弐弧の期末テストの結果一覧をびらりと出して来た。
「下から数えた方が早いなんざ 情けねぇじゃねぇっスか」
確かに良い点数では無い。そんな事は言われずとも分かって居る。
突き付けられて赤面するのも屈辱だが仕方無い。だがしかし
一度も姿を見せた事も無いような、名目上の養父にとやかく言われる筋合いはない。
勉強が苦手なんでしたら家庭教師でも と提案して来た付き人を目で制して下がらせた。
温かみのある古民家の様な部屋には、年季の入った黒檀製の家具が整然と並び 壁際にある本棚には参考書や辞書などが一通り揃えられていたが開いた事も無い。其の隣りにある勉強机には向かった事も無い。利用している場所は限られている。差し当たって
― セミダブルのベッドだ。
黒檀の床に敷かれた、落ち着いた色合いのラグの上で 一縷が気持ちよさそうに転がっている。雪見障子は全て開け放たれ 心地良い風が吹き込んで来ている。縁側の向こうには 広大な自然の池があり 対岸の目にも鮮やかな緑と言う緑が水面に上下反転して 幻想世界の様に映っていた。
聞こえて来る蝉の声も風情を感じさせ 青々とした竹林が落とす影が涼しげに揺らめいて、少しも暑さを感じさせない。
弐弧は其の寝姿を眺めながら 学校に行く必要も無く、此の場所で好きなだけ寝ていられる一縷を羨ましく思った。
勉強か ―
部屋の真ん中に置かれた卓袱台に教科書を取り出してみたが 全くやる気が起こらない。明日も小テストがあるが 未だ曽て予習などした事も無い。追試と補習を受けない程度にそこそこの点数さえあれば良いのだ。
右手は開いた教科書の上でシャーペンを回して弄び、左手は頬杖をついて、寝落ち寸前の目は虚に文字を眺める。ふと 小さな濁音が聞こえ、目を上げると 其処には何時の間にか起き出していた一縷が 鉛筆を手にごりごりと天板に何やら書き付けている姿があった。

― あの鬼 弐弧たんとリンクしてるみたいなんだけど

真逆。そう言えば 慧が字を教えていた様だが ― 年季が入っているとは言え 高級そうな卓袱台に落書きをされては堪らない。慌てて広げたノートを鉛筆の下に差し込んだ。
一縷は無表情の儘、視線も動かさず 一心に字(?)を書き続けている。何を書いているのか、と覗き込んでみたが 幼子が書く様な辿々しい字で、金釘流の象形文字にしか見えない。文字で会話をすると言うアイディアは日の目を見そうもない、と言う事だけは良く分かった。
溜息を一つ吐くと ノートを埋め尽くしていく黒い落書きを何とはなしに眺めた。



「若 夜食をお持ちしやした!」
熱心に、と言う「気」はまるで感じられなかったが まだ辛うじて聞く耳は持っている鬼子が取り敢えず勉強を始めたらしい、と分かったので差し入れを用意したのだが ―
部屋の主は卓袱台に突っ伏して寝ている。まぁそんなものだ。
同居人はベッドの真ん中を堂々と占拠して寝ていた。此れはまぁ何時もの事だ。
二人共ちょっとやそっとの事位では起きそうにもない。
ぶちまけられた教科書やら筆記用具やらで、卓袱台は荒れ放題だ。是れ以上物を乗せるスペースもない。鬼子は繊細な心の持ち主だが 割合雑な性格でもあった。
やれやれ、と盆を下に置いて片し始め ふと目に入ったノートを見て唖然とした。
天板にまで越境する程、金釘流の象形文字が描かれている。鏡に映った字を書いたかの様に、反転した平仮名らしきものが幾つか見受けられた。
此れが真面目に書かれたものだとするなら相当痛々しい。余りに眠過ぎて字がおかしくなったのだろうか。いやいや きっと此れは利き手ではない左手を鍛える為だ。いざと言う時に備えて訓練をしていたのに違いない。高校生にもなって 先ず字の書き方から学ばねばならない、と言う様な事は無いだろう。― 多分。
其れにしても
確かに「百鬼弐弧」と言う鬼子の姓名は、一寸変わった漢字を使われてはいるが ― 
意味不明な文字の羅列の最後に はっきりと読み取る事の出来る文字が二つだけあった。
其処にはこう書いてある。

― にこ
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み