二
文字数 5,057文字
二
次の日も、そのまた次の日も、教室での佳奈美 は元気がない様子だった。
一見普段どおり振る舞ってはいる。が、あたしにはそれが空 元気 に見えてしかたない。無理をしている。友達との会話を切り上げ、ひとりになったときの憂い顔も目立つ。
あたしがそれに気づいてるってことは、佳奈美にベタ惚れで、視線でストーキングしてるようなご主人様も当然感づいてるはずだ。
けれどご主人様はそのことで佳奈美自身に尋ねたりはしない。心配で悶々としてるくせになにもしない。今はそっとしておこうという気遣いってヤツか? いやいや、意気地がないだけだ。ヘタレなんでしょ?
そんなヘタレご主人様は本日、佳奈美のことを考えるあまり数学の宿題を忘れた。当然、数学教師から怒られ、今日中の提出を命じられた彼は、放課後ひとり居残ってそれに取り組んでいる。
二年A組、窓際の一番うしろ、うんうん唸りながら問題集に向かってシャーペンを動かすご主人様。
今日は土曜日。授業は午前中で終了し、時刻は一時を少し過ぎた頃。窓からは九月の強い日差しが注がれ、室内を光と陰で切り取っている。かすかに聞こえてくるのは合唱部のものと思 しき歌声と、グラウンドからの打球音。教室には今、ご主人様しかいない。
苦手な数学だから、思うようにはかどっていない。ていうか、得意な科目なんてご主人様にはないんだけどね。
「わかんねーな。なんでだ?」
あんたの頭が悪いからさ。
そんなあたしのツッコミもご主人様の耳には届かず、彼は眉間にしわを寄せて、頭をかしげた。その拍子に視線が隣席に留まる。
佳奈美のことが気がかりなのだろう。彼女に射す影の原因はなんなのか。それを取り払ってあげたい――という気持ちはあるのに、実行に移す勇気がない。結局、ご主人様にできることは、片想いの相手の机を眺め、その名を呟くことだけだった。
「ああ、綾野……」
気持ち悪っ。
やべ、つい本音が。まあ、こんなとき映画やドラマだったら、佳奈美が偶然教室を訪れ、ご主人様とふたりだけのシーンが幕を開けたりするんだろうけど。現実はそんな甘くない。
不意に教室のドアがガラリと開いた。
現実甘かったか?
「あ、伸 じゃん。ひとりでなにしてんだ? ひとりエッチか?」
佳奈美はこんなこと言わない。
ご主人様がぎょっとする中、ひとりの女子生徒がドア口からご主人様のほうへずかずか歩いてくる。ショートカットに卵型の顔、くりっとした瞳を悪戯っぽく輝かせた少女は、中性的な雰囲気と、燦々 とした明るさを纏 っている。
「なんだ、瑞月 か」
うんざり気味にその名を口にするご主人様。あたしももちろん知っている。
彼女の名は西原 瑞月 。ご主人様とは幼稚園に通っていた頃からの付き合いで、自宅も近所。いわゆる幼 馴染 というヤツで、昔はよくご主人様を子分のように従えて遊びまわっていた。今はさすがに連れだって歩くことはなくなったが、クラスメイト同士、顔を合わせればバカ話するくらいの仲だ。
「なんだじゃないよ。エロ動画見て、右手上下運動してたんじゃないの? このムッツリが」
「見てねえし。ていうか、下品な会話に俺を巻き込むな」
自他ともに認める下ネタ好きの瑞月は、ニシシと笑いつつご主人様の前席に腰を下ろした。
「で、実際なにやってんのおまえ? 数学?」
「今日中に提出する宿題」
「ああ、数学の川本に説教食らってたもんな。相変わらずバカだなあ」
