文字数 4,764文字

    一

 ご主人様はどんなひと? 平凡でつまらない意気地なしのガキ。即答。
 十三年前、田舎の小さな産婦人科で、ご主人様がおぎゃぁと誕生したときからの関係で、あたし、彼に絶対服従の立場だから、あまり悪くは言いたくないんですけどね。
 でもしかたない。内面的にも外面的にもホント、これといった特徴がないんだもの。十三年(つか)えてるあたしの目で見てそうなんだから、世間一般的には、ご主人様は間違いなく、非の打ちどころのない、完全無欠の――脇役。モブキャラクター。うん、モブだモブ。ちなみにご主人様の名はノブだ。
 釘坂(くぎさか)(のぶ)。十三歳。全校生徒二百人ほどの市立中学校に通う二年生。
 その二年A組、窓際の一番うしろが、ご主人様の席だ。
 朝のホームルーム前、クラスメイトが続々登校してくる中、ご主人様はすでに着席し、頬杖ついて文庫本をめくっている。趣味読書。これまた平凡。モブっぽい趣味だこと。
 そんなご主人様が開いているのは『君と恋と花火の夏』。
 本の帯にわざわざ〝コイナツ〟って略称も書いてあるそれは、ベタな恋愛小説で、昨日、クラスメイトから勧められたご主人様は、さっそく放課後に駅前書店で購入。昨夜は遅くまで熱心に読んでいた。
 が、そんなご主人様のくせに、今は読書をしてるようで、じつはしていない。読んでるふり。
 中学生になって生意気な感じになってきた双眸は、コイナツの文を上滑りし、何度も逸れ、隣の空席と、教室の出入り口を交互に盗み見ている。
 ちらっちらっ、ちらっちらっ。周りのクラスメイトは気づいていない様子だけれど、あたしには一目瞭然。だてに十三年間従属、隷属(れいぞく)していない。
 あ、言い忘れていたことがひとつ。あたしはこんなふうに三百六十五日二十四時間、ご主人様とともにいる。イヤでもいなきゃダメなの。あたしの意志なんてそこには皆無。ご主人様に服従し、存在すべてを掌握されてるあたしは、こうやって彼の(もと)で、必要とされるそのときが来るまでひたすら待機し続ける運命だ。
 なんていうか、あたしは……そう、道具。強いて言うなら武器のようなもの。おや、今思いついた(たと)えにしては悪くない。
 あたしはご主人様の武器。それもきっと、この世界でもっとも強力で崇高で美しい、かけがえのない武器だ。ひとたび発動すれば狙いは外さない。相手の胸を寸分のくるいもなく貫き、一瞬でしとめるだろう。ふふん、やば、なんかテンションあがってきた。
 まあ、そんな一撃必殺のあたしを、凡庸で、温厚で、日和見(ひよりみ)主義なモブことご主人様は、生まれてこのかた一度も使ったことがないのだけれど。
 不意にご主人様の肩がピクリと動いた。教室の出入り口に向けていた視線をコイナツへ引き戻し、小さく咳払いをひとつ。涼しげな顔を取り繕いながらも、身体が若干強張ったのが、あたしにはわかった。
 控えめな足音が近づいてくる。それにつれて、ご主人様の顔に赤味が差したことに気づき、あたしは秘かに鼻で笑った。
 意識しすぎだ……――この童貞モブめ、と内心毒づいてると、楚々(そそ)とした足音はご主人様の隣席で止まった。
「おはよう、釘坂くん」
 川のせせらぎに似た澄んだ声。しとやかな息遣い。ご主人様は頬杖を外し、平静を装う緩慢な動きで顔を向けた。
 そこには夏用制服に、細身の姿態を包んだ少女がたたずんでいた。肩までの黒髪に、健康的な肌艶(はだつや)。小筆で引いたような眉とつぶらな瞳が印象的。桃色の唇は慎み深い笑みを浮かべ、整った顔立ちを、より愛らしく見せている。
 残暑の季節だというのに、春の陽だまりを思わせる少女の名は、綾野(あやの)佳奈美(かなみ)。成績優秀、容姿端麗、おまけに性格もよいと評判で、男女問わず慕われている彼女こそ、目下ご主人様が絶賛片想い中の相手だ。
「はよ」
 ご主人様はそっけなく応じた。