「瑞月にだけは言われたくねえ。この前の数学のテストの点、言ってみ」
「七点。百点満点中ね。すごいよね? ラッキーセブン」
「おまえってたくましいのな」
ご主人様はやれやれといった表情で「邪魔しないで、とっとと帰れ」と、手で追い払うしぐさをする。でも瑞月はそれを無視し、スカートのポケットから手鏡を取り出すと、髪を整えだした。
「残念、帰りません。カレシの委員会終わるの待ってんだ」
ご主人様は「そういうことか」と、肩をすくめた。
あたしも納得。ひと月ほど前の夏休み中盤、瑞月が暑中見舞いに、釘坂 家にスイカを一玉持ってきたときのことを思い出す。彼女はご主人様の部屋に上がりこみ、それからたっぷり二時間、カレシができたことを自慢し、のろけまくってから帰っていった。
今はそのカレシとの待ち合わせのために居残り、ご主人様はそれまでの暇つぶしの相手というわけだ。
ご主人様は「リア充め」と舌打ちしたが、それ以上はなにも言わず、再び宿題に取り組みだした。邪険な態度を取らないのは、幼馴染の恋を本心では応援してるからだろう。
自分の恋もままならないくせに。
ご主人様の恋愛への煮え切らない態度を思い、あたしも舌打ちした。当然ご主人様は気づかない。あたしにはどうしたって彼を叱咤したり、発破 を掛けたりは不可能。ホントじれったくてイライラする。精神衛生上とてもよろしくない。最近お肌の調子がいまいちなのも、たぶんそのせい。ご主人様が全部悪い。
などとあたしがぐちぐち愚痴る中、瑞月が手鏡を覗き込んだまま言った。
「伸はさあ、カノジョとか欲しくないの?」
ご主人様のシャーペンを動かす手が止まった。おそらくご主人様の脳裏には佳奈美がよぎったに違いない。おっ、これ、瑞月がヘタレご主人様の背を押す展開にならないかしら。
あたしが期待感を持って見つめる先、瑞月はご主人様へ顔を向けた。
「好きな女いないの?」
「そんなのいりゅわけないだろ」
噛んだ。今明らかに噛みましたよ、こいつ。ご主人様は何事もなかったように、思案顔で数学の公式を呟きだす。その様子に、瑞月は不敵な笑みを浮かべた。
「嘘だ。絶対いるね。当ててやろうか? ん?」
すまし顔で無視するご主人様。瑞月は手鏡をしまい、顎先に指を当てて考えるそぶりを見せたあと、言った。
「ずばり、国語の小笠原」
「定年間近だろ」
「伸って熟女好きじゃないの?」
「熟女好きじゃねえよ」
瑞月はおかしいなと小首をかしげて唸った。その態度がどことなくわざとらしい。やがて瑞月は手をポンッと叩き、それからご主人様の鼻先へ指を突きつけた。
「じゃあ、綾野 佳奈美 !」
「なっ……」
ご主人様は目を白黒させ、絶句した。手からシャーペンが零れ、コロコロ転がって机から落ちても拾おうとしない。ニタッと笑う瑞月を呆然と見つめる顔が、しだいに赤くなっていく。
「そ、そんなわけ……あるかっ」
ようやく振り絞った声は裏返ってるし、汗も尋常じゃないくらいかいている。ご主人様の背後に〝図星〟の文字がドンッと浮かび上がってるみたいだ。
まあ、瑞月の態度からして、前から察していたのは間違いない。ご主人様の意中の相手が佳奈美だってことに。そのへんはさすが幼馴染。鋭い。
瑞月は床に落ちたシャーペンを拾い、それでご主人様の胸を軽く突っついてきた。
「おまえ、いっつも綾野のこと見てんじゃん。ずっと前からさ。熱くてエロい目で。頭ん中で裸想像してそうな感じで。な? 吐いちゃえ吐いちゃえ、釘坂伸よお」
追及の手を緩めない瑞月に、ご主人様はひとことも返せない。狼狽のあまり、思考が停止してしまったかのようだ。
ああ、もう認めればいいのに。バレバレなんだから。
ていうか、佳奈美への恋心が瑞月に知れたところで、たいした問題じゃない気がする。むしろ佳奈美との仲を進展させるため、協力してくれる可能性だってゼロじゃない。三パーくらいある。瑞月の協力でかえって仲が悪化する可能性は……二十パー。あ、ダメだわ。
いや、でもひとりじゃなんもできないヘタレモブなんだから、この際わずかな可能性に賭けてみるのもひとつの手だ。うん、いっそ仲を取り持ってくれと土下座しなよ、ご主人様。
「好きだよな綾野のこと? 付き合って、ちゅ~したり、エッチしたいよな?」
「あ……う……や」
ご主人様は呻き、視線はあちこち泳ぎ回る。認めるか否 か、心中激しく葛藤してるのはわかるけど、そろそろそれも限界か。それに曖昧な答えじゃ、瑞月の性格上見逃してくれないことは、幼馴染のご主人様がよくわかってるはずだ。
ついに観念したのか、ご主人様は机に両手をバンッとついた。そのまま頭を下げて白状する……――かと思いきや。
「……好きじゃない」
いやはや、中学生男子の体裁や羞恥心は、あたしが想像するよりも強固で、肥大していて、そしてなにより幼稚だった。
ご主人様は勢いよく立ち上がると、大声で言い放った。
「好きじゃない! 綾野なんて全然好きじゃない! なに言ってんだ! あんなヤツ、どっちかっつうと嫌いだし! 付き合うなんてありえねえ!」
ご主人様が大嘘をぶちかましたのと、廊下の方でキュッと、リノリウムの床をこする足音が聞こえたのは同時だった。
反射的にご主人様が教室のドアを見る。あたしも見る。その嵌 めガラスの向こうで、ほんの一瞬、誰かの影が横切った気がした。顔は確認できなかった。けれどサッとなびいた黒髪の長さは、ご主人様がいつもこの席から横目で盗み見ている隣席の彼女――佳奈美のそれと同じ気がしてならなかった。
「伸、今、廊下にいたのって……」
瑞月は珍しく真面目な表情で、今はもう誰もいないドアの向こうを凝視している。
「あたしには綾野だった気がしなくもないっていうか、逆にあったように思えなくもなくて」
「どっちだよっ」
ご主人様もまたドアの方を見つめたまま、焦燥をにじませる。
「あたしもちらっと見ただけだよ。ていうかおまえは見なかったの? 好きな子なら見間違わないよな?」
「いや、俺も顔はほとんど……」
〝好きな子〟を否定する余裕もなくなっている。そりゃそうだ。秘 かに想いを寄せる女子をあんなヤツ呼ばわりして、本心とは真逆の嫌い宣言。それを本人に聞かれていたら、もう、なんていうか、状況的に大爆笑……じゃなかった。大爆死もいいところ。このままだとバッドエンド直行ですよ、ご主人様。
「どうしよう……」
最悪の可能性を想像し、立ちすくむご主人様。その顔は青ざめ、世界の終焉に直面したかのような面持ちだ。
あ~あ、情けないったらありゃしない。最悪の状況に留まっていたら、そこはいつまで経っても最悪。最悪の泥沼だってことになぜ気づかない。今するべきことはなに? ここでぼ~っと突っ立ってることではないはずだ。
「なにしてんの伸!」
それに気づいたのは、瑞月のほうだった。
「早く行って! 行けよ! 追いかけてたしかめてこいバカ!」