 けれどこいつ、口元がにやけそうになるのをこらえている。あたしの目はごまかせない。きっとご主人様は、一週間前の席替えで、憧れの彼女の隣になったことを、今日もまた神に感謝しているはずだ。アーメン。
「あ、釘坂くんの読んでるのって」
 椅子に腰を下ろした佳奈美が、ご主人様の手元の文庫本に目を留めた。睫毛の長い瞳が、ぱちぱちっと瞬きする。
「ん? ああ、コイナツ」
 気のない調子で答えるご主人様。
 いや、あんたこれ狙ってたんでしょーが。佳奈美にタイトルが見えるよう、本の持ち方絶妙だったじゃん。策士。モブのくせに。
 まあ、そんな姑息なアピールをするのもしかたない。なにせこのコイナツを、昨日ご主人様に勧めてきたのが佳奈美なのだから。好意を寄せる女子から勧められた本を、その翌日に購入アピール……――必死過ぎて引くわ~。
 などとあたしなんかは鼻白むけど、佳奈美はそうでもないようだ。星を散りばめた瞳をさらに輝かせて「わたしのおススメ。さっそく買ってくれたんだね」と、にっこり笑った。
 その可憐な笑顔に一瞬見惚(みと)れたご主人様は、それをごまかすため、そそくさとコイナツに目を移した。
「まだ二章の途中だけど、けっこうはまってる」
「ホント? よかったあ。つまらないって思われたらどうしようって思ってたの。釘坂くん、読書好きだから、ハードル高いかな~って」
 佳奈美は顔を上気させ、ご主人様のほうへ身を乗りだしてきた。
「二章のどのあたり?」と、ページを覗き込む。必然的にふたりは近づき、肩と肩が触れ合った。ああ、この近さは童貞には毒だわ。
 たぶんご主人様は、佳奈美のほんのり甘い香りで、くらくらしてるだろう。視界には彼女の横顔、そのきめ細かい柔肌がいっぱいに映し出され、鼓動が跳ね上がってるはずだ。反して身体は身じろぎすらできず、ただ生唾を呑み込んでひとこと。
「二章のあたり」
 ハハハ、なんだその返答。アホなのか。
 けれど佳奈美のほうは、アホなご主人様を気にしたそぶりもない。コイナツに目を落としたまま声を弾ませる。
「あ、(ひかる)樹里(きり)が付き合いだしたところ? 初デートだよね」
 作中の主人公とヒロインの名を口にし、その光景を想像したのか、表情をうっとりさせる。
「このふたり、いいなって思うんだ。あたしとっても好き。初々しくて、不器用で、でもまっすぐなふたりの恋。読んでるこっちまで幸せにしてくれるから。こういう恋愛できるのって、ちょっとうらやましい」
 夢中で語る佳奈美の姿は、年齢より幼く見える。ナチュラルにかわいいとあたしですら思うのだから、ご主人様はたまらんだろ。昇天したか。いや相変わらず固まっている。
 佳奈美は陶酔気味に息をつき「釘坂くんもそう思わない?」と、くるっと顔を向けた。
「!」
 そこではじめてご主人様との近さに気づいたのか、ハッとした。現在ふたりの顔は、はずみでキスしそうなほどの距離。ラブなハプニングが起きるとしたら、今この瞬間だ。どうするご主人様?
「……」
 けれどモブキャラはひたすら硬直してましたとさ。お・し・ま・い。
 そんな終わってるご主人様の目と鼻の先で、佳奈美は見る見るうちに赤面した。
「ひゃ」と、喉の奥で小さな悲鳴を上げて、小動物じみた素早さで身を引いた。その拍子(ひょうし)に椅子の(かど)に肘を強打。痺れてる痺れてる。時折見せるこういうドジッ()な部分も、彼女を親しみやすくしている。
 佳奈美は身悶えつつ、ばつの悪さを隠すように、早口でコイナツの話を続けた。
「ほ、ほら、このお話、脇役も魅力的だと思わない? (おさな)馴染(なじみ)とか、従兄弟(いとこ)のお兄さんとか。でもドロドロしないし、基本いいひとなんだよねみんな。読みやすくて、展開も早いし」
 ご主人様もまた動揺を気取られまいと、慌てて相槌(あいづち)を打った。
「それは俺も思った。マジ思った。まさか二章で光と樹里が付き合うって予想外だった。普通終盤だろって。そこまで引っ張らないのかって」