正解。恋はいつだって、すぐ目の前を素早く通り過ぎていく。それを手に入れたいなら、自分も全力で突っ走る必要があるんだ。うむ、恋愛マスター(自称)、けだし名言。
「でも……」と、この期 に及んで躊躇する童貞ヘタレモブ。瑞月はご主人様の机のフックに掛かっていた通学バッグを、彼の胸に投げつけた。
「綾野だったらシャレにならない! 行って誤解解かないと! 好きなんだろ綾野のこと!」
瑞月の剣幕に衝き動かされたのか、ご主人様はハッとし、ようやくうなずいた。
「行ってくる!」
ご主人様は通学バッグを抱え、踵 を返した。やりかけの数学の宿題は、机の上にほっぽらかしだけどしかたない。数学教師には月曜日たっぷり説教されればいい。あるいは瑞月が代わりにやって提出してくれる可能性は――それはない。
その瑞月の声が、ドア口へ駆けてくご主人様の背をさらに押した。
「ビシッと決めるんだぞ伸!」
ご主人様は悲壮感あふれる表情で、教室を飛びだした。
そのとき――。
それは気のせいだったかもしれない。空耳だったかもしれない。ご主人様とともに廊下を駆けだしたあたしの耳に、教室内から瑞月の声が聞こえたように思えた。
〝あたしの初恋終了、か〟
か細い声は、佳奈美のことで平静を失ってるご主人様には、きっと届かなかったはずだ。あたしはその言葉の意味を考えかけて、けれどやめた。ご主人様に従属し、彼の道具で、自由意志のないあたしには意味のないことだから。
あたしはただ、誰にも届かない瑞月の声を、そっと胸にしまいこんだ。
次の日も、そのまた次の日も、教室での
一見普段どおり振る舞ってはいる。が、あたしにはそれが
あたしがそれに気づいてるってことは、佳奈美にベタ惚れで、視線でストーキングしてるようなご主人様も当然感づいてるはずだ。
けれどご主人様はそのことで佳奈美自身に尋ねたりはしない。心配で悶々としてるくせになにもしない。今はそっとしておこうという気遣いってヤツか? いやいや、意気地がないだけだ。ヘタレなんでしょ?
そんなヘタレご主人様は本日、佳奈美のことを考えるあまり数学の宿題を忘れた。当然、数学教師から怒られ、今日中の提出を命じられた彼は、放課後ひとり居残ってそれに取り組んでいる。
二年A組、窓際の一番うしろ、うんうん唸りながら問題集に向かってシャーペンを動かすご主人様。
今日は土曜日。授業は午前中で終了し、時刻は一時を少し過ぎた頃。窓からは九月の強い日差しが注がれ、室内を光と陰で切り取っている。かすかに聞こえてくるのは合唱部のものと
苦手な数学だから、思うようにはかどっていない。ていうか、得意な科目なんてご主人様にはないんだけどね。
「わかんねーな。なんでだ?」
あんたの頭が悪いからさ。
そんなあたしのツッコミもご主人様の耳には届かず、彼は眉間にしわを寄せて、頭をかしげた。その拍子に視線が隣席に留まる。
佳奈美のことが気がかりなのだろう。彼女に射す影の原因はなんなのか。それを取り払ってあげたい――という気持ちはあるのに、実行に移す勇気がない。結局、ご主人様にできることは、片想いの相手の机を眺め、その名を呟くことだけだった。
「ああ、綾野……」
気持ち悪っ。
やべ、つい本音が。まあ、こんなとき映画やドラマだったら、佳奈美が偶然教室を訪れ、ご主人様とふたりだけのシーンが幕を開けたりするんだろうけど。現実はそんな甘くない。
不意に教室のドアがガラリと開いた。
現実甘かったか?