「だよね? だからかえってハラハラしちゃった。この先ずっとふたりにはラブラブでいてほしいけど、なにか起きてほしくないことが起きちゃう気がして」
「やっぱ、ここから一波乱あるのか」
「それは――……」
 佳奈美は不意に口をつぐんだ。その顔からすっと表情がなくなる。生き生きとしていた瞳は輝きを失い、唇の端がかすかに震えた。訪れた沈黙が妙に重々しく不自然で、今まで気にならなかった教室内の喧騒がふたりを呑み込んだ。
「綾野?」
 佳奈美に差した影の濃さに、ご主人様も気づいた。怪訝顔で「どうかしたか?」と窺う。その声に佳奈美はゆっくり瞬きを二回し、それからようやく首を横に振った。
「なんでもない、なにもないよ」
 けれど言葉尻は弱々しく、浮かべた笑みはぎこちない。まなざしはさびしげで、睫毛は心細げに揺れ動く。さっきまで溌剌(はつらつ)とコイナツを語っていたのに、今は沈鬱な気配が漂う。
「釘坂くん、まだ読んでる途中だもんね。これ以上言ったらネタバレになっちゃう」
 教壇のほうへ向き直りながら、佳奈美はそう言った。あきらかに作り笑いと思える笑顔で会話を終了させ、一時限目の教科書を開く。まるでうなだれるみたいに、彼女はそこに目を落とした。
 むむむ、なんかあったっぽいぞ、これは。
 ご主人様と四六時中一緒にいるあたしは、必然的にご主人様と同じくらい佳奈美のことを見てきた。だから彼女の態度が、小説のネタバレなんかを気にしたものだとは、とうてい思えない。もっと深刻ななにか。たとえば手に負えない悩み事でも思い出し、胸が苦しくなったみたいな……。
 う~ん、気になる。ご主人様の片想いの相手だからというわけじゃなく、この子はいい子だから。思いやりがあって、ひとのことを親身になって考えられる。責任感も強い。そういう言動を自然と取れるから、周りの人間に慕われ、信頼も厚い。
 本当に物語のヒロイン的女の子。そういうところにご主人様も惚れたんだろう。モブのくせにさ。
 まあ、それはともかく、そんな佳奈美だから、困ってるときは手を差し伸べたくなる。なんとかしてあげたい衝動に駆られる。
 でも残念だけど、あたしには無理なんだ。彼女の悩みを尋ねることすらできない。なぜかって? そりゃああたしに自由なんか、(ちり)ほどもないから。ご主人様の所有物であるあたしに、あたし自身の意志で行動することは許されていない。ホント、超理不尽。
 となると、ここはご主人様の出番か。ていうかチャンスじゃね? 佳奈美の抱えてる問題を解決してあげれば、いくら存在感希薄なモブ男子でも好感度は上がるはず。
 そう思って、あたしはご主人様に期待した。が、
「……」
 沈黙は金なり状態。いや、そんなの金にならん。恋の借金地獄まっしぐらだ。
 心配顔で彼女を見つめるだけのご主人様は、しばらくして、無力感漂う目をコイナツへ動かした。読む気分ではないくせに。気持ちは佳奈美の方へ向いてるくせに。文字の羅列をぼんやり眺め、無意味にページを二度めくったあたりで、予鈴が鳴った。
 あたしはひとり呆れて、頭を振る。
 モブらしいと言えばモブらしい。まあ、ただの意気地なし。ヘタレってヤツだけどね。
 でもご主人様、これだけは教えておいてあげる。世の中なんにもしないとなんにも得られないってこと。それは道理で摂理。そしてきっと恋もその例外じゃないんだと、恋愛マスター(自称)のあたしは声を大にして言いたい。
 まあ、あたしの声なんか、ご主人様には聞こえないんですけどね。
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登場人物紹介

釘坂 伸(くぎさか のぶ)


平凡、普通、凡庸なモブキャラクター的中学生。

綾野 佳奈美(あやの かなみ)


容姿端麗、成績優秀、性格もよい、ヒロイン的少女。

“あたし”


物語の語り手。伸をご主人様と呼び、常に一緒にいるようだが……。

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