「あ、
佳奈美はこんなこと言わない。
ご主人様がぎょっとする中、ひとりの女子生徒がドア口からご主人様のほうへずかずか歩いてくる。ショートカットに卵型の顔、くりっとした瞳を悪戯っぽく輝かせた少女は、中性的な雰囲気と、
「なんだ、
うんざり気味にその名を口にするご主人様。あたしももちろん知っている。
彼女の名は
「なんだじゃないよ。エロ動画見て、右手上下運動してたんじゃないの? このムッツリが」
「見てねえし。ていうか、下品な会話に俺を巻き込むな」
自他ともに認める下ネタ好きの瑞月は、ニシシと笑いつつご主人様の前席に腰を下ろした。
「で、実際なにやってんのおまえ? 数学?」
「今日中に提出する宿題」
「ああ、数学の川本に説教食らってたもんな。相変わらずバカだなあ」
「瑞月にだけは言われたくねえ。この前の数学のテストの点、言ってみ」
「七点。百点満点中ね。すごいよね? ラッキーセブン」
「おまえってたくましいのな」
ご主人様はやれやれといった表情で「邪魔しないで、とっとと帰れ」と、手で追い払うしぐさをする。でも瑞月はそれを無視し、スカートのポケットから手鏡を取り出すと、髪を整えだした。
「残念、帰りません。カレシの委員会終わるの待ってんだ」
ご主人様は「そういうことか」と、肩をすくめた。
あたしも納得。ひと月ほど前の夏休み中盤、瑞月が暑中見舞いに、
今はそのカレシとの待ち合わせのために居残り、ご主人様はそれまでの暇つぶしの相手というわけだ。
ご主人様は「リア充め」と舌打ちしたが、それ以上はなにも言わず、再び宿題に取り組みだした。邪険な態度を取らないのは、幼馴染の恋を本心では応援してるからだろう。
自分の恋もままならないくせに。
ご主人様の恋愛への煮え切らない態度を思い、あたしも舌打ちした。当然ご主人様は気づかない。あたしにはどうしたって彼を叱咤したり、
などとあたしがぐちぐち愚痴る中、瑞月が手鏡を覗き込んだまま言った。
「伸はさあ、カノジョとか欲しくないの?」
ご主人様のシャーペンを動かす手が止まった。おそらくご主人様の脳裏には佳奈美がよぎったに違いない。おっ、これ、瑞月がヘタレご主人様の背を押す展開にならないかしら。
あたしが期待感を持って見つめる先、瑞月はご主人様へ顔を向けた。
「好きな女いないの?」
「そんなのいりゅわけないだろ」
噛んだ。今明らかに噛みましたよ、こいつ。ご主人様は何事もなかったように、思案顔で数学の公式を呟きだす。その様子に、瑞月は不敵な笑みを浮かべた。
「嘘だ。絶対いるね。当ててやろうか? ん?」
すまし顔で無視するご主人様。瑞月は手鏡をしまい、顎先に指を当てて考えるそぶりを見せたあと、言った。
「ずばり、国語の小笠原」
「定年間近だろ」
「伸って熟女好きじゃないの?」
「熟女好きじゃねえよ」
瑞月はおかしいなと小首をかしげて唸った。その態度がどことなくわざとらしい。やがて瑞月は手をポンッと叩き、それからご主人様の鼻先へ指を突きつけた。
「じゃあ、
「なっ……」
ご主人様は目を白黒させ、絶句した。手からシャーペンが零れ、コロコロ転がって机から落ちても拾おうとしない。ニタッと笑う瑞月を呆然と見つめる顔が、しだいに赤くなっていく。
「そ、そんなわけ……あるかっ」
ようやく振り絞った声は裏返ってるし、汗も尋常じゃないくらいかいている。ご主人様の背後に〝図星〟の文字がドンッと浮かび上がってるみたいだ。
まあ、瑞月の態度からして、前から察していたのは間違いない。ご主人様の意中の相手が佳奈美だってことに。そのへんはさすが幼馴染。鋭い。
瑞月は床に落ちたシャーペンを拾い、それでご主人様の胸を軽く突っついてきた。
「おまえ、いっつも綾野のこと見てんじゃん。ずっと前からさ。熱くてエロい目で。頭ん中で裸想像してそうな感じで。な? 吐いちゃえ吐いちゃえ、釘坂伸よお」
追及の手を緩めない瑞月に、ご主人様はひとことも返せない。狼狽のあまり、思考が停止してしまったかのようだ。
ああ、もう認めればいいのに。バレバレなんだから。
ていうか、佳奈美への恋心が瑞月に知れたところで、たいした問題じゃない気がする。むしろ佳奈美との仲を進展させるため、協力してくれる可能性だってゼロじゃない。三パーくらいある。瑞月の協力でかえって仲が悪化する可能性は……二十パー。あ、ダメだわ。
いや、でもひとりじゃなんもできないヘタレモブなんだから、この際わずかな可能性に賭けてみるのもひとつの手だ。うん、いっそ仲を取り持ってくれと土下座しなよ、ご主人様。
「好きだよな綾野のこと? 付き合って、ちゅ~したり、エッチしたいよな?」
「あ……う……や」
ご主人様は呻き、視線はあちこち泳ぎ回る。認めるか
ついに観念したのか、ご主人様は机に両手をバンッとついた。そのまま頭を下げて白状する……――かと思いきや。
「……好きじゃない」
いやはや、中学生男子の体裁や羞恥心は、あたしが想像するよりも強固で、肥大していて、そしてなにより幼稚だった。
ご主人様は勢いよく立ち上がると、大声で言い放った。
「好きじゃない! 綾野なんて全然好きじゃない! なに言ってんだ! あんなヤツ、どっちかっつうと嫌いだし! 付き合うなんてありえねえ!」
ご主人様が大嘘をぶちかましたのと、廊下の方でキュッと、リノリウムの床をこする足音が聞こえたのは同時だった。
反射的にご主人様が教室のドアを見る。あたしも見る。その
「伸、今、廊下にいたのって……」
瑞月は珍しく真面目な表情で、今はもう誰もいないドアの向こうを凝視している。
「あたしには綾野だった気がしなくもないっていうか、逆にあったように思えなくもなくて」
「どっちだよっ」
ご主人様もまたドアの方を見つめたまま、焦燥をにじませる。
「あたしもちらっと見ただけだよ。ていうかおまえは見なかったの? 好きな子なら見間違わないよな?」
「いや、俺も顔はほとんど……」
〝好きな子〟を否定する余裕もなくなっている。そりゃそうだ。
「どうしよう……」
最悪の可能性を想像し、立ちすくむご主人様。その顔は青ざめ、世界の終焉に直面したかのような面持ちだ。
あ~あ、情けないったらありゃしない。最悪の状況に留まっていたら、そこはいつまで経っても最悪。最悪の泥沼だってことになぜ気づかない。今するべきことはなに? ここでぼ~っと突っ立ってることではないはずだ。
「なにしてんの伸!」
それに気づいたのは、瑞月のほうだった。
「早く行って! 行けよ! 追いかけてたしかめてこいバカ!」
正解。恋はいつだって、すぐ目の前を素早く通り過ぎていく。それを手に入れたいなら、自分も全力で突っ走る必要があるんだ。うむ、恋愛マスター(自称)、けだし名言。
「でも……」と、この
「綾野だったらシャレにならない! 行って誤解解かないと! 好きなんだろ綾野のこと!」
瑞月の剣幕に衝き動かされたのか、ご主人様はハッとし、ようやくうなずいた。
「行ってくる!」
ご主人様は通学バッグを抱え、
その瑞月の声が、ドア口へ駆けてくご主人様の背をさらに押した。
「ビシッと決めるんだぞ伸!」
ご主人様は悲壮感あふれる表情で、教室を飛びだした。
そのとき――。
それは気のせいだったかもしれない。空耳だったかもしれない。ご主人様とともに廊下を駆けだしたあたしの耳に、教室内から瑞月の声が聞こえたように思えた。
〝あたしの初恋終了、か〟
か細い声は、佳奈美のことで平静を失ってるご主人様には、きっと届かなかったはずだ。あたしはその言葉の意味を考えかけて、けれどやめた。ご主人様に従属し、彼の道具で、自由意志のないあたしには意味のないことだから。
あたしはただ、誰にも届かない瑞月の声を、そっと胸にしまいこんだ